13-4 夢のレースへ
土曜競馬の幕が下り、喧騒が幻だったかのように遠ざかった中山競馬場。スタンドのガラスを茜色に染めていた最後の陽光も力尽き、コースには長く冷たい影が支配的に伸びている。最終レースの興奮は、吐く息の白さとともに虚空へ消え、まばらな人影も家路を急ぎ、今はもう見当たらない。祭りの後の物寂しさ、というよりは、決戦前夜の張り詰めた静寂が、そこにはあった。
そんなパドック脇の、アスファルトがひび割れた通路を、二つの影が並んで歩んでいた。一人は、明日のグランプリ、有馬記念でノゾミの手綱を託された三津康成。そしてもう一人は、現役最強の誉れ高きインダストリアルと共に、おそらくターフを揺るがすほどの支持を集めるであろう川中勇斗。裸の木々を震わせる冬の乾いた風が、二人の頬を容赦なく打ち、骨身に染みる寒さを運んでいた。
「よう、三津。風邪、もう大丈夫なのか?一昨日まで調教も乗らなかったようだったけど」
川中が、何気ない様子で声をかける。
「あ、川中さん。はい、もうすっかり。薬飲んで寝たらケロッと治りました。ご心配おかけしました」
三津は、あっさりとした口調で答えた。特に深刻だった様子はない。その様子を見て、川中は少しだけホッとしたような表情を見せる。
「そっか、なら良かった。この時期は油断するとすぐ持っていかれるからな。俺たちも体が資本だ、気をつけないとな」
「そうですね気をつけます」
川中の言葉に三津は頷いた。
「しかし、お前のところのオーナー。抽選会で傑作だったらしいじゃないか。ラッキーカラーのピンクで大外枠とはな。神様も意地が悪い」
ケイゾーの顛末を思い出したのか、川中が少しおかしそうに言う。
「あはは・・・まぁ俺としては、あれ見て吹っ切れた。と言えなくもないですけどね」
三津は苦笑いを浮かべる。その表情には、諦観とも、あるいは逆境への秘めたる闘志とも取れる、複雑な陰影がよぎった。
「まぁこっちも笑えないんだけどな。⑭番。よりによって隣がホワイトフォースで、その隣がハナマンカイだ。またきつくマークされるだろうな・・・」
川中は、わざとらしく肩を竦め、深い溜息をついてみせた。
「でも、川中さんとインダストリアルなら、枠なんて些末なことでしょう?」
「まあな、あの馬の力は疑っちゃいないさ」
川中は肯定しつつも、油断なく言葉を続ける。
「だが、中山の2500は別物だ。直線は短いし、コーナーはきつい。トリッキーなんだよ。ましてや、今年は有力馬がごっそり外に固まった。内で息を潜めてる人気薄・・・例えば、あの1枠を引き当てた武谷さんあたりが、虎視眈々と漁夫の利を狙ってるかもしれねぇ。そういう連中に足元を掬われかねんのが、このレースの怖さだ」
「そうですね・・・難しいレースになりそうですね」
「三津のところは逃げるんだろ?あまりスローでにげないでくれよー?」
「アハハ・・・どうでしょうか」
探るような川中の言葉に、三津は曖昧な笑みを返すだけだった。
他愛のない会話を装いながら、腹の探り合いが続く。二人は検量室へと続く薄暗い通路を進む。
不意に、川中が思い出したように言った。
「しかし、お前が有馬に乗るのって、ずいぶん久しぶりじゃないか?」
「ええと・・・」
三津は少し考えるように視線を上に向け、指を折る。
「6年、ぶりですね」
「へぇ、もうそんなになるか。早いもんだな、時が経つのは。
どうだ?久しぶりの有馬の舞台は?」
そう尋ねながら、川中はチラリと三津の横顔を盗み見た。
そして、その瞳の奥に揺らめくものを見逃さなかった。それは、普段の温和な表情の下に隠された、静かに、しかし激しく燃え盛る蒼い炎。川中の口元に、再び笑みが浮かんだ。今度は、単なる挨拶の笑みではない。獲物を見つけた獣のような、面白がるような、それでいて相手の真意を探るような、複雑な色が混じっていた。
「・・・燃えてるな、三津」
それは問いかけではなく、確信に満ちた断定だった。
一瞬、三津の肩が微かに揺れた。だが、すぐに彼は落ち着きを取り戻し、真っ直ぐに川中の目を見据え、はっきりとした口調で答えた。
「もちろんです。勝つつもりで、ここに来ましたから」
その声は、凪いだ湖面のように静かだったが、底には激しい潮流が渦巻いていた。そして、「でも」と、彼は言葉を継ぐ。
「俺一人が熱くなったところで、勝てるほど甘いレースじゃない。それは、骨身に染みて分かっています」
そこには、奇妙なほどの客観性と冷静さが宿っていた。そして、さらに強い意志を、言葉に込める。
「ただノゾミが勝つための道は作ってみせます。」
最後の一言は、囁くように低く、しかし、有無を言わせぬ凄みがあった。言葉の一つ一つが、単なる意気込みを超え、己の存在意義そのものを賭けるような、重い覚悟となって響いた。
「・・・そうか」
川中は、それ以上は何も聞かなかった。ただ、三津の瞳の奥の蒼い炎を、自らの闘志に焼き付けるように見つめ返した。
中山競馬場の職員用玄関を出て、冷たい夜気が二人を包む。別れ際、川中は立ち止まり、三津に向かって宣言した。それは、最強馬を駆る王者の、揺るぎない宣戦布告だった。
「俺だって、負けるつもりは毛頭ない。インダストリアルで、春秋グランプリ連覇、そして秋古馬三冠だ。歴史に名を刻むのは、俺たちだ」
