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2-2 消えない闘志

「え、ノゾミ、競走馬目指すんですか?」


 アオキは馬房を水拭きしながら、ケイゾーに聞き返す。夢見がちな自分と違って現実主義な男だと認識していた河合敬三の思わぬ決意表明にアオキは驚きを隠せなかった。


「あぁ。ノゾミは競走馬復帰を目指す」


 ケイゾーは雑巾を絞りながらアオキにノゾミの今後の方針についてもう一度繰り返した。

 あの夜から一夜明け、ケイゾーとアオキの2人はノゾミが馬房入りを嫌がる原因であろう化学薬品臭さを消すべく水拭きを行っていた。


「間に合うんですか?」

「わからん」


 聞いた真っ先に思いついたアオキの疑問にケイゾーは肩を勧めて首を傾げた。

 JRAでは、3歳馬を対象とした未勝利戦は、8月で打ち切られる。今は10月末。つまりJRAでのタイムリミットはあと10カ月である。それまでに、勝負できる肉体とレースに耐えうる精神をつくりあげ、そして他馬に勝たないといけない。


「最悪、地方も視野に入れないといけないとは考えてる。でも目指すは中央。そしてずばりダービーだ」

「だ、ダービーですか・・・」


 夢見がちなアオキでもいくらなんでも無茶だろと思える目標である。


 日本ダービー

 別名東京優駿と呼ばれるそのレースは1932年から始まった、長い歴史を持つ競馬の祭典であり、有馬記念に並ぶJRA最大のレースである。

 東京競馬場で開催されるこのレースは、毎年約10万人以上の観客を集め、テレビ中継でも全国から注目を集める。

 出るだけでも容易ではない。全国のトライアルレースを勝ち抜いた優秀な3歳馬のみが選ばれ、育成、調教、そしてその血統が試される。

 日本ダービーを勝利した騎手や馬、調教師には最大級の名誉が贈られる正に目指すべき究極の目標である。


 確かに、かつてのノゾミはダービーを制覇するだけの素質を持っている。いや、制覇できる器だったと言った方が正確かもしれない。しかし、今のノゾミには、ダービーはおろか、未勝利戦すら勝利するビジョンが見えなかった。


