11-2 残痕
昼下がりの国本厩舎は、乾いた藁の匂いと、馬たちの穏やかな息遣いに満ちていた。差し込む陽光が、埃っぽい空気の中で細かな塵を煌めかせている。クニモトは、長年使い込まれた調教プランのファイルを閉じ、イマナミに向き直った。その顔には、いつもの穏やかな笑みはなく、わずかに緊張が漂っていた。
「ノゾミの追い切りは、3週間やめとこう」
重々しい口調が、静かな厩舎に響く。
「走らせない、ということですか」
イマナミは、確認するように問い返した。その声には、わずかな動揺が混じっていた。
「ああ。ノゾミの抱える古傷が、現在の状態にどれほど影響を与えているのか、正確には掴みきれていない。だが、一度、レースから完全に離れてみることで、何が見えてくるか試したい。ただし、ジャパンカップも近いから、運動量は維持する必要がある」
「ということは・・・プールですか」
イマナミは、遠い目をしながら呟いた。脳裏には、過去の悪夢が蘇る。ノゾミが、まるでプールを破壊せんばかりに暴れ回った、あの日の光景が。
「あぁ。そうなるな」
クニモトは、苦笑いを浮かべた。
ノゾミは、水浴びは好むものの、プールだけは例外だった。
人に指示されることを極端に嫌い、追い切りが思うように出来なかった頃、運動量を確保するためにプールにノゾミを連れて行った時があった。
その時、ノゾミは文字通りプールを破壊せんばかりの勢いで暴れ、厩舎中にその名を轟かせた。G1馬として落ち着きを見せ始めた今でも、水への恐怖は克服できていないだろう。
「なんか、久しぶりに大暴れしそうな予感がするんですけど」
イマナミは、不安げな表情で呟いた。
「よかったな。元気なノゾミが見られるぞ」
クニモトは、イマナミの心配を意に介さず、どこか楽しげに笑った。
「G1馬の風格も大事だが、たまにはあいつのやんちゃっぷりも見てみたいもんだ」
「いやいや、最近やっと落ち着いてきて、G1馬の風格が出てきたなって言われてきてるんですよ」
青葉賞以降、ノゾミは落ち着きを覚え、堂々とした風格を身につけつつあった。かつての荒々しさは影を潜め、今ではレースセンスのある賢いG1馬として、周囲から一目置かれる存在となっていた。
「それゆえに問題児がノゾミからコメコに変わって、そしてコメコもやっと目処がついたっていうのに・・・」
イマナミは、嘆息交じりに呟いた。
「まぁ、それは仕方ない。お前も、もうベテランだ。大人しくて癖のない馬だけじゃなくて、一癖も二癖もある馬の世話を任されるような年齢なんだよ」
ベテラン。その言葉が、イマナミの胸に重く響く。この仕事を始めてから長い年月が経つ。確かに国本厩舎の従業員は自分よりベテランの人ばかりで、自分より若い従業員はいない。しかし周りを見渡せば、自分よりも若くして活躍している調教師や厩務員たちがいる。馬が好きでなんとなくはじめた仕事だったが、今こうして、ダービー馬を任されるようにまでなってしまった。自覚を持たないといけない。
ノゾミがプールで暴れる姿を想像すると、頭が痛くなる。しかし、それ以上に、ノゾミが弱点を克服した時、どのような競走馬になるのかワクワクもあった。
ノゾミにどのようにアプローチするか考えるイマナミを見てクニモトは笑みを浮かべた。
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秋の京都競馬場を沸かせた菊花賞から一週間。東京競馬場のターフでは、早くも次なる熱狂の舞台、天皇賞・秋に向けて、静かなる闘志が燃え上がっていた。
天皇賞・秋を走る18頭の精鋭たちが、それぞれの呼吸を整え、研ぎ澄まされた集中力でゲート前で輪乗りをする。その蹄音、息遣い、そして静かに燃える闘志が、東京競馬場の空気を震わせる。
そして、レース開始を告げるファンファーレが、東京競馬場に高らかに鳴り響いた。
『今年の天皇賞・秋、ついにスタートです。
昨年の年度代表馬、③番インダストリアルの秋初戦。その他G1馬5頭。そして3歳馬からは、皐月3着の⑦番ソードマウンテン、ダービー3着の⑤番サンショクダンゴが参戦。まさに、世代を超えた最強馬決定戦と言えるでしょう。さあ、加藤将さん、注目馬をお願いします』
「まずは⑤番サンショクダンゴを上げたいと思います。サンショクダンゴは、本当にレースセンスが抜群です。どんな展開でも、自分の力を出し切れる。今日は、3歳馬のレベルの高さを証明してほしいです。
そして、やはり注目は③番インダストリアルですよね。5歳になって、さらにパワーアップしましたね。香港を快勝し、宝塚記念も制覇。今年の秋は、古馬三冠を目指すとのことですから、ここは絶対に負けられません。
そして、牝馬からは①番メロディーアをあげたいです。去年の牝馬二冠馬が、爪の不安を乗り越えて、4歳初戦を迎えます。去年のパフォーマンスができれば、十分に勝負になると思います。」
『ありがとうございます。さて、ゲートインは既に始まっています。
おっと⑫番タイヨーク、ゲート前で後退り。去年大阪杯覇者です。勢いをつけて、なんとか入りました。
そして最後に、⑱番タイガーショック・・・
収まりました。
ゲートイン完了。
スタートしました!!
