16-3 岐路
ある記事にて
【衝撃速報】王者フッカツノネガイ、異次元の走り! 大阪杯へ死角なし! 調教で快速僚馬を圧倒!!
衝撃が美浦トレセンを貫いた。昨日、堂々の帰厩を果たしたダービー・有馬記念制覇の絶対王者、フッカツノネガイ(牡4、国本厩舎)が、最大目標である大阪杯(G1、阪神・芝2000m)へ向けた初時計で、信じがたいパフォーマンスを披露した。
併走相手を務めたのは、同じ国本厩舎所属で、先日シルクロードSを快勝した快速馬ビジョンコメコ(牡4)。G1級のスプリンターを、まるで寄せ付けない圧巻の走り。それは単なる「好調」という言葉では到底言い表せない、まさに異次元の領域だった。
注目の併せ馬は、ビジョンコメコが先行し、主戦・三津騎手を背にしたフッカツノネガイが追走する形でスタート。休養明けにもかかわらず、フッカツノネガイは序盤から力強いフットワークでラップを刻む。ここまでは想定の範囲内。だが、真の衝撃はその後に待っていた。
直線、満を持してフッカツノネガイがビジョンコメコに並びかけた、その瞬間である。常識的に考えれば、ここからが激しい叩き合いの見せ場となるはず。事実、短距離重賞ウィナーであるビジョンコメコの瞬発力は折り紙付きだ。
しかし――フッカツノネガイは、そこから信じられないほどの再加速を見せた。
「グンッ、とギアが上がった。まるで別の生き物になったかのようだった」
併走していたビジョンコメコの鞍上、イマナミ厩務員は、今も興奮冷めやらぬ様子で語る。
手綱を取った三津騎手もまた、
「正直、言葉が出ませんでした。凄い馬だとは思っていましたが、想像を遥かに超えていましたね。並んで直ぐに突き放す、あの勝負根性と爆発力。あれだけの走りをしても、息一つ乱れていないんですから、恐れ入りますよ」
と、鞍上で感じた衝撃の大きさを隠さない。
計測された全体時計、そして上がり3ハロンのラップ(47.4-35.0-23.4-11.7)は、これまでの坂路のタイムと見比べても驚異的なもの。
しかし、時計以上に傑出していたのはその内容だ。楽な手応えのまま、一瞬にして後続を置き去りにする様は、王者の貫禄そのもの。休み明けの不安など微塵も感じさせず、むしろ休養を経て心身ともに更なる進化を遂げたことを満天下に証明した。完成された漆黒の馬体は以前にも増して凄みを放ち、そのオーラは他馬を圧倒する。
ある陣営関係者はこう本音を漏らした。
「正直、あの馬が出てくるなら勝負にならないのでは。あの調教を見せられては、対抗しようという気すら萎えます。大阪杯は、フッカツノネガイがどれだけ強い勝ち方をするか、それを見るレースになるでしょうね」。
無理もない。ダービー、有馬記念という世代と古馬の頂点を極めた実績に加え、この日の衝撃的な調教内容。現時点で見つけられる死角は皆無だ。「大本命」という言葉すら生ぬるい。フッカツノネガイは、今年の大阪杯において、絶対的な主役として君臨する。
ファンは、そして競馬界全体が、この漆黒の王者がターフで見せるであろう歴史的圧勝劇の目撃者となる準備を、今からしておくべきだろう。フッカツノネガイ――その名の通り、完全なる復活を遂げ、さらなる高みへと駆け上がろうとしている怪物の走りに、ただただ期待は高まるばかりだ。来たる大阪杯当日は、間違いなく競馬史に残る一日となるだろう。
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大阪杯を翌週に控えた、金曜日の昼下がり。
国本厩舎の事務所は、週末の出走準備と、来たる大一番への期待と緊張感が入り混じった独特の空気に包まれていた。スポーツ新聞の一面は、どれも『フッカツノネガイ 圧勝へ!』『王者視界良好!』といった威勢の良い見出しで埋め尽くされている。
