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18-1 ノゾミとオモイ

「・・・ヒンッ!!」


 声にならない、獣が喉の奥で押し殺したような短く低い呻きが、ノゾミの口から漏れた。それはターフを揺るがす大歓声にかき消されるほど微かで、しかし、すぐそばにいた三津の耳には、心臓を直接掴まれるような衝撃となって届いた。


 ウイニングランの途中、鞍上の三津は、愛馬の四肢がもつれるような、今まで一度も感じたことのない異様な挙動に気づき、反射的に、しかし必死に手綱を引き、その体を支えようとした。


 だが、ノゾミの巨体は、三津の必死の制御も空しく、激痛に耐えかねるように大きく体勢を崩した。


「ノゾミッ! おい、どうしたんだ!しっかりしろ!」


 三津は地面に飛び降りるや否や、愛馬の元へ駆け寄った。そこに広がっていたのは、悪夢という言葉ですら生ぬるい光景だった。ノゾミの右後脚は、ありえない方向にぐにゃりと折れ曲がり、白い骨の先端が皮膚を突き破って覗いている。鮮血が、夕陽に照らされた緑のターフを禍々しく濡らしていく。


 獣医の白衣が、夕焼けの赤なのか、それとも鮮血の赤なのか、判別できないほどに染まっていく。


 駆けつけた獣医師は、ノゾミの右後脚を慎重に、しかし迅速に触診した。彼の絞り出すような声が、周囲のわずかな希望すら打ち砕くように響いた。


「右後脚、第三中足骨の複雑開放骨折・・・それも、粉砕に近い極めて重篤な状態です。主要な血管と神経も広範囲に損傷している可能性が高い。

 正直に申し上げて、競走能力の回復は、万に一つも・・・いえ、この状態では生命を維持することすら極めて困難です。

 これほどの重傷馬には、これ以上苦痛を与えないための選択も・・・考えなければなりません」


 彼の言葉は、残酷な宣告だった。「苦痛を与えないための選択」

 ――それは、安楽死という非情な現実を意味していた。競走馬にとって、この種の怪我は絶望的であり、多くの場合、安楽死という苦渋の決断が下される。その事実を、この場にいる誰もが痛いほど理解していた。

 スタンドからは、もはや悲鳴とも嗚咽ともつかない、押し殺したような低い呻きが地鳴りのように聞こえてくる。


 事態を把握して、馬主席から駆けつけたケイゾーは息を切らして言葉を紡ぐ。


「・・・先生」


 ケイゾーが、震える声で獣医師に詰め寄った。


「それでも・・・それでも、万が一でも、助かる可能性が・・・ほんの僅かでもあるのなら・・・。

 どうか、どうかノゾミを助けてください! あいつは、ただの競走馬じゃないんです。私たちにとっては・・・希望そのものなんです。

 そんな馬を、こんな形で失いたくない・・・!」


 魂の叫びだった。獣医師は、その痛切な願いを受け止めた。数秒間固く目を閉じた後、静かに、しかし強い意志を込めて言った。


「・・・分かりました。現在の獣医療で考えうる、ありとあらゆる手を尽くしましょう。

 ですが、覚悟してください。これは、奇跡を求めるに等しい、極めて困難な戦いになります。それでも、皆さんのその想いに、我々も全力で応えます。一刻の猶予もありません。競馬場併設の診療施設では対応できません。直ちに専門の動物医療センターへ搬送します。

 馬運車の手配を急いで!神埼先生のところだ!」


 獣医師の男の指示が飛ぶ。ターフの上で、ノゾミの患部には迅速に応急処置が施され、痛み止めが慎重に投与された。静かに、しかし素早く馬運車がターフ脇に乗りつけられる。


 スロープが下ろされ、獣医師、厩務員、そしてクニモトやイマナミが息を殺してノゾミを囲み、細心の注意を払って巨体を車内へと誘導しようとする。ノゾミは、時折、苦痛に身を震わせるが、暴れる体力は既になく、ただ荒い息を繰り返すだけだった。

