16-1 岐路
走るということ。
それは彼らに与えられた宿命であり、血に流れる抗いがたい衝動。
だが、彼にとって、走ることは宿命である以前に、もっと純粋で、もっと苛烈な「好き」という名の爆発だった。
あの暗く冷たい絶望の淵。砕け散った希望の欠片を拾い集め、再び光へと手を伸ばさせたのは、心の奥底からマグマのように噴き上げる「走りたい」という、ただそれだけの祈りにも似た渇望だった。
風と溶け合う刹那の浮遊感。大地を鷲掴みにする蹄の、力強くもリズミカルな感触。そして、自身の内側で激しく打ち鳴らされる心臓の鼓動――生命の賛歌。そのすべてが、他の何ものにも代えがたい快楽であり、魂を焦がすほどの魅力だった。
そしてライバルとの競り合いは、その燃えるような「好き」をさらに熱くする。互いの魂が放つ火花が、純粋な歓喜を極限まで高め、至上の領域へと誘うのだ。
ただ走りたいから、走る。
他の誰のためでもなく、自分の心がそう叫ぶから。その純粋な衝動だけが、彼を前へと突き動かす。未来がどうであれ、彼は今日も、この愛してやまない走るという行為に没頭するだろう。
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「――ノゾミを、凱旋門賞に・・・ですか?」
ケイゾーの驚きの声が、河合牧場の事務所に響いた。
窓の外では、梅の古木がちらほらと白い花をつけているのが見えるが、庭先の木々の枝はまだ硬く、本格的な春の訪れはもう少し先のようだ。
そんな静かな昼下がりに持ち出された話としては、あまりにもスケールが大きい。クニモトは真剣な眼差しを変えず、ケイゾーに力強く頷き返した。
「あくまで、一つの可能性としての提案です。ですが、本気で考えてみる価値はあるかと・・・」
クニモトは落ち着いた声で続けるが、その瞳の奥には抑えきれない期待が灯っていた。
「凱旋門賞、ですか・・・」
ケイゾーは腕を組み、眉間に深い皺を刻む。脳裏に浮かぶのは、パリ、ロンシャン競馬場の壮麗なスタンドと、そこに挑み、そして散っていった数多の日本馬たちの姿だ。
あの独特の重い馬場、経験したことのない長距離輸送、そして世界の頂点に君臨する強豪たち。
乗り越えるべき壁はあまりにも高い。
凱旋門賞。
世界最高峰の芝2400メートル。古馬の頂点を決める、正真正銘、世界ナンバーワン決定戦。
幾度となく日本のホースマンたちが挑み、あと一歩、指先が届くかというところで、その分厚い扉に阻まれてきた悲願のタイトル。近年、日本馬のレベルは飛躍的に向上し、「凱旋門賞制覇」は、単なる夢物語ではなく、競馬界全体の現実的な目標であり、渇望の象徴となっていた。
ノゾミがその夢を叶える可能性を秘めていることは、ケイゾー自身も感じてはいたが・・・。
「・・・勝てますかねぇ、世界の強豪相手に」
ケイゾーの口から、期待よりも先に現実的な不安が漏れる。絞り出すような声だった。
「保証はありません」
クニモトはきっぱりと言った。彼の言葉には、浮ついた楽観論はない。
「しかし、今のノゾミなら・・・十分に可能性がある。そう信じています」
クニモトは、冷静な分析に基づいてそう言い切った。
「うーむ・・・」
ケイゾーは唸り、事務所の天井を仰いだ。
「そりゃあ、競馬ファンや関係者は、ノゾミに凱旋門賞へ行ってほしいでしょう。ダービーと有馬を勝った馬ですからね。その空気はひしひしと感じています。ですがねぇ・・・」
言葉を濁すケイゾーには、馬主であり、生産者でもある牧場主としての現実的な考えがあった。海外遠征には莫大な費用とリスクが伴う。何より、自分たちの手元で、日本のファンの前で走る姿を見たいという気持ちが強い。
「うちとしては、正直、国内に専念してほしい。秋には古馬三冠という大きな目標もある。天皇賞・秋、ジャパンカップ、そして有馬記念。これもまた、大変な偉業ですよ。ファンだって、現地で応援できる国内のレースを望んでいる声も多いはずですよ」
「なるほど・・・お気持ちは理解できます」
クニモトは静かに頷いた。彼は長年、多くの馬主と接してきた。それぞれの立場、それぞれの想いがあることを熟知している。無理強いするつもりはない、という態度がその表情からも窺えた。
