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11-3 残痕

美浦トレセンのプールがどんなものなのか、そもそも塩素の匂いがするかわかりません。

 木枯らしが美浦トレーニングセンターの木々を容赦なく揺さぶり、冬の足音がすぐそこまで迫っていた。11月初旬の冷たい空気は、まるで薄く鋭い刃物のように、容赦なく肌を刺す。

 ノゾミは、いつもの堂々とした態度が影を潜め、落ち着きなく周囲を見回していた。精悍な顔つきには、拭い去れない不安が滲み、その視線は、遠くに見えるプールの水面に釘付けになっていた。


「さあ、ノゾミ。今日はプールでの調教だ。体を温めるにはちょうどいいだろ?」

「ヒーン・・・」


 イマナミの優しい声も、今のノゾミには届かない。冷たい風に乗って漂ってくるプールの塩素の匂いに、全身を震わせていた。美浦の広大な敷地内に静かに横たわるプールは、穏やかな水面を湛えているにもかかわらず、ノゾミにとっては、まるで底なしの奈落のように、恐ろしい存在でしかなかった。


 11月のプールは、ノゾミにとって、夏のそれとは全くの別世界だった。鉛色に鈍く光る、冷たい水は、彼の筋肉を芯から硬直させる。


 2年前の震災で津波に襲われた悪夢が、鮮明な映像となって彼の脳裏に蘇る。黒く、冷たく、容赦なく全てを押し流す水の壁。美浦のプールは、彼にとって、あの悪夢を再び体験する、逃れることのできない場所でしかなかった。


「ヒーン・・・」


 恐怖に耐えきれず、ノゾミは体を震わせ、プールから逃れようと後退りした。


「ノゾミ、ゆっくりいこう」


 イマナミは、ノゾミの気持ちを尊重し、無理強いはしなかった。彼のそばに寄り添い、プールの周りを一緒に歩き始めた。そして、少しずつ、本当に少しずつ、水に慣れさせることから始めた。ノゾミは、恐怖で強張った体を震わせながら、恐る恐るプールに近づき、鼻先で水面をそっと触れた。その瞬間、彼の体はびくりと強張った。


「冷たいだろーノゾミ」


 イマナミは、ノゾミの首を優しく撫で、笑いかける。不安を和らげようと、穏やかな声で語りかけ続けた。しかし、ノゾミの恐怖は、イマナミの言葉では到底拭い去ることができなかった。心臓は、まるで激しい雷鳴のように、恐怖で高鳴っていた。


 それでも、ノゾミはイマナミの根気強い励ましに応えようと、勇気を振り絞ってプールに足を踏み入れた。最初は、浅い場所で水に慣れさせ、徐々に深い場所へと移動した。冷たい水が、彼の筋肉をゆっくりと麻痺させていく。そして足から腹へ、そして腰辺りまで浸かり、水は彼の顔近くまで達した瞬間。


「ブヒッ!?」


 ノゾミの表情が変わった。

 水に溺れる恐怖が、津波の悪夢と重なり、全身を支配する。ノゾミは必死に藻掻き、水面を叩き、逃れようともがいた。その瞬間、イマナミは素早く反応し、ノゾミの体をしっかりと支えた。


「大丈夫だ、ノゾミ。落ち着け。俺はここにいる」


 イマナミの温かい声が、ノゾミの耳に届き、恐怖で凍り付いた心をゆっくりと溶かしていく。彼は、イマナミの腕の中で、荒い息を繰り返しながら、再びプールを見つめた。水は、もはや彼にとって脅威ではなく、ただの冷たい液体へと変わっていた。


 ノゾミは、再びプールに足を踏み入れた。今度は、もうパニックになることはなかった。瞳には、静かな決意が宿っていた。


「ハァーとりあえずよかったな・・・」


 その様子を見て、イマナミは安堵の息を漏らした。走ることを禁じられたノゾミにとって、運動量の確保と筋肉の維持のために、プールでのトレーニングは必要不可欠だった。


 ノゾミは、ぎこちないながらも、懸命に足を動かし、泳ごうと努力していた。その姿は、まるで生まれたての子鹿が、初めて立ち上がる姿のように、ぎこちなくも愛らしかった。水しぶきを上げ、必死に前へ進もうとする姿は、見る者の心を打つ。イマナミは、そんなノゾミの姿を見て、思わず微笑んだ。