「お疲れ様でーす」
イマナミが少し疲れた顔で事務所に入ると、受付の有紗が明るく声をかけた。
「あ、イマナミくん、おつかれさま。ねぇ、チョコあるけど食べる?」
彼女はデスクの引き出しから取り出した個包装のチョコレートを差し出す。
「有紗さん、ありがとうございます!頂きます」
イマナミはありがたくチョコを受け取り、包装を破った。
「今ね、みんなでスポーツ新聞買ってきて見比べてるのよ。イマナミくんも見る?」
有紗はデスクの上に広げられた新聞の山を指さす。
「そんなことを考えつくなんて・・・宮下さんでしょ?」
イマナミの言葉に、有紗はくすくすと笑って頷いた。
「そうなのよー。宮下さんが『全紙買ってこい!』って。私もコンビニ何軒かハシゴしちゃった」
彼女もまた、新聞の見出しをどこか誇らしげに眺め、にこりと笑った。
「おう、イマナミ! 見ろよ、このデカデカとした扱い!」
奥のソファから声が飛んできた。国本厩舎の古株で、ムードメーカーでもある宮下だ。クニモトより年下だが、競馬界でのキャリアは国本厩舎の誰よりも長い。
「こうも自厩舎の馬が大本命って書かれると、やっぱり気分がいいもんだよなー!!」
宮下は顔をしわくちゃにして笑った。
「そりゃあ、宮下さんはいいですけど・・・俺なんて、プレッシャーで毎日胃が痛いですよ」
イマナミは甘いチョコを口に入れながら、本音を漏らした。
「ワハハ!!そりゃそうだろうよ!」
宮下は豪快に笑い飛ばす。
「だがな、こんな凄い馬を担当させてもらえるなんて、ホースマン人生でそう何度もあることじゃない。いい経験だと思って腹括るしかねぇさ」
「・・・まあ、贅沢な悩みだってことは、分かってるんですけどね」
イマナミは思わず自分の胃のあたりをさすった。
「俺もこんだけ長くやってるけどよ、G1で単勝1倍台の馬なんざ、担当したことねぇからな。1番人気だって記憶にねぇや」
宮下はそう言って、新聞に載るノゾミの写真を愛おしそうに見つめた。
「えー!?本当ですか!?宮下さんほどの人が!?」
イマナミは目を丸くした。これだけのキャリアを持つ大ベテランでも、そういうものなのか、と。
「うちの厩舎でG1で1倍台の人気を背負った馬を担当したのは・・・サカイさんと、只野くんくらいじゃないかしら?」
有紗が記憶を辿るように言う。
「ああ、間違いないな。そして二人とも、レース前は吐きそうな顔してたぜ」
宮下と有紗は顔を見合わせ、当時のことを思い出して笑った。
「そしてな、その結果は対照的だった。サカイの時は見事にハナ差凌いで勝ちきったが、只野の時は・・・なあ?」
宮下が話を振ると、その場にいた全員の脳裏に、あの日の重苦しい記憶が蘇る。
「ええ・・・」
有紗も表情を曇らせる。
「あの時の事務所への電話、本当に鳴り止まなくて・・・内容は、思い出したくもないですけど」
「俺が働き始めたばかりの頃じゃないですか、それ」
イマナミが口を挟む。
「あの時の厩舎の空気、ピリピリしてて、本当に息が詰まりそうでしたよ。正直、若い自分にはキツかったです。センセーだって、相当参ってたように見えましたし・・・」
3人はしばし、苦い記憶を共有するように黙り込んだ。
「おう、お疲れ。なんだ、俺の黒歴史の話で盛り上がってるのか?」
ちょうどその時、事務所のドアが開き、当の只野本人が入ってきた。作業後なのか、額には汗が光っている。
「あ、お疲れ様です、只野さん」
「イマナミ、お前も気をつけろよー。勝って当たり前、負けたら地獄。それが1番人気ってもんだ。特にG1の、1倍台はな。俺が身をもって証明済みだ」
只野は経験者として、しかしどこか吹っ切れたような、それでいて少しだけ自嘲的な笑みを浮かべて忠告する。その言葉には、単なる揶揄ではない重みがあった。