先頭に立ったのは②番ハロン!そしてすぐ後ろに①番メロディーアつきます。そして1馬身ほど後ろに。⑫番タイヨーク。⑰番ソードコマンダーが追走。
すぐ後ろにはダービー3着馬⑤番サンショクダンゴ。そのすぐ外に一昨年の皐月賞馬⑧番アロマエンジェル。そしてすぐ後ろにいました。
③番インダストリアルはゆったり中団につけます。そしてインダストリアルをマークするように⑥番バーサーカー。そして⑦番ソードマウンテン。先頭最後方まで10馬身程度の短い隊列で向正面へ参ります。』
武谷は、チラリと後方を見る。
(難しいレースになったな……)
逃げているハロンのペースが遅い。おそらく、このまま直線に入るまで、隊列はバラけないだろう。
こういったスローペースの展開になると、直線で進路がない馬が続出する。そして、進路がなくなるであろう馬は、相棒のサンショクダンゴ。
(そして、すぐ後ろにいるインダストリアル)
「腕の見せ所だな」
武谷はニヤリと笑った。
『さぁー。4コーナーを周り直線に入ります!先頭は依然としてハロン!メロディーアが上がっていった!後続馬殺到!しかしサンショクダンゴ、インダストリアル人気馬2頭に進路がありません!!
残り400!先頭変わって、メロディーア!
おっと!!ここでサンショクダンゴ仕掛け始めた!!ひらりとひらりとライバルたちをかわしていきます!!
馬群の間、間を縫ってサンショクダンゴも先頭に立った!!メロディーアに追いすがる!!
メロディーアとサンショクダンゴの叩き合い!!
一方でインダストリアルは進路がありません!!』
「針の穴を通す」――そんな言葉が脳裏をよぎる、常識外れの進路取り。武谷とサンショクダンゴは、まるで意志を持つ刃のように、群がる競走馬の間隙を縫い、メロディーアの隣へと躍り出た。通常の馬であれば、ラジコンを操るかのような、こんな芸当は不可能だろう。
サンショクダンゴの、花を見て食べ始めたりターフの芝を食べ始めたりとレース前とは思えないノンビリとした気性。それも、この奇跡的な走行を可能にした要因の一つであることは間違いない。
しかし、それ以上に、彼の関節と筋肉が持つ、驚異的なまでの柔軟性こそが、彼のレースにおける最大の武器だった。爆発的なロケットスタートがなくとも、稲妻が如き豪脚がなくとも、サンショクダンゴは、その卓越した身体能力だけで、他馬を圧倒する。
今、勝負は、サンショクダンゴとメロディーア、二頭の駿馬による、一騎打ちの様相を呈していた。他の馬たちは、すでに勝負圏内から脱落し、二頭の激しい火花散る戦いを、ただ見守るしかない。
はずだった。
アイツは前にいる2頭の馬のほんの僅かなスペースを見逃さなかった。
『なんと!強引に馬群を割ってきた!インダストリアル!!
ないはずの進路を、強引に作り出した!!
しかし、先頭はサンショクダンゴ!メロディーア!!
残り200!!
後方強襲!インダストリアル!!
並び立つ!!
いや、並び立つ間もなく先頭!!
インダストリアル!インダストリアル!必死に追いかけるサンショクダンゴ!メロディーア!の両頭!!
しかし、これは・・・インダストリアルだー!!!
強い!強すぎる!進路がなかったサンショクダンゴとインダストリアル。誰もが諦めかけていました!!
しかしサンショクダンゴは馬群を縫い!インダストリアルは馬群を割ってきた!!進路取りに苦労した馬のワンツー!!
1着は古馬3冠宣言で1冠目から躓くわけには行きません。現役最強馬インダストリアル。
2着はサンショクダンゴ。3歳馬のレベルの高さを示しました!そして、3着のメロディーアは久々にしては上々。そして、4着は・・・』
「おつかれさん」
武谷は、サンショクダンゴの首筋を優しく撫でた。
勝ったと思った。
去年よりキレがないメロディーアなら、差し切れると。そして、インダストリアルは馬群に飲み込まれているのなら、サンショクダンゴを後ろから差すことができる馬は、このレースにはいない。
しかし、アイツは馬群を割った。狭い僅かなスペースにハナを突っ込み、強引に広げ、猪突猛進に突っ込んできた。
去年から強かった。
しかし、あれほど場を圧倒する威圧感があっただろうか。
武谷は、チラリとスタンド前にいるインダストリアルを見る。
レース終わりの彼の姿を見て、目を見開いた。
こんな馬見たことない
「速い」というより「強い」。それが、この馬の本質だろう。
「速い馬」のホワイトフォースは、稲妻のような末脚を武器にする。大外を悠然と回り、ライバルたちを置き去りにする姿は、まさにスピードの権化だ。
対して、「強い馬」のインダストリアルは、鋼の肉体と不屈の闘志で、馬群を強引にねじ伏せる。これまでは、何度も前が壁になり、着外になることも多かった。
しかし、昨秋、彼は覚醒した。進路を切り開く圧倒的な力、そして、どんな状況でも臆することなく突っ込む勇気。それこそが、王者インダストリアルの証だ。
その姿は、見る者の魂を震わせる。栗毛の馬体は、研ぎ澄まされた刃物のように、無駄な贅肉を一切そぎ落としている。短距離馬と見紛うほどの筋肉が、鎧のように隆起し、一目でただ者ではないと悟らせる。
首、肩、胸へと続く筋肉は、岩のごとく硬く、触れる者を拒絶する。そして、獲物を射抜くような鋭い眼光。そこには、野獣のような獰猛さが宿っている。周囲のすべてを睥睨し、逆らう者を許さない。王者の誇りが、静かに、しかし確実に、見る者の心を震わせる。
まさに王者であり覇王
王者インダストリアル、秋始動。
その視線の先には、二冠目の栄光、ジャパンカップが見据えられていた。




