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15-2  終幕に向かうエピローグ

 有馬記念の蹄音と歓声がまだ耳に残響するような、年の瀬。

 あの日、馬主席でケイゾーと共に拳を突き上げた、あの死闘から5日が経った。

 28日の中山・阪神開催も終わり、中央競馬はその年の幕を静かに下ろした。世間は慌ただしい年末年始の準備に追われているが、命を預かる牧場の仕事に、カレンダー通りの休みはない。


 それでも、河合牧場には、大晦日と元日の二日間だけ、スタッフに休息を与えるという長年の慣習があった。その貴重な休日にアオキは、場違いな場所にいた。少し慣れない場所に立っていた。冷たい北風が吹き抜ける、駅前の巨大なショッピングモール。せっかくの休みを惰眠で潰すのも味気ないし、たまには違う空気に触れるのも悪くないかと、柄にもなく足を運んだのだったのだが


「あー・・・さっぶ・・・」


 悴む指先に必死に息を吹きかけ、温めながら、ショーウィンドウに飾られた華やかな商品や、行き交う人々をぼんやりと眺める。こんな時間にこんな場所にいるなんて、ノゾミが来てから1回もなかった。自分とは違う、きらびやかな世界。


「あれ? もしかしてアオキか?」


 不意にかけられた、どこか懐かしい声。振り返ると、そこには数年ぶりに見る顔があった。高校時代の同級生、橘だ。卒業してすぐの頃こそ連絡を取り合っていたが、互いの生活リズムの違いからか、もう何年も疎遠になっていた。


「橘か!?うわ、マジか、久しぶりだな!こっち帰ってたのか?」

「おう、昨日な。いやー、まさかこんな所で会うとは」


 橘は昔と変わらぬ調子で、遠慮なくアオキの肩を叩く。少しぎこちない空気はあったが、その気安さに、空白の時間が少しだけ埋まったような気がした。


「結構、同級生も帰ってきてるみたいだぞ。正月に集まろうって話も出てる」

「へえ、そうなんだ」

「アオキさ、この前テレビ出てただろ?牧場のドキュメンタリー。見たぞ!お前んとこの馬、すごかったじゃん、有馬!フッカツノネガイ!」


 橘が興奮気味に、そして少し羨ましそうに言った。あの馬が生まれた場所にいる友人。それは、橘にとっても少し自慢なのかもしれない。


「お前、競馬とか興味あったのか?」

「いや、全然!ルールもよく知らなかったんだけどさ、テレビでお前のこと見て、なんか気になって。それで有馬も初めて馬券買っちまったよ!まあ、見事に外れたけどな!」


 橘は豪快に笑う。その屈託のなさに、アオキもつられて笑みがこぼれた。


「そうか・・・まあ、あいつは頑張ったよ。本当に」

「だよな!なあ、来年の3日、新年会やる計画があるんだけど、アオキも来いよ!みんなお前の話聞きたがるって!」

「あー・・・悪い。3日はもう仕事だわ。ちょうど子馬が生まれるシーズンで、気が抜けねえんだ」

「うわ、マジか!子馬!そりゃ大変だ・・・でも、なんかカッケーな、そういうの。俺なんて毎日パソコンとにらめっこして、上司に怒られてるだけだぜ」


 橘は少し大げさに肩をすくめた。その言葉に、アオキは内心で「まあ、どっちの仕事も大変だよな。俺にはパソコンは無理だけど」と苦笑した。


 確かに、この仕事を始めたばかりの頃は、その厳しさに戸惑い、「こんなはずじゃなかった」と思ったこともあった。朝は早く、夜は遅い。休みは不定期で、泥と汗にまみれる毎日。都会で違う生活を送る同級生たちのことを、遠い世界の出来事のように感じた時期もあったかもしれない。


 だが、それは遠い昔の話だ。


 言葉を交わせなくても、触れ合うだけで伝わる温もり。日々成長していく馬たちの、逞しくも愛おしい姿。そして何より、自分たちが愛情を注いで育てた馬が、緑のターフを疾走し、多くの人々に夢と感動を与える瞬間の、あの胸が震えるような喜び。それを知ってしまったら、もう後戻りはできなかった。この仕事だけの、かけがえのない充実感がここにはある。

 ノゾミ。あいつが生まれた時、こんな未来が待っているなんて、誰が想像しただろう。幾多の困難を乗り越えて、そして掴んだグランプリの栄光。あの最後の直線で見せた、過去の呪縛を振り払うかのような魂の走り。あれは、ただの勝利じゃない。困難に立ち向かうすべての人々への、力強い希望の光そのものだった。そんな瞬間に立ち会えることの幸せを、アオキは噛み締めていた。


「いやー、でもマジでプロフェッショナルだよな、アオキは。命育ててるって感じが、なんかもう、次元が違うわ。俺には絶対無理だ」


 橘のストレートな言葉に、アオキは思わず吹き出した。


「プロって・・・そんなカッコいいもんじゃねえよ。泥まみれだし、寝不足だし、たまに蹴られて吹っ飛ぶし・・・」

「それでも、だろ?なんか、いいよな。そういうの」

「まあ、可愛いけどな、あいつら。手はかかるけど、その分な」


 アオキは少しぶっきらぼうに、しかし隠しきれない愛情を込めて言った。その表情には、自分の仕事への確かな誇りが滲んでいた。

 その表情を見て、橘は笑みを浮かべた。


「そっか。じゃあ、俺、そろそろ行くわ!本当にまた連絡する!今度さ、牧場とか見に行けたりすんの?」

「ああ、まあ、事前に連絡くれればな。案内くらいはする」

「マジで!?やった!絶対連絡するわ!じゃあな、アオキ、元気で!」

「おう。ありがとな。橘もな!」


 手を振り、橘は賑やかな人混みの中へと消えていった。一人残されたアオキは、フーッと白い息を吐き、もう一度ショーウィンドウに目を向けた。きらびやかなモノたち。楽しそうな人々。それはそれで、一つの世界の形だ。でも、自分の世界はここにはない。

 自分の居場所は、あの広大な牧場にある。力強い蹄の音。生まれたばかりの子馬のか細い震え。朝日を浴びて草を食む、穏やかな馬たちのシルエット。そして、ターフを風のように駆け抜ける、一瞬の、しかし永遠に記憶に残る輝き。この手で、命を育み、夢を紡いでいく。ノゾミが見せてくれた希望の光を、また次の世代へと繋いでいく。それこそが、自分が選んだ道であり、誇りだった。後悔なんて、微塵もない。

 冷たい風が、今は心地よく頬を撫でる。アオキはポケットの中で、再びぐっと拳を握りしめた。


(プロフェッショナル、か。まだまだ、そんなんじゃないけどな)


 だが、胸の中には、静かだが確かな熱い決意が灯っていた。


 寒空の下、アオキはゆっくりと息を吐き、そして、迷いのない足取りで、自分の帰るべき場所へと歩き出した。これからも続く、大変だが、愛おしい日々へ向かって。

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