13−3 夢のレースへ
悪夢?のような抽選会から一夜。夜明けの冷気は昨日と同じはずなのに、イマナミの心には奇妙な凪が訪れていた。美浦の坂路。相棒のノゾミの隣で、しかし彼の右手は祈るように携帯電話を握りしめている。昨日引かされた「死の枠」――有馬記念の大外枠という現実は重くとも、今はただ一つの吉報を待っていた。
「三津さん、具合、どうですか・・・?昨日の今日で無理言ってすみません…」
ディスプレイに表示された主戦騎手の名。硬い声色で始まった会話に、隣のノゾミが僅かに耳をそばだてる。数瞬の沈黙の後、イマナミの強張っていた表情が、まるで厳冬の氷が春の陽光に溶けるように、ゆっくりと緩んでいく。声に、抑えきれない安堵の色が滲み始める。
「っ!・・・はい!はい、そうですか!良かった・・・。
ええ、最終追い切りは、俺に任せてください。万全の状態でバトンを渡します。・・・はい、それでは、本当に、お大事にしてください!」
通話を終え、イマナミは深く、白い息を吐き出した。それは安堵のため息であり、そして込み上げる歓喜の予兆だった。凍てつく空気の中で、彼の顔に満面の笑みが咲く。
「ノゾミ!聞いたか!三津ジョッキー、今日は大事を取って休むけど、有馬記念には絶対乗れるって!」
「ヒヒンッ」
まるで「当然だろう?」とでも言うように、ノゾミは軽く鼻を鳴らした。その素っ気ない仕草に、イマナミは苦笑しながらも、心が軽くなっていくのを感じる。スマホをジャケットの内ポケットに大切にしまうと、彼は決意を込めて相棒を見据えた。
「よっしゃあ!有記念まで、あと3日!これが最後の総仕上げだ!最高の状態で、三津ジョッキーを迎えようぜ!行くぞ、ノゾミ!!」
「ヒンッ!!」
力強い嘶きが、イマナミの言葉に応える。
鞍上に跨ると、空気が変わった。ノゾミの表情が引き締まり、闘志がその瞳に宿る。イマナミの手綱を握る拳にも、自然と力がこもった。彼らの間に、言葉はもう必要なかった。
「ノゾミ・・・行くぞ!」
合図と共に、ノゾミの四肢が爆発するように地面を蹴り、坂路の土を力強く掻き込む。摩擦などまるで存在しないかのように、滑らかに、それでいて獰猛なまでの加速が始まる。風を切り裂くというより、風そのものになるような圧倒的なスピード。イマナミの頬を叩く風圧が、現実感を失わせるほどだ。そして、あっという間にトップスピードへ。
――そして、祈りと希望、そして微かな不安が交錯する、運命の瞬間。
イマナミは手前を替える指示を出す。
「ヒンッ!」
ほんの一瞬、コンマ数秒にも満たない時間、ノゾミの全身に電気的な緊張が走る。息を詰めて見守るイマナミ。だが、次の瞬間――それは起こった。
まるで水が流れるように、ごく自然に、スムーズに、ノゾミは手前を替えたのだ。
イマナミは、息を飲んだ。目を見開いたまま、硬直する。
それは、他のどんな馬でも見せる、ごく当たり前の動き。特筆すべきことなど何もない、普通の動き。
しかし、その「普通」が、イマナミとノゾミにとって、どれほど遠く、どれほど渇望してきたものだったか。土壇場で、いや、この最後の瞬間に合わせて、ノゾミは自らの壁を乗り越えたのだ。込み上げる熱いものに、視界が滲む。
「よぉ、イマナミ。お疲れさん」
「!お疲れ様です、サカイさん!」
調教を終え、まだ胸の高鳴りが収まらないまま地面に降り立ったイマナミを、いつもの仏頂面ながらも、どこか満足げな表情のサカイが迎えた。
「・・・見たか?今日の手前」
「ええ、見ました!完璧でしたね!これなら…これなら、本番でも!」
「ああ、見事だったな。だが、油断するなよ」
サカイは釘を刺す。