 しかしそれでもノゾミは、まるで最後の力を振り絞るように、愛するターフをじっと見つめていた。その瞳には、無念と、言葉にできない何かが宿っているようだった。


 三津は、震える手でノゾミの汗に濡れた首筋を優しく、何度も何度も撫でた。


「大丈夫だ、ノゾミ・・・大丈夫だからな・・・。必ず、必ず治して、また一緒に走ろう。約束だ」


 声が震える。それでも、三津は必死に言葉を紡いだ。


 ーーーーーーーーーー


 馬運車は、郊外にある中央家畜高度医療センターの救急搬入口に滑り込んだ。まるでこの到着を予期していたかのように、数名のスタッフが待機しており、息の合った動きでノゾミの受け入れ準備を進める。

 やがて、馬運車の後部ドアが開くと、中から最初に現れたのは、白衣をまとった一人の若い女性だった。

 その涼やかな目元には、若さに似合わぬ深い洞察力と、鋼のような意志の強さが感じられた。


「状況は?」


 神崎が、競馬場から付き添ってきたベテラン獣医師に簡潔に問う。


「第三中足骨の重度複雑開放骨折。粉砕に近い。応急処置は済ませてあるが、出血は止血剤で抑えているものの、予断を許さない。あとは・・・頼む」

「わかりました。情報は十分です。あとは私と私のチームに任せてください」


 神崎は力強く頷き、ノゾミの傍らへ進むと、その瞳を覗き込み、そして静かに患部に触れた。一瞬、彼女の眉が微かに動いたが、すぐにいつもの冷静沈着な表情に戻った。


「最善を尽くします」


 神崎はそう言ったのち、一呼吸置き、関係者たちの不安と期待が入り混じった視線を真正面から受け止め、はっきりと宣言した。


「・・・いいえ、必ず助けます」


 その言葉には、微塵の揺らぎもなかった。その確信に満ちた表情と声は、関係者たちの凍りついた心に、一条の力強い光を灯した。


 手術室へと続く冷たい廊下を、ノゾミは大型のストレッチャーに乗せられ、運ばれていく。麻酔で意識が遠のいていく中も、彼の瞳の奥には、拭い去れない不安と痛みの残滓が、小さく揺らめいていた。


 やがて、手術室の重い扉が閉ざされ、非情な赤いランプが点灯する。三津は、血が滲むほど固く拳を握りしめ、まるで神に祈るように、その赤い光を凝視していた。



 手術室に入り、神崎は集まった獣医チームを一瞥した。


「それでは、始めます。皆さん、よろしくお願いします」


 神崎の凛とした声が、静まり返った手術室に響いた。神崎の合図と共に、運命を左右する手術が始まった。

 彼女率いる獣医チームは、国内外から集められた最新鋭の医療機器を駆使し、まるでパズルを組み上げるかのように、ノゾミの骨折した脚を修復していく。


 ミリ単位で折れた骨片を繋ぎ合わせ、損傷した血管や神経を、息を殺して修復する。一瞬の油断も、微細なミスも許されない、極度の緊張を孕んだ時間が、一秒、また一秒と刻まれていく。


「マイクロ鉗子。・・・バイタル、安定してる?」

「はい。現在安定しています」

「よし。続けて」


 神崎は、額に滲む汗を助手に拭わせる間も惜しむように、高性能の顕微鏡を覗き込み、髪の毛よりも細い血管を、揺るぎない指先で丁寧に縫合していく。彼女の集中力は、極限まで高められていた。その姿はまるで精密機械のようでありながら、同時に深い愛情を持って命と向き合っているかのようでもあった。


「・・・この神経だけは、絶対に傷つけられない。吸引、もっと丁寧に」


 低い声で指示を出しながらも、彼女の手は止まらない。助手たちは、滅菌された器具を的確なタイミングで手渡し、手術の進行を全力でサポートする。手術室に響くのは、神崎の冷静な指示の声、金属の器具が触れ合う乾いた音、そして生命維持装置の無機質な電子音だけだった。