「そんなこと言われても、走るのはノゾミですし、これ以上俺にできることなんて・・・」
イマナミが、そう言いかけると、
「そりゃそうだ」
宮下が遮るように言った。
「いくら俺たちが万全の準備をしたって、ゲートが開いたら、あとは馬とジョッキーを信じるしかねぇんだ」
「よく分かってるじゃないか、イマナミ。」
只野も頷く。
そのどこか達観したような二人の様子に、イマナミは返す言葉もなく、しかし、少しだけ心が軽くなったような気もした。そうだ、自分は馬を信じるしかないのだ、と。
「いやー、でも本当に意外でした。宮下さんほどの人でも、1番人気を担当したことがないなんて」
イマナミはまだ少し信じられない様子で言った。
「こればっかりは巡り合わせだからな。・・・まあ、それ以上に俺の実力不足ってのもあるんだろうが」
宮下は少しだけ自嘲気味に付け加えた。
「そんなもんですかね・・・」
イマナミは天井を見上げながらそう言った。
「そんなもんだ。そしてな、イマナミ」
宮下は少し真顔になって続けた。
「競馬ってのは、いくら準備しても、いくら自信があっても、『あの時こうしていれば』って後悔することが必ず出てくる。そして、失敗したな、と思っても、やり直しがきかないことの方が多いんだ」
宮下の言葉に、事務所の空気が少しだけ引き締まる。只野も、苦い記憶を反芻するように、黙ってタオルで汗を拭いている。
「そうなんだよな・・・」
只野が重い口を開いた。
「あの時だって、俺は完璧に仕上げたつもりだった。馬の状態も最高だった。でも、ほんの少し、ほんの僅かなペースの読み違い、仕掛けのタイミングのズレ・・・それで勝負は決まっちまう。レース後、どれだけ自分の準備不足を呪ったか・・・」
只野の言葉には、今も生々しい悔しさが滲んでいた。ファンからの罵声、メディアの厳しい論調、そして何より、期待に応えられなかった馬への申し訳なさ。1番人気での敗戦が、どれほどの重圧と苦悩をもたらすか、イマナミは改めて痛感した。
「だからこそだ」
宮下が力強く言った。
「俺たちスタッフができることは、後悔しないように、やれるだけの準備をやり切ることだ。馬体のケア、飼い葉の管理、調教メニューの確認、輸送の段取り・・・小さなことの一つ一つを、完璧にこなす。それが俺たちの仕事だ。あとは、ノゾミと三津の力を信じるしかねぇ」
先輩たちの言葉が、イマナミの胸に深く響いた。プレッシャーは依然として重くのしかかるが、同時に、やるべきことが明確になった気がした。
「できること全部やって、あとはノゾミを信じます」
イマナミは顔を上げ、決意のこもった目で言った。
「大阪杯まであと2日。踏ん張り時だな」
宮下は満足そうに頷いた。
「ま、あまり気負いすぎるなよ。俺たちができることをしっかりやって、あとはドンと構えてろ」
「はい!」
イマナミは力強く頷いた。
「あとイマナミ」
只野は付け加えるように、声のトーンを落として言った
「こういう凄い馬と一緒にいられる時間を、大事にしなきゃいけないぞ。いつ何があるか分からんのが、この世界だからな。俺の場合、あの1倍台で負けたレースが、結局あの馬の最後のレースになっちまったからな・・・」
その言葉には、経験した者だけが知る、どうしようもない現実の重みがあった。それは決して脅しではなく、ただ静かに事実を伝える響きだった。
「・・・そうですよね。肝に銘じます」
事務所の外では、他の厩舎スタッフたちが、それぞれの持ち場で黙々と作業を進めている。週末のレースへ向かう馬たちの蹄の音、ブラシをかける音、飼い葉を準備する音・・・。日常の風景の中に、大一番を控えた独特の緊張感が満ちていた。




