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13-1 夢のレースへ

 有馬記念


 暮れの中山にファンファーレが鳴り響く。一年の総決算、競馬界最大の祭典、有馬記念。グランプリホースたちが覇を競うこのレースは、日本ダービーと双璧をなす、全てのホースマンにとって特別な舞台だ。

 近年、年末の最終週に2歳G1であるホープフルステークスが新設されたとはいえ、多くの競馬ファンにとって「一年の締めくくり」はこの有馬記念であることに変わりはない。古馬も、三歳馬も、世代を超えたスターたちが、ただ一つの栄誉を目指してこの地に集うのだ。


 そして、このドリームレースをさらにドラマチックに彩るのが、近年恒例となったテレビ中継付きの公開枠順抽選会だ。ファンが見守る中、どの馬がどのゲートから発走するかが決まる。有利不利が囁かれる枠順は、時にレースの行方を大きく左右する。まさに、運命の分かれ道。


 そんな抽選会が2日後に迫っていた。


 冷たい風が吹き抜ける師走の河合牧場、放牧しだされた馬を丁寧にブラッシングしながら、ケイゾーは、傍らで黙々と寝藁を解すアオキに、独り言のように呟いた。


「アオキ・・・悪いが、お前がプリンスホテルまで行ってきてくれ」


 その声には、いつもの覇気がない。アオキは藁まみれの手を止め、訝しげな表情をケイゾーに向けた。


「え? プリンスホテルって、何の話ですか? まさか、忘年会にはまだ早いですし・・・」

「ちがうわ!有馬の公開抽選だよ。お前が行って、引いてきてくれ」


 ケイゾーは、鬣を梳きながら、視線を合わせずに言った。


「はぁ!? 冗談きついですよ、ケイゾーさん!」


 アオキは思わず声を上げた。


「俺が行くなんて、ありえないでしょう。自分以外の人間がクジを引いて、もし、とんでもない大外枠でも引かされたら、後悔じゃ済まないですよ! 『あの時、俺が行っていれば』って、絶対言うでしょ!」


「うっ・・・」


 ケイゾーは言葉に詰まった。アオキの言う通りだった。この大一番、運命の枠順を他人に委ねるなど、小心者の自分に到底できるはずがない。


「・・・確かにな。お前の言う通りだ」

「でしょ? 行くしかないんですよ、ケイゾーさんが」


 アオキは、半ば呆れ、半ば諭すように言った。


「行くしか・・・ないかぁ・・・」


 ケイゾーは、まるで重い枷でもはめられたかのように、がっくりと肩を落とした。その様子を見て、アオキは少し気の毒になり、励ますように声をかけた。


「大丈夫ですよ! ノゾミは、ケイゾーさんと違って『持ってる』馬じゃないですか。振り返ってみてくださいよ。ダービーで誰もが欲しがる最内1枠1番を引いて、菊花賞だってロスなく立ち回れる2枠3番。ジャパンカップだって、真ん中あたりの絶好枠、4枠7番を引き当てたんですよ? あれだけの大舞台で、常に好枠を引き続けてるんです。ノゾミは間違いなく強運の持ち主ですよ!」


 アオキの言葉に、ケイゾーの脳裏にも過去の抽選結果が蘇る。そうだ、ノゾミはいつも幸運に恵まれてきた。ダービーの最内枠には痺れたし、菊花賞もジャパンカップも、決して悪い枠ではなかった。


「そうだな・・・そうだよな! ノゾミの運を信じるしかないよな!」


 ケイゾーは、自分に言い聞かせるように、力強く頷いた。


「そうです、そうです!」


 アオキもケイゾーの言葉に笑顔で応じる。


 その刹那だった。


 カァ、カァ・・・。


 静まり返った厩舎に、やけに大きく、そして不気味なカラスの鳴き声が響き渡った。まるで、二人の楽観ムードを嘲笑うかのように。


「・・・カラスか」


 ケイゾーが不安げに空を見上げると、アオキもつられて視線を追った。低い曇り空の下、数羽の黒い影が、けたたましく鳴きながら厩舎の上空を旋回している。


「ま、まさか・・・偶然ですよ、きっと」


 アオキが言いかけた、まさにその時。


 何か白いものが、ケイゾーの足元、寸でのところに落ちた。それは、紛れもなく鳥のフンだった。幸運の象徴とも言われるが、今のケイゾーには、まるで天からの悪意のように感じられた。


「・・・鳥のフンだ」


 ケイゾーは青ざめた顔で呟いた。運が付くどころか、まるで泥を塗られた気分だった。


「気にしすぎですよ、ケイゾーさん! カラスなんてどこにでもいますし、フンだって、たまたまですって!」


 アオキは努めて明るく言ったが、その声には微かな動揺が滲んでいた。彼自身も、内心で嫌な予感が膨らみ始めているのを否定できなかった。

 その時、バタンッ! と、突風もないのに厩舎の扉が大きな音を立てて閉まった。まるで、見えない何者かが乱暴に閉めたかのように。


「か、風かな・・・?」


 アオキが呟いた直後、今度は厩舎の天井に取り付けられた裸電球が、チカ、チカ、チカッと、まるでホラー映画の一場面のように不規則な点滅を始めた。


「まさか……おい、嘘だろ……」


 ケイゾーの声は、恐怖で震えていた。


「た、たまたまですよ! 球切れが近いんですよ、きっと! 偶然が重なってるだけですって、ケイゾーさん!」


 アオキは必死に否定したが、その額には冷や汗が浮かんでいた。

 カタ・・・カタカタ・・・コロン。

 静寂を破り、厩舎の奥、薄暗がりの中から、何かが転がる乾いた音が聞こえてきた。


「なんだ?今の音は」


 ケイゾーは唾を飲み込み、恐る恐る音のする方へ近づいた。アオキも固唾を飲んでその後ろに続く。

 音の正体は、すぐに分かった。薄暗い馬房の隅に、使い古されて歪んだ蹄鉄が一つ、転がっていた。よく見ると、それは完全に真っ二つに割れていた。


「蹄鉄が、割れてる・・・」


 ケイゾーは、もはや血の気が引くのを通り越し、全身が冷たくなるのを感じた。蹄鉄がレース前に壊れるのは、競走馬に関わる者にとって、最も忌み嫌われる不吉の兆候の一つとされているのだ。


「今日は、一体どうなってるんだ?呪われてるのか?」


 ケイゾーは頭を抱え、その場にへたり込みそうになった。カラスの鳴き声、鳥のフン、閉まる扉、点滅する電球、そして、決定的な壊れた蹄鉄。立て続けに起こる不吉な出来事に、彼の心は完全に打ちのめされていた。


「有馬記念・・・」


 ケイゾーは力なく呟いた。まだ抽選会場へ向かう前から、これほどの不幸が降りかかるとは。一体、自分は、そしてノゾミは、どんな絶望的な枠を引いてしまうというのだろうか。ケイゾーの胸を、底なしの暗い予感が支配していた。それは、暮れの寒風よりも冷たく、彼の心を凍らせていくのだった。

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