 ふと、顕微鏡から一瞬だけ目を離した神崎が、麻酔で眠るノゾミの顔のあたりに視線を送り、本当に小さな声で呟いた。。


「・・・骨片の固定、完了しました。プレート及びスクリュー、全て挿入確認」

「ふぅーやった・・・」


 若い助手の声が、張り詰めた手術室の空気をわずかに揺らす。神崎は、縫合箇所を複数の角度から慎重に確認し、小さく、しかし確かな力強さで頷いた。


「よし、次は皮膚の縫合。最後まで集中力を切らさないで」


 手術は、夜の闇が白み始める直前まで続いた。神崎は、疲労の色を隠せないまでも、最後の縫合を終えると、マスクの下で深く、長い安堵の息を漏らした。

 そして、数時間後。朝日が窓を薄赤く染め始めた頃、手術室の扉が静かに開いた。憔悴しきった神崎が、それでも確かな光を宿した瞳で立っていた。



「手術は・・・現段階で考えうる限り、成功です。・・・正直に申し上げて、これほど厳しいオペは私も経験がありませんでした。

 獣医学の常識を超えるほどの損傷でしたが、あらゆるリスクを覚悟の上で、私たちは全力を尽くしました。

 予断は・・・決して許しません。感染症、拒絶反応、血行障害・・・乗り越えなければならない壁は無数にあります。

 ですが、ノゾミ自身の驚異的な生命力と、そして何よりも、皆さんの『生かしたい』というその強い想いが、彼に力を与えたのかもしれません。

 今は・・・今はただ、この小さな光を信じましょう」


 神崎の言葉に、夜通し待ち続けたクニモト、イマナミ、ケイゾー、アオキ、そして三津の5人は、崩れ落ちるように安堵の息を漏らした。ノゾミは、まだ深い麻酔から覚めていない。しかし、モニターに映し出されるそのバイタルサインは、弱々しいながらも、力強く、生への執着を示しているようだった。


 そこへ、もう1人、硬い表情で、しかしその瞳の奥に深い苦悩をたたえた影があった。

サカイだった。

彼は、手術の成否が判明するまで、一人離れた場所で静かに結果を待っていた。ケイゾーたちの前に進み出ると、彼は深々と頭を下げた。


「今回の事態、全ての責任は、最終調整のメニューを組み、その実行管理を行った私にあります。国本先生、河合オーナー、そしてノゾミに関わってこられた全ての皆様の信頼を裏切る結果となり、弁解の言葉もございません」


 その声は落ち着いていたが、一言一言に万鈞の重みが込められていた。嗚咽も、取り乱した様子もない。ただ、己の責任を一身に背負う覚悟だけが、その静かな佇まいから痛いほど伝わってきた。

 クニモトが、そのサカイの肩にそっと手を置いた。


「サカイ・・・。お前の責任感の強さは、誰よりも俺が分かっている。だが、最終的なGOサインを出したのは、この俺だ。全ての責任は、調教師である俺が負う。

 河合オーナー・・・このようなことになってしまい、本当に、申し訳ありませんでした」


 クニモトは、サカイの分まで背負うかのように、深く頭を下げた。それに倣うように、イマナミも、そして三津も、唇を噛み締めながら頭を垂れた。


「・・・いや・・・顔を上げてください」


 ケイゾーが絞り出すように言った。


「俺も、長年馬産に携わってきたからわかる。ノゾミは、今日のレース、間違いなく過去最高のコンディションだった。オレから見てもどこも悪いように見えなかった。

 誰が悪いわけでもない。とそう思いたい。今は・・・。

 今はただ、ノゾミが・・・本来なら諦めなければならなかったかもしれない命を、何とか繋ぐことができた。そのことだけを、良かったと思わないと・・・前へ進めない」


 そう言うケイゾーの表情は、深い悲しみと苦悩に翳っていた。しかし、彼は無理やり自分を奮い立たせるように、重たい空気の中でソファーから立ち上がり、パンッ、と乾いた音を立てて手を叩いた。


「みなさん、今日は・・・いえ、昨日は、ノゾミのために不眠不休で本当にありがとうございました。獣医の先生方のおかげで、そして皆さんの祈りのおかげで、ノゾミは何とか、本当に何とか、一命を取り留めることができました。

 今日はもう遅いですし、一度、解散しましょう。ノゾミのことは、病院と連携を取りながら、私が責任を持って見守ります」


 ケイゾーは努めて明るく言った。時計の針は、既に午前3時を大きく回っていた。その宣言で、6人は重い足取りで一度病院を後にすることになった。クニモトとサカイは、何度も何度も頭を下げ、まるで罪人のように悄然と病院を後にした。そしてケイゾーとアオキは、牧場の経理担当であり、ケイゾーの妻でもあるミクに状況を報告するための電話をかけるために、病院の外へと出た。