「まあ、いずれにしても、今すぐ結論を出す話ではないですよね?」
ケイゾーがやや安堵したように確認する。大阪杯まで、まだひと月ある。今は目の前の戦いに集中すべき時だ。
「ええ、もちろんです」
クニモトも表情を和らげた。
「ただ、4歳となれば選択肢は多岐にわたりますからね。考えておいて損はないかと。ケイゾーさんと共に、ノゾミにとって最高の4歳シーズンにしたい。その気持ちは同じですから」
クニモトの真摯な言葉に、ケイゾーも頷き返す。目の前の目標に集中しよう、と気持ちを切り替えた。
「そうですね。まずは目先の大阪杯。始動戦ですから、きっちり勝っておかないと話にならん」
「ええ、今年のメンバー構成なら、ここは確実に獲りたいところです」
ケイゾーの言葉にクニモトも同意する。
「で、肝心のノゾミの様子はどうです?変わりありませんか?」
クニモトは2カ月ほど直に姿を見ていないノゾミを心配ながら尋ねる。
「はい、変わりなく順調ですよ。ますます凄みが出てきた感じです」
ケイゾーは少し誇らしげに言った。
「・・・これから見に行きますか?」
「是非。お願いします」
そう言って2人は、まだ肌寒い風が吹き抜ける中、事務所を後にした。
日差しは力強さを増し、空は高く澄んでいるが、空気にはまだ冬の硬さが残っている。冬枯れの牧草の下から、微かに土の匂いが立ち上ってくるのを感じながら、事務所から放牧地へ向かう緩やかな坂道を歩き始めた。ケイゾーがふと思い出したように尋ねた。
「先生、お時間は大丈夫なんです? 引退も近いと伺ってますが、厩舎の方はお忙しいんじゃ・・・」
「えぇ。もう引退まで2年を切りましたからね」
クニモトは穏やかに笑いながら答える。吐く息が白く見える。
「少しずつ、仕事を若い者に引き継いでいかないと。幸い、頼りになるスタッフが育ってくれていますから」
その目には、自身のキャリアの終焉を見据える静かな覚悟と、次世代への期待が同居していた。
その言葉に、今度はケイゾーが苦い表情を浮かべた。クニモトの状況を羨む気持ちと、自身の現実に対する焦りが入り混じる。
「引き継ぎ、ですか・・・。羨ましいですな。こっちは、あと5年で70だってのに、後継者すら見当たらんですわ・・・」
自嘲気味に呟く。
「息子さんがおられるのでは?」
クニモトが気遣うように尋ねる。それに対してケイゾーは力なく首を振る。
「いやー、アイツはもう東京で自分の家庭を築いてますし、正直、馬にはそれほど・・・ねぇ」
彼は空を見上げた。そこには、冬枯れの木立が並ぶ、静かな田園風景が広がっている。
「たまに帰ってきても、牧場の仕事を手伝おうなんて素振りも見せませんから」
「なるほど・・・」
クニモトは静かに相槌を打つ。
「馬が好きでもない人間に、無理に継がせるわけにもいきませんからねぇ」
ケイゾーは溜息交じりに続けた。
「この仕事は、やっぱり『好き』じゃなきゃ務まりませんよ。儲かる保証もないし、休みもない。体力も気力も要る。それでも続けられるのは、結局、馬が好きだからですから」
ケイゾーは、歩きながら、ぼんやりと未来に思いを馳せる。あと何年、自分はこの仕事に情熱を注ぎ続けられるだろうか。馬と共に生きる日々は、何よりも充実しているが、体力的な限界は確実に近づいている。ノゾミのような素晴らしい馬に恵まれた今が、もしかしたら自分のホースマン人生の頂点なのかもしれない。その時、この愛着ある牧場は、自分が人生を捧げてきたこの場所は、一体どうなるのだろうか。
「お互い、色々と考えさせられますねぇ・・・」
ケイゾーがポツリと言う。
「本当ですね」
クニモトも深く頷いた。ベテラン調教師と牧場主、立場は違えど、ホースマンとしての共通の悩みや感慨が二人にはあった。
そんな会話を交わすうちに、二人は広大な放牧地を見渡せる柵の前へと辿り着いた。
冬枯れの茶色がまだ目立つ広大な放牧地の向こう、力強さを取り戻した陽光の下で草を食む馬たちの中に、ひときわ目を引く黒いシルエットが見える。
そして、その姿をはっきりと捉えた瞬間、
クニモトは息を呑み、目を見開いた。
