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17-1 天才の凱旋

 大阪杯当日。


 春の柔らかな陽光が降り注ぐ阪神競馬場。しかし、その穏やかな日差しとは裏腹に、パドックはG1レース特有の熱気と緊張感が渦巻いていた。固唾を飲んで人馬を見つめる観客たちの視線。その中心にいるのは、一頭の黒い馬影だった。


「・・・おいおい、マジかよ。これは・・・とんでもないな」


 2番人気に支持されたスーパーヴィランの鞍上、戸中啓太郎は、思わず乾いた笑いを漏らした。

 いつもの強気な表情は影を潜め、その声には隠しきれない動揺と、畏敬の念すら滲んでいた。彼の視線の先、そこに佇むのは絶対王者フッカツノネガイがいた。


 磨き上げられた黒曜石のごとき漆黒の馬体は、春の陽光を浴びてぬらりと艶めき、周囲の喧騒などまるで存在しないかのように、圧倒的な静謐と威厳を放っている。

 それは単なる存在感という言葉では言い表せない。今日まで語り継がれる名馬が、時空を超えて目の前に現れたかのような、神々しいまでのオーラ。

 その体躯から立ち昇る気迫は、陽炎のように揺らめき、見る者の目を、心を奪い去る。それは他馬とは明らかに一線を画す、選ばれし者の輝きだった。


「ああ・・・完全に仕上がっている、というレベルじゃないな。次元が違う」


 隣に立つ調教師である高柳も、呆然とした呟きを漏らす。百戦錬磨のホースマンである彼でさえ、目の前の光景には言葉を失っていた。


 愛馬スーパーヴィランも、前哨戦のG2を快勝し、まさに充実期を迎えた実力馬だ。G1の舞台でも十分に渡り合える。そう信じて疑わなかった。

 だが、ノゾミの、あの神懸かり的なまでの気配は、その揺るぎないはずだった自信を根底から揺るがす。

 鋼を思わせる筋肉は、皮膚の下で力強く隆起し、一歩踏み出すごとに、パドックの地面が微かに震えるような重厚な蹄音が響く。

 トレードマークとして愛されている、ノゾミの独特のステップさえ、周囲の空間そのものを支配するかのごとき威厳を放っているように見える。


「・・・こんなことなら、やはり香港へ行くべきだったか」


 高柳は、後悔とも諦めともつかない溜息をついた。海を渡り、海外の強豪やホワイトフォース、インダストリアルと戦うリスクよりも、今、目の前にいるこの怪物と戦うことの方が、遥かに困難に思えた。


 そして戸中もまた、ノゾミの放つ絶対的なプレッシャーに、戦意を削がれそうになっていた。勝てるイメージが、どうしても湧いてこない。

 だが、彼はプロのジョッキーだ。託された馬と、信じてくれる人々のために、ここで折れるわけにはいかない。


「・・・まあ、やれるだけのことはやりますよ。先生」


 戸中は、努めて平静を装い、しかしその声には確かな覚悟を滲ませて高柳に告げた。彼は愛馬スーパーヴィランへと歩み寄り、その首筋を優しく撫でる。スーパーヴィランは、彼の複雑な感情を察したのか、あるいはノゾミの威圧感を感じ取っているのか、少しだけ身を硬くしているように見えた。


「大丈夫だ、相棒。なんとかしてみせるさ」


 戸中は心の中で語りかけ、スーパーヴィランに跨がった。鐙に足をかけ、手綱を握る。その手は汗でじっとりと湿っていたが、揺るぎない意志が込められていた。


「たとえ相手が怪物でも、俺たちだって意地がある。この馬の最高の走りを見せてやる。それが、俺の仕事だ」


 静かに、しかし確かな闘志を胸に秘め、戸中はターフを見据える。パドックを周回し、地下馬道へと向かうスーパーヴィランと戸中の背中を、高柳は祈るような思いで見送った。


「・・・頼むぞ、戸中」


 戸中啓太郎。

 大躍進をした三津を抑え、栗東でリーディングジョッキーの座を掴み取った名手が、大逆転に向け、刃を研いでいた。


 ーーーーーーーーーーーーー


 本馬場入場。割れんばかりの大歓声が、ターフを包み込む。各馬が返し馬を行い、ゲート裏へと集まっていく。


『さあ、いよいよ今年の大阪杯の発走が近づいてまいりました。放送席、解説は競馬評論家の加藤将さんです。加藤さん、よろしくお願いします』

「はい、よろしくお願いします」


『今年の大阪杯ですが、有力馬の多くが香港遠征を選択し、G1馬としてはフッカツノネガイ一頭のみの出走となりました。このメンバー構成、どうご覧になりますか?』

「そうですね。正直なところ、フッカツノネガイが出てくれたことで、なんとかG1としての格好がついた、というのが率直な感想です。もしこの馬がいなければ、G2と言われてもおかしくないメンバーレベルだったかもしれません」


 加藤は冷静に分析する。


『なるほど・・・。となると、やはりフッカツノネガイが断然の中心ということになりますね』

「ええ。疑いようがないでしょう。前哨戦を使わず、ここへの直行ですが、先日披露した追い切りの動きと時計は圧巻の一言。

 陣営の話を聞いても、状態はダービー、有馬記念の頃よりもさらに上積みがある、と。加えてこのメンバー構成となれば、ここは勝っておきたい、いや、陣営にとっては勝たなければならない、そういうプレッシャーのかかる一戦になると思います」


『それほどの評価ですか。オッズも現在、フッカツノネガイが単勝1.1倍と、圧倒的な支持を集めています。波乱の目は、ないと見てよろしいでしょうか?』

「極めて低い、と言わざるを得ませんね。展開面を見ても、強力な逃げ馬が見当たらず、ペースが極端に速くなる可能性は低い。そうなると、フッカツノネガイの力がそのまま発揮される展開が濃厚です。敢えて挙げるなら、2番人気のスーパーヴィランが、G3の小倉記念を逃げ切っていますから、戸中騎手が思い切ってハナを主張する可能性はゼロではないかもしれません」


『スーパーヴィランが逃げた場合、どうでしょう?』

「フッカツノネガイがそれに付き合って競り合う形になれば、ペースが上がって波乱の目も、と考える方もいるかもしれませんが、三津騎手もフッカツノネガイの能力は熟知しています。無駄に競り合う必要はないでしょう。

 むしろ、スーパーヴィランが自分のペースで逃げても、結局はフッカツノネガイの地力が違いすぎる。下手に抵抗すれば、スーパーヴィランだけが潰れてしまう・・・そんな展開になる可能性の方が高いでしょうね。戸中騎手もそのあたりは分かっているはず。どういう作戦で臨むのか、注目したいところです」


『なるほど。スーパーヴィランは現在9.5倍の2番人気。やはりフッカツノネガイの牙城を崩すのは容易ではない、ということですね』

「ええ。データ、状態、実績、メンバー構成、展開・・・あらゆる要素を見ても、フッカツノネガイに死角は見当たりません。今日のレースは、彼がどのような勝ち方を見せるのか、そこに注目が集まる一戦と言えるでしょう」


『絶対王者の走りに期待しましょう。まもなく、ゲートインです!』

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