 手術室前の待合フロアには、イマナミと三津の二人だけが、まるで抜け殻のように取り残された。二人の表情は、痛恨という言葉では表現しきれないほどの絶望に染まっていた。


「・・・俺のせいだ」


 長い沈黙の後、三津がうめくように呟いた。

 直前まで異常は感じなかった。それは確かな記憶だ。

 だがもし、この手に握られていた手綱の主が、生ける伝説と言われる武谷雄一だったら。もし、冷静沈着な判断力で全国リーディングをひた走るクリストフ・ルメロだったら。あるいは、美浦の鬼才、あの戸中啓太郎だったら。

 彼らほどの経験と技術があれば、ノゾミの肉体が発していた悲鳴のような、ほんの僅かな異常のサインを、最後の瞬間に察知できたのではないか。

 あの故障を阻止できた可能性があったのは、世界でただ一人、あの瞬間にノゾミの背中にいた自分だけだったのだ。少なくとも三津自身は、そうとしか思えなかった。


「・・・・・・」


 イマナミは、唇を固く結び、何も口にすることができなかった。ただ、拳を握りしめ、俯くだけだった。

 誰よりも長く、誰よりも濃密な時間を、ノゾミと共に過ごしてきたのは自分だ。毎日の調教、手入れ、何気ない会話。その全ての中に、何か、今日の悲劇に繋がる予兆があったのではないか。ほんの些細な仕草、食欲の僅かな変化、いつもと違う甘え方・・・。それらを、自分は能天気に、あるいは慢心から見落としていたのではないのか。ノゾミが必死に送っていたSOSのサインを、愛情という名のフィルターで覆い隠してしまっていたのではないか。

 あの悲劇を未然に防ぐことができたのは、世界でただ一人、ノゾミの一番近くにいた自分だけだったはずなのだ。少なくともイマナミ自身は、そう信じて疑わなかった。


 ーーーーーーーーーーーーー


 病院の外で、東の空がわずかに白み始めた頃、アオキが意を決したようにケイゾーに告げた。


「ケイゾーさん。俺、今日の始発で河合牧場に戻ります。ケイゾーさんは、どうかノゾミの傍にいてやってください。あいつが一番心細いでしょうから」


 その言葉に、ケイゾーはアオキの顔をじっと見つめた。


「アオキ・・・お前は、本当にそれでいいのか? ノゾミのことが心配じゃないわけがないだろう」


 アオキは一度強く唇を結び、それから、まるで自分に言い聞かせるように、はっきりとした声で答えた。


「俺だって、本当は一秒でも長くここにいたいです。ノゾミのそばから離れたくなんてありません。でも・・・でも、俺にはやらなきゃいけないことがあるんです。ノゾミが・・・あいつが、必ず元気になって帰ってくる河合牧場を、俺がしっかり守っておかないと。

 あいつが安心して帰ってこられるように、最高の状態にして待っていたいんです。それにカナコさんだけに、その全部を任せるわけにはいきませんから」


 その言葉を口にするアオキの瞳には、夜を徹しての疲労と深い悲しみの色は隠せなかった。だが、それ以上に、ノゾミの生命力と神崎の腕を信じ、愛馬の帰還を待ち続けるという、揺るぎない決意の光が灯っていた。今はただ、前に進む。ノゾミが再びあの緑の牧草を食み、元気に走り回る日を夢見て。


 ケイゾーは、アオキのその強い眼差しに、そして言葉に込められた覚悟に、胸が熱くなるのを感じた。彼は力強く頷き、アオキの肩を叩いた。


「・・・そうか。わかった。河合牧場のことを頼んだぞ」


 ケイゾーの言葉に、アオキは、力強く頷いた。


「ノゾミが安心して帰ってこられるように、バッチリ用意しておきます!」


 夜明け前の澄んだ空気が、二人の決意を包み込むようだった。

 大阪杯はフッカツノネガイの快勝だった。だがそれ以上に、深く、そして消えない傷跡を残した。しかし、その傷跡の中にも、未来への小さな、だが確かな希望の灯は、確かに灯り始めていた。

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