「調教でいくら完璧でも、本番で同じ走りができるとは限らん。それこそが競馬の難しさだ。お前も嫌というほど経験してきただろう?」
「・・・はい。分かってます」
『調教番長』という言葉があるくらい、調教の動きと実際の動きはリンクしないことはよくあることである。
だが、それでも、今この瞬間の確かな進歩を、心の底から喜びたかった。信じたかった。
「まあ、だが・・・」
サカイの声が少し和らぐ。
「ギリギリ間に合った、というところだろうな。有馬記念に」
「はい!本当に、測ったように・・・」
「あぁ。そこがノゾミたる所以だろう。この一週間、ノゾミの集中力は明らかにギアが一段、いや二段上がっていた。まるで、自らの意志で、この日に全てを調律するように。・・・そして」
酒井は、イマナミの目を真っ直ぐに見据えた。
「その繊細な変化を見逃さず、恐怖心と闘いながら、的確な手綱捌きで導いた、お前の手腕でもある」
「いえ、俺は・・・サカイさんの指示通りに」
遜するイマナミに、酒井はそれ以上何も言わなかった。
この一週間、ノゾミが見せた奇跡的な集中力と進化。そして、それを冷静に見極め、最適な調教プログラムを組み立て、リスクを恐れず実行した、目の前の男の手腕。二人の力が合わさって、この瞬間があるのだ。
「まあいい。センセーも今週末には戻られる。あとは自信を持って、あいつをグランプリの舞台に送り出すだけだ」
「はい!・・・まあ、よりにもよって、大外枠ですけどね」
自嘲気味に付け加えたイマナミの言葉に、サカイは苦笑を浮かべた。
「決まったもんは仕方ない。過去、勝ち馬がいない『死の枠』なのは確かだがな。だが、歴史ってのは、塗り替えるためにあるもんだろ?それもまた、競馬だ」
「そう、ですね」
その言葉に、再び闘志が湧き上がるのを感じた。
「それじゃあ、俺は他の馬を見てくる。ノゾミのケア、頼んだぞ」
そう言って踵を返したサカイを、イマナミは思わず呼び止めた。
「あの、サカイさん」
「ん?なんだ?」
一瞬、言葉をためらったイマナミだったが、意を決して、ずっと胸の内にあった疑問を口にした。
「サカイさんほどの知識も技術もある人が・・・どうして、調教師を目指さないんですか?なろうと思えば、いつでもなれるはずじゃ?」
その問いに、サカイは一瞬、遠い目をして何かを考えるような素振りを見せた。そして、ぽつりと言った。
「・・・知識や技術だけじゃ、なれないんだよ、調教師ってのは。少なくとも、俺はそう思ってる。それだけではな」
「そうですか・・・」
その答えは、シンプルでありながら、イマナミの胸に重く響いた。この国本厩舎のNo.2であり、誰もが認める手腕を持つこの人ですら、「なれない」と言う。
(それなら、俺は・・・俺に、何がある?)
無意識のうちに、イマナミの拳にぐっと力が入る。その変化を見逃さなかったサカイは、ふっと息を吐き、少しだけ口角を上げた。
「まあ、イマナミ。お前は、俺よりよっぽど調教師に向いてると思うぞ」
「えっ?」
予想外の言葉に、イマナミは目を丸くした。
「だがな、もし本気で目指すなら、覚悟を決めろ。お前が思っている以上に、厳しい世界だぞ。調教師もな」
それだけ言うと、サカイは今度こそ背を向け、ゆっくりと歩き去っていった。
その背中を見送りながら、イマナミはしばらく放心していた。サカイの言葉の意味、そして自分自身の未来。思考が巡る。
不意に、ポケットの携帯がアラーム音を鳴らす。ハッと我に返った。
「やべっ!俺も厩舎に戻らないと!」
サカイの言葉の余韻と、未来への漠然とした、しかし確かな熱い想いを胸に、イマナミは国本厩舎へと駆け出した。冬の乾いた空気が、彼の決意を後押しするように、背中を強く押していた。