思わず、畏敬の念のこもった呟きが漏れる。
「―――完成したか・・・」
そこにいたのは、かつて「天才」と呼ばれた頃の面影を残しつつも、それを遥かに凌駕する威容を湛えた、一頭の黒馬だった。
磨き上げられた黒曜石のごとき光沢を放つ、漆黒の馬体。
それは、神の手による最高傑作の彫刻のように、完璧な均衡と圧倒的な存在感を誇示していた。背丈はさらに伸び、隆起した筋肉は、爆発的なパワーと洗練されたしなやかさという、相反する要素を奇跡的な次元で融合させている。
ふと、ノゾミがこちらに顔を向けた。周囲の馬とは明らかに違う、何かを悟ったような静けさで。
その深く澄んだ瞳には、ダービーと有馬記念を制した王者の風格と、なおも満たされぬ何かを渇望するかのような、底知れぬ烈しさが揺らめいていた。まるで、これから成し遂げるべき偉業を既に見据えているかのようだ。
長く、優雅に伸びる首は、風を切り裂く研ぎ澄まされた刃のよう。肩から背、そして臀部へと流れるラインは、もはや生物の造形を超えた芸術作品と呼ぶにふさわしい。無駄な肉は一切なく、筋肉の鎧がその下の強大な骨格を包み込んでいる。
全身を覆う漆黒の被毛は、降り注ぐ早春の日差しを吸い込み、まるで内側から淡く発光しているかのようだ。冷たい風が鬣を揺らす微かな音さえ、彼の絶対的な存在感を際立たせる一部となる。四肢は大地を蹴り砕かんばかりに鍛え上げられ、その蹄は黒曜石のように硬く、鈍い輝きを放っていた。
その姿は、まさに自然が生み出した究極の機能美。
『馬体の完成形』とは、この馬のためにこそ存在する言葉だろう。
「ケイゾーさん・・・」
クニモトの声は、抑えきれない興奮に震えていた。
「とんでもない馬に・・・本当に、とんでもない馬に成長しましたね、彼は」
「はい。間違いなく」
ケイゾーもまた、我が子を見守るような、誇りと愛情に満ちた眼差しで頷く。この馬のためなら、どんな困難も乗り越えられる。そんな気持ちが湧き上がってくるのを感じていた。
クニモトは、再びノゾミへと視線を向け、強く拳を握りしめた。その視線は、ロンシャンのゴール板か、あるいは国内の秋の栄光か、遥か彼方の栄光を確かに捉えている。
「凱旋門賞でも、古馬三冠でも・・・どちらでもいい。この馬となら、どんな偉業も成し遂げられる気がします。この4歳で、必ずや歴史に名を刻みましょう!」
ダービーと有馬記念を制した漆黒の王者。
さらなる伝説を紡ぐため、始動の時には、もう間近に迫っていた。
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『先頭は依然として、マウンテンガール!ソードオラクルとの鍔迫り合い!しかし大外からビジョンコメコ飛んできた!!
ビジョンコメコ差し切った!ビジョンコメコ一着でゴールイン!!ビジョンコメコ大外一気でシルクロードステークスを制覇しました!高松宮記念の優先出走権を手に入れました!!』
「コメコも次戦G1かー。ノゾミも大阪杯だし」
イマナミはコメコのレースを見直しながら感慨にふけっていた。コメコの気性の粗さは依然として治っていない。そのため短距離路線に変更し、成果を出すことが出来ていた。イマナミはモニターから視線を外し、隣の馬房にいるコメコを見た。シルクロードSを勝ったというのに、今は馬房の隅で壁に鼻先をつけたまま、力なく尻尾を揺らしている。
「ヒーン・・・」
いつもの気の強さはどこへやら、やけに寂しげな鳴き声が響いた。
「しかしなーこの元気のなさはどうにかならんかね」
イマナミが呆れたように声をかけるが、コメコはちらりとこちらに視線を向けただけで、また壁に鼻先を擦り付けた。飼い葉にもほとんど口をつけていない。
「はぁ・・・やっぱりノゾミがいないとダメか。来週には戻ってくるからなー」
イマナミは苦笑しつつ、少しでも気分が変わるかと、コメコの馬房に新しい藁を足してやった。
王者ノゾミは世界の頂を目指すのか、国内最強の道を歩むのか。
そして、気難しきコメコもまた、G1の舞台へ。
それぞれの思いと期待を乗せて、運命の4歳シーズンが、今、始まろうとしていた。




