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15-3 終幕へ向かうエピローグ

 年の瀬が迫る大晦日の夕暮れ。西の山の稜線に太陽が触れ、空を最後の茜色に染め上げている。その柔らかな光が降り注ぐ中、8時間前に長旅を終えたばかりのノゾミは、深く、安堵のため息と共に、懐かしい故郷の土の匂いを胸いっぱいに吸い込んでいた。ケイゾーが「年越しはどうしても牧場で一緒に」と強く願った、少しばかり強引で、けれど誰もが心待ちにしていた凱旋だった。


 今、河合牧場の温かい馬房には、ケイゾーとその妻のミクの2人のみ。そして一年間の激闘から解放され、心から安堵した表情を浮かべるノゾミがいる。


 例年なら、年末年始は二人きりで牧場を切り盛りするため目の回るような忙しさだが、あの震災で多くを失った今、牧場に残る繁殖牝馬は新しく迎え入れたアヤメカゼ一頭のみ。放牧に出されている馬も、今日の主役を含めてわずか二頭。


 だからこそ、こうしてゆっくりと英雄を出迎えることができる、穏やかで、少しだけ寂しさも滲む大晦日。


「ふぅ・・・なんとか、今年も無事に終わりそうだな」


 ケイゾーは、ノゾミのためにふかふかの新しい寝藁を丁寧に敷き詰め終えると、満ち足りた表情で額の汗を手の甲で拭った。シンと冷えた冬の空気の中に、彼の白い息がふわりと溶けていく。


「ほんとにね。今年は本当に・・・本当に、夢みたいだったわ」


 ミクは、ノゾミの艶やかな毛並みを優しくブラッシングしながら、しみじみと呟いた。ノゾミは心地よさそうに目を細め、ミクの手に頭をすり寄せる。震災の爪痕がまだ生々しかったあの日から、早くも二年の歳月が流れていた。


「まさか、あのノゾミが有馬記念まで勝っちまうとはなあ・・・」


 ケイゾーの声には、抑えきれない誇らしさと、何度反芻してもまだ現実とは思えないような驚きが混じっている。


「本当よねぇ」


 ミクは感慨深げに微笑む。


「あなたが初めてフジにキズナを種づけしたって聞いたときには、こんな未来、想像もできなかったわ」


 少し意地悪そうな、でも愛情のこもった表情でミクがケイゾーを横目で見る。


「ハハハ・・・まあ、な」


 ケイゾーは、ミクに内緒で2000万という牧場の存続に関わる大金をはたき、それがバレてこってり絞られた時のことを思い出して、苦笑いを浮かべる。多くを語らずとも、苦難の日々を共に乗り越えてきた夫婦の間には、言葉にならない深い絆と、穏やかで温かい空気が流れている。


「でも、本当に、こうして無事に帰ってきてくれてよかった。どんな勝利よりも、それが一番よ、ノゾミ」


 ミクの言葉は、飾り気のない、心からのものだった。その声に、ノゾミはミクの手に頬を寄せる。


「ああ、本当にそうだな。お帰り、ノゾミ。一年間、本当によく頑張った」

「ヒンッ!」


 ケイゾーの労いにノゾミは短く返事をした。ケイゾーは深く頷き、ノゾミの首筋を優しく撫でた。


「一年、本当にあっという間だったわね。夢中で駆け抜けた、まさに夢のような一年だったわ・・・」


 ミクは、窓の外に広がる夕暮れの空を見上げた。燃えるような茜色は静謐な藍色へと溶け合い、一番星が瞬き始めている。まるで、ノゾミがターフで刻んだ栄光と、その裏にあったであろう苦闘の日々を映しているかのようだ。