「アオキ、ノゾミの競走馬復活を手伝ってくれないか?」

「え?」


 ケイゾーの予想外の言葉に固まってしまった。


「俺はノゾミを競走馬にして、勝たせてやりたいと思っている。そのためには俺だけでは無理だ。お前の力が必要だ」

「オレのですか?」


 その言葉にケイゾーは頷く。


「ノゾミのことを一番知ってるのはお前だからな」


 アオキは腕を組み、深く考え込んだ。数瞬の沈黙の後、意を決したように口を開いた。


「ノゾミが走りたいって言うんだったら、走らせてやりたい。けど、競走馬になっても不幸な未来しか待ってないと思うんです。だから俺は反対です」


 アオキは自分の素直な気持ちを吐露した。そしてケイゾーはそれを黙って聞いて頷いていた。


「ああ。昨日までは、俺も同じ意見だった。だがな、お前は、ノゾミが走りたがっている姿を知らないだろう。俺は昨日、それを見たんだ。ノゾミの・・・意志をな」


 そう語るケイゾーの言葉には、抑えきれない熱がこもっていた。


「楽しそうですね、ケイゾーさん」


 アオキは少しばかり揶揄うように言った。


「ああ。楽しいよ。ここ一年、完全に失っていた、この・・・ヒリヒリするような感覚が、蘇ってきたんだ」

「そっちの方が、ケイゾーさんらしいです」

「だろ?」


 ケイゾーとアオキは顔を見合わせ、小さく笑い合った。


「わかりました。もう少し考えます。」


 アオキの言葉にケイゾーは頷いた。


「そうしろ。競走馬にするにしてももう少し体が戻ってきてからだ。それまでは俺一人で世話できる。それに再就職のこともあるしな。断ってくれていい」


 そう言ってケイゾーは水筒に入っているお茶をゴクゴクと飲み始める。


「ブヒッ!!」


 ノゾミの声が聞こえる。


「なんだー?」


 ケイゾーとアオキはひょっこり馬房から顔を覗かせるとそこには右脚をカツカツしている。要するにご飯を要求するノゾミがいた。


「おーい。ノゾミ牧草あるだろー。それ食べろよ」


 アオキがそう言うと彼は嫌そうな顔をしてソッポを向いてしまった。そればかりか牧草を蹴る始末である。


「あいつ、牧草とかあんま食わないんですよ。果物とか、トウモロコシとかなら喜んで食べるんですけど大麦とかも渋々食べる感じです」

「それはまたエンゲル係数が高くなるわな」


 ケイゾーはアオキの説明に、苦笑いを浮かべる。


「オレ、車にニンジン積んであるんで、持ってきます」

「ああ、すまないな。俺はちょっと、大麦とかオーツ麦とかを調達してくるよ。さすがに、フルーツとかニンジンばかりだと、糖分過多になりそうだしな」

「じゃあ、俺その間に餌やりやっちゃいますわ」


 ケイゾーは「頼むわ」と言って、軽トラに乗り込み、牧場を後にした。


「ほらーノゾミ。ニンジンだぞー」


 ノゾミは「まぁ許容範囲内か」という顔を見せて、もしゃもしゃと食べ始める。すっかり1年前と同じ表情を見せてくれることに安心感を浮かべる。


「いや、食い意地は増してるな」


 少なくとも牧草も嫌そうな顔をしながらも食べていたはずだったと思い出した。それから1年だ。彼はこの1年どんな気持ちで過ごしてきたのだろうか。


「お前本当に競走馬になるのか」


 アオキは鼻をポニョポニョしながらノゾミに聞く。


「フンっ!」


 ノゾミは「当たり前だろ」という表情でアオキの指をブルルっと振り払う。


「ブヒッ」

「お、もういいのか」


 ノゾミはニンジンの食べた後に走り出す。ノゾミの自主トレーニングが始まった

 それは、アオキから見てとてもハードなものだった。息が切れても、足が重くなっても、ノゾミは止まらなかった。毎日のトレーニングが、レースの日に輝くための基盤を作っていることを知っているかのようだ。痛みと疲労を乗り越え、自分の限界を押し広げる。それは、ただの馬ではなく、勝者となるための道。

 しかし、どこか楽しげだった。


「そうだったなおまえ、走るの好きだったもんな」


 アオキはそう呟いた。

 一歳のノゾミの馬体が素晴らしかった理由は、何も名血だからという理由だけではない。名血だからといって勝手に馬体は出来上がらない。

 ノゾミの馬体が素晴らしかった理由。それは、ひとえにノゾミがよく走っていたからだ。それもノゾミが馬房から抜け出して1人で走っていて、それが2人の悩みのタネになっていたくらいだ。それくらいノゾミはよく走り、走るのが好きだったのだ


 走る彼の表情をみて、アオキは自然と優しい笑みを浮かべる。そして牧草地に足を踏み入れ、ノゾミの頭をポンポン叩く。


「そうかー。それなら、俺も応援しないわけにはいけないな」


 アオキのその言葉を聞いて、ノゾミは突然、片方の前脚を上げた。ニンジンをねだっているのかと思い、アオキは手に持っていたニンジンを差し出したが、ノゾミは食べるそぶりを見せない。どうやら、おやつが欲しいのではないらしい。


「蹄鉄は・・・取れてないよな?てなると蹄か?」


 蹄の手入れはケイゾーが定期的に行っていたはずだし、蹄鉄も打ち直したばかりだ。アオキが念のため確認してみるが、特に炎症を起こしている様子もない。一体どうしたのだろうか、と首を傾げていると、


「ブフォ!!」


 ノゾミは自分の前脚をアオキに近づけた。相当なバランス感覚である。明らかにアオキに何かを求めているような、そんな仕草だった。アオキはしばらく考え込み、そして、ある可能性に思い至った。


「え、もしかして・・・俺と、グータッチしたいのか?」


 アオキが半信半疑でそう言うと、ノゾミは力強く、深く頷いた。その光景にアオキはおもわず吹き出してしまった。グータッチしたがる馬。そんな馬聞いたことがない。

「しょうがないな、ノゾミは」と、アオキは笑いながらも、どこか嬉しそうに拳を掲げた。


「よっしゃやるか!!ノゾミ!!」


 男の声は揺るぎない決意が込められていた。彼の拳は、馬の強靭な前脚に触れ、その温かさと力強さを感じる。馬もまた、人間の魂の鼓動を感じ取るかのように、ゆっくりと頷いた。


 風が吹き抜け、周囲の牧草ががざわめく中、二人は一体となって立ち尽くす。その瞬間、まるで時間が止まったかのようだった。互いの心臓の鼓動が同調し、目指す頂点への道程を共に歩む覚悟が融合する。


 こうして、河合牧場は、ノゾミと共に、夢の舞台、日本ダービーを目指すことになったのである。その道のりは、決して平坦ではないだろう。多くの困難が待ち受けているかもしれない。しかし、ノゾミの瞳に宿る情熱、そして、ケイゾーとアオキの固い決意は、どんな困難をも乗り越えていく力となるだろう。物語は、まだ始まったばかりだ。

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