「ノゾミ・・・なんでもそつなくこなすお前が、こんなにぎこちない姿を見せるなんて、初めてだな」


 イマナミはそう呟き、ノゾミのトレーニングを温かく見守り続けた。瞳には、ノゾミへの深い愛情と、彼が恐怖を乗り越えようとする姿への尊敬の念が宿っていた。


 プールサイドに打ち付ける冬の寒さに負けじと、ノゾミは静かに、しかし確かに、水の中を進んでいく。その姿は、まるで過去のトラウマと必死に戦い、未来を切り開こうとする者のようだった。


 ーーーーーーーーーーーーー


 曇り空の下、美浦トレーニングセンターの片隅で行われた囲み取材。ホワイトフォースの調教師、横山は、静かに、しかし力強く、愛馬の次走について言及した。


「ホワイトフォースは、少し疲労が見られますので、ジャパンカップは見送り、有馬記念を目標に調整します」


 その表情には、愛馬への労りと、来るべき大一番への覚悟が滲んでいた。


「三冠は惜しくも逃しましたが、ホワイトフォースのクラシックでの走りについて、改めて総括をお願いします」


 記者の問いかけに、横山はゆっくりと目を閉じ、クラシック戦線を駆け抜けた愛馬の姿を脳裏に浮かべた。


「そうですね。よくやってくれたと思います。皐月賞、菊花賞と、厳しい戦いを制し、我々に夢を見させてくれました。ダービーにおいては、フッカツノネガイに屈しましたが、あれは相手が強かったとしか言いようがありません」


 ダービーでの敗北。それは、横山にとっても、ホワイトフォースにとっても、決して忘れられない一戦だった。しかし、彼はその敗北を、ただの挫折としてではなく、成長への糧として捉えていた。


「フッカツノネガイとは、ダービー、神戸新聞杯と連敗しましたが、菊花賞では見事にリベンジを果たしました。外野からは、良いライバル関係に見えますが、横山調教師ご自身は、どうお考えですか?」

「ホワイトフォース自身が、フッカツノネガイを明確にライバルとして意識しています。菊花賞での勝利は、彼にとって大きな自信になったでしょう。ですから、有馬記念で再び相まみえることを、心から願っています」


 横山の言葉には、ライバルへの敬意と、再戦への強い意志が込められていた。


「他に、意識している馬はいますか?」

「牝馬では、ハナマンカイですね。オークス、秋華賞と、牡馬顔負けの異次元の走りを見せました。彼女は、間違いなく強力なライバルになるでしょう。

 そして、何よりもインダストリアル。現役最強馬と謳われる彼との対戦は、我々にとって大きな挑戦です。胸を借りるつもりで、全力でぶつかっていきたいと思います」


 横山は、ライバルたちの名を挙げながら、それぞれの強さを認め、そして、自らの挑戦への意欲を語った。


「有馬記念を制覇し来年の飛躍が期待されています」

「はい。ホワイトフォースには、日本の、そして世界の競馬ファンの夢を背負って、凱旋門賞制覇を成し遂げたいと思います」


 凱旋門賞。その言葉に、報道陣がざわめく。世界最高峰の舞台。そこへ、ホワイトフォースは挑む。


「そのためにも、まずは有馬記念で、彼の力を証明してみせます。ぜひ、ホワイトフォースの走り、そして、我々の挑戦に、ご期待ください」


 横山は、最後に、力強い言葉で締めくくった。その言葉には、愛馬への信頼、そして、世界への挑戦への覚悟が満ち溢れていた。

 報道陣のカメラの放列と記者のペンが、横山の言葉を記録していく。その光景は、あたかも、一頭の競走馬の、そして、彼に関わる人々の、新たな物語の始まりを告げているかのようだった。

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