「来年は、一緒に応援に行くか?」


 ケイゾーが少し興奮気味に提案すると、ミクはふふっと優しく笑って、静かに首を横に振った。


「ううん。アオキくん、絶対ノゾミの応援行きたいでしょう? 彼に行ってもらわなきゃ」

「・・・・確かに、そうだな。あいつを置いて俺たちが行ったら、後で何を言われるか分かったもんじゃないな」


 冗談めかして2人は笑い合った。そんな2人の間には、アオキへの、深い感謝と信頼が浮かんでいた。


 馬房には、しばし静かな時間が流れる。聞こえるのは、馬たちの穏やかな寝息と、遠くで響く鳥の鳴き声だけ。

 やがて、ミクがノゾミの顔を覗き込んで、優しく、しかし確かな響きを持った声で言った。


「だからノゾミ。私たちは、ここでいつもあなたの帰りを待ってるから。来年も、絶対に、絶対に無事に帰ってくるのよ! いいわね!」

「ブルルルッ!」


 まるで力強く頷くかのように、ノゾミが信頼のこもった声で応える。

 その頼もしい返事に、ケイゾーも頬を緩ませ、そして真剣な眼差しで付け加えた。


「ああ、それが一番だ。レースで勝ってくれるのはもちろん嬉しい。だが、何よりもお前が無事に、元気な姿でこの牧場に帰ってきてくれることが、俺たちの何よりの願いだ」

「ヒヒンッ!」


 ケイゾーの真摯な言葉にも、ノゾミは再び、確かな声で応えた。その深い瞳には、二人の愛情に対する絶対的な信頼と感謝の色が宿っているように見えた。


 時計を見れば、もう既に夜の七時を指していた。


 ケイゾーはノゾミを馬房の奥へと促し、彼の馬房の鍵を閉める。

 そして、河合牧場の厩舎を後にする前にもう一度ケイゾーは彼の名前を呼んだ。


「ノゾミ」


 優しい声だった。


「今年も一年、本当に、本当によく頑張ったな。たくさんの夢と感動を、ありがとう。・・・ゆっくり休んで、良いお年を迎えるんだぞ」


 その声に、馬房の奥でノゾミが静かにこちらを向いたのが分かった。暗がりの中でも、その穏やかな瞳が二人を見つめている。


「ヒンッ!!」


 確かなノゾミの返事が、静かな夜気を通して二人の耳に届いた。

 ケイゾーはその声に頷き、今度こそしっかりと扉を閉め、閂をかけた。

 ふぅー、と安堵の息をつき、馬房の戸締りや水、飼い葉桶を入念に確認する。


「よし、これにて、今年の河合牧場の業務は終了!」


 ケイゾーが晴れやかに宣言する。


「一年間、お疲れ様でした」


 ミクはそう言って、ケイゾーに労いの笑顔を向けた。


「さーて、冷えた体を温めに、家に帰るか! 美味い鍋が待ってるぞ!」

「そうね。ケンジも、東京からもうすぐ帰ってくる頃かしら。無事に着くといいけど」

「おー、あいつも帰省するか! そりゃあ、久しぶりに賑やかになるな!」


 ケイゾーとミクは、牧場事務所の明かりを消した。夜の帳が完全に下り、牧場は深い静寂と満天の星空に包まれた。

 二人は、自然と寄り添いながら、牧場から自宅へと続く短い道を歩き始めた。


 ーーーーーーーーーーーーー


 馬房の心地よい暗がりの中、ノゾミは静かに目を閉じていた。

 かつては夜の闇や、遠くで響く物音、そして自身の内に巣食う記憶にさえ怯えていた故郷の夜。しかし、今、彼を包んでいるのは、ただただ穏やかで、深く懐かしい静けさだけだ。


 あの日の記憶が、心の奥底から消え去ったわけではない。

 しかし、それはもう、彼を苛む悪夢ではなかった。乗り越えてきた道のりの一部として、静かにそこにあるだけだ。

 痛みではなく、自らを強くした礎として。 


 震災から二年がたった。


 ノゾミは、数えきれないほど多くの人々の愛情と支え、そして何よりも、彼自身の諦めない心によって、深い心の傷を乗り越え、奇跡と呼ばれる道を駆け抜けてきた。


 ケイゾーの揺るぎない愛情。幼い日々を一緒に過ごしたアオキの優しい眼差し。いつも傍で支えてくれたイマナミ、厳しくも温かいクニモト、そして魂のパートナーである三津との絆。遠くから、あるいはすぐ近くから、熱い声援を送ってくれた里奈をはじめとするファンの情熱。ターフの上で繰り広げたライバルたちとの魂を削るような激闘。そして掴み取った数々の栄光。

 それら全てが、彼の血となり肉となり、心を癒し、強く、そして優しく育ててくれた。


 今夜、ノゾミは安らかな寝息を立てている。かつてのような、不安に揺れる瞳は、もうそこにはない。ただ、満ち足りた安堵感の中で、穏やかに眠っている。


 もう、悪夢にうなされることはない。


 代わりに、夢を見るのだろうか。故郷の緑の草原を自由に駆け回る夢を。あるいは、まだ見ぬ世界の広大なターフを、風のように疾走する夢を。


 第2章 記憶との死闘

2章完結です。次の章で本作品は完結となります。ノゾミとそれを取り巻く人たちの行く末を見届けて頂くと幸いです。

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