その言葉には、絶対的な自信と王者の矜持が満ちていた。
「ええ、分かっています。川中さんとインダストリアルが、今の日本競馬で最大の壁であることも。だからこそ、面白い。全力でぶつかるだけです」
三津もまた、静かに、しかし確固たる闘志を込めて言い返した。
「・・・面白い」
川中は、満足そうにニヤリと笑った。
「明日は、いいレースにしよう。観客が痺れるようなやつをな。・・・お互い、人馬ともに無事でゴール板を駆け抜けような」
「はい。よろしくお願いします」
短い言葉を交わし、二人は無言で歩き続ける。冬の夕暮れの冷気が、二人の騎手の間に漂う空気を、一層張り詰めさせていく。見えない火花が散り、冬の冷気さえも熱を帯びるかのようだ。明日、この二人が緑のターフの上で繰り広げるであろう、剥き出しの魂のぶつかり合い。それを思うと、観客の去った静かな競馬場に、新たな、そして密やかな熱気が満ちてくるような気がした。
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しん、と静まり返った馬房。干し草の匂いと、馬の体温が混じり合った独特の空気が漂う。窓の外では、冬の星々が凍えるように鋭く瞬いていた。
イマナミは、ノゾミの冬毛を丁寧にバリカンで刈り、艶やかな鬣をブラシで優しく梳かしていた。バリカンが立てる小気味よい音だけが、静寂に響く。
「ノゾミ、どうだ?痒いところはないか?」
「ブルルッ・・・」
ノゾミは、気持ちよさそうに鼻を鳴らし、リラックスした様子で首をイマナミの肩にすり寄せた。その穏やかな表情に、イマナミの口元にも自然と笑みが浮かぶ。
(やれることは、すべてやった・・・)
自分も、主戦騎手の三津も、そして何より、このノゾミ自身も。この日のために、持てる力のすべてを注ぎ込んできた。それは胸を張って言える。昨日見せた、あの滑らかな手前の切り替え。確かに、ノゾミは壁を一つ乗り越えようとしている。
だが、それでも拭いきれない一抹の不安が、心の隅をよぎる。調教と実戦は違う。大観衆の熱気、ライバルたちのプレッシャー。その中で、果たしてノゾミは、あの忌まわしいトラウマ――レース中にあの悪癖を完全に克服できるだろうか。
(俺にできるのは、ここまでだ。ここからは、お前自身の闘いだ、ノゾミ・・・)
震災の瓦礫の中から生きのび、水の恐怖も乗り越えた。そんな彼なら、己の内なる古傷への恐怖も、きっと乗り越えられるはずだ。イマナミは、そう信じたかった。
「ノゾミ。相手は、とんでもなく強い奴らばかりだ。インダストリアルも、ホワイトフォースも、ハナマンカイや他の馬もみんな強い・・・。
だけどな、まずは、俺たちが積み重ねてきたこと、お前が掴み取った進歩を、あの舞台で見せてやろうぜ」
「ヒヒンッ!」
まるで「当然だ」とでも言うように、ノゾミは力強く応え、一度だけ大きく瞬きをした。その深い瞳の奥に、揺るぎない闘志の炎が見えた気がした。
イマナミは、ノゾミの首筋をそっと撫でた。明日は、自分はこの背中にはいない。ゲートが開けば、全てを託すしかないのだ。それが、歯がゆくて、どうしようもなく口惜しい。
「・・・頑張れよ、ノゾミ」
最後にもう一度、力強く鬣を梳かし、イマナミはそっと呟いた。その声は、祈りにも似て、静かな馬房に吸い込まれていった。
天に瞬く星々に、ただただ、愛馬の無事と健闘を祈った。
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「・・・ブヒッ」
乾いた寝藁の上で、一匹の競走馬は静かに息を吐き、ゆっくりと目を開いた。
中山競馬場の馬房に満ちる夜の静寂。それは、決戦を前にしたアスリートにとって、集中力を高めるための大切な時間でもある。神経は研ぎ澄まされ、全身の細胞が来るべき瞬間を待っている。寝藁を踏む微かな音、遠くで響く風の音、それらすべてが、彼の意識を覚醒させ、レースへの集中力を高めていく。
明日は運命のレース、有馬記念。高鳴る心臓の鼓動は、不安の音ではなく、昂ぶる闘志のリズムだ。過去の記憶が不意に蘇る瞬間がないわけではない。見えない鎖に足を取られそうになる感覚。だが、今の彼は、それにただ怯えるだけではなかった。その鎖を断ち切ろうとする強い意志が、彼の内側から湧き上がってくるのを感じていた。呼吸を整え、意識を未来に向ける。耳は周囲の気配を探りながらも、意識はターフの上を疾走する自身の姿を捉えている。
夜明けはまだ遠い。しかし、暗闇は永遠ではない。この静かな夜は、彼にとって、自らの内なる力と向き合い、覚悟を固めるための時間だ。瞳の奥に宿る光は、単なる闘志だけではない。それは、過去の影を振り払おうとする勇気、支えてくれる人々への信頼、そして何よりも、走ることへの純粋な喜びと渇望が織りなす、強く、そして澄んだ光だ。
夜明けは、もうすぐそこまで来ている。彼は、来るべき夜明けと決戦の時を、静かな覚悟と共に待っていた。明日、あの緑のターフの上で、過去の鎖を振りほどき、自由な魂で駆け抜けるために。そして、彼を信じてくれる全ての人々の想いに応えるために。
その瞳には、恐怖の色はもうない。ただ、夜明けの光を待つ、力強い意志だけが宿っていた。




