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2-1 消えない闘志

 夜明け前の静寂を破り、河合牧場の再建が始まった。打ち込まれる杭の鈍い音、鉄骨と木材が組み合わさる乾いた音、そして響き渡るハンマーの金属音。職人たちの手によって、馬房と放牧地の輪郭が徐々に現れていく。


 太陽が昇るにつれ、馬房の骨組みが完成し、内部のストールが組み立てられる。放牧地も同時に形作られ、真新しい水飲み場が据え付けられた。


 昼下がりには、馬房と放牧地が急速に完成に近づき、夕暮れにはその全貌が現した。まるで魔法が使われたかのように、夜の帳が降りる頃にはすべての作業が完了していた。ノゾミのために河合牧場を復興すると決めて、わずか四日目の出来事だった。



「もう出来たんですか!?昨日までなんもできてなかったですよね?・・・」


 スーツ姿のアオキは様変わりした河合牧場を見て、驚嘆の声をあげた。


「あぁ・・・」


 作業を見守っていたケイゾーもアオキの言葉に頷くことしかできない。日本の建築技術を侮っていたわけではない。しかし、目の前で繰り広げられた驚異的なスピードには、自身の認識不足を痛感し、わずかな羞恥心を覚えた。


「それにしても、こんな復興に忙しいなか、こんなに早く直してもらえるなんて、ケイゾーさん。いったいどんな裏ワザを使ったんですか?」

「小田組さんがなるべく早くできるように手を回してくれたんだよ。」

「小田組って・・・ケイゾーさん、どこでそんな繋がりが?」


 小田組。それは地元を代表する大手建設会社である。土木工事を主な事業とし、現在は復興のためのインフラ整備で多忙を極めているはずだ。そんな大企業が、なぜ個人の牧場復興に協力してくれるのか。アオキには想像もつかなかった。


 ケイゾーはアオキの疑問にため息をつきながら答えた。


「お前な・・・オーナーの名前くらい覚えておけよ。一緒に避難したアダマント。オーナーは小田組の社長の小田邦夫さんだ。ちょっと相談したらな、特別に便宜を図ってくれた。」

「え、そんなことで優遇してくれるんすか?」


 アオキはそう言いながら、新しく植えられた芝生に手を触れ、感心したように頷いた。以前の芝と遜色ない、見事な芝生だ。


「あぁ、競走馬が亡くなったら保険金が出る。だが、保険金出たところでオープン馬が買えるわけではないからな」

「あーそう言えばあのあとアダマント。オープン、勝ちましたね」


 アオキは納得の表情をする。

 競馬の馬主はお金にそこまで執着がない。お金で買えるものはあらかた買ってしまっているからだ。彼らが真に求めるのは、金では決して買えない名誉。馬主たちは皆、愛馬がG1レースで勝利する夢を見て、時に割に合わない投資をしている。


 次はアオキは新しく建てられた馬房を覗き込んだ。これもまた、以前の馬房よりはるかに機能的な、上質な造りだった。


「馬房は藁をひいてある。ただな」

「ただ?」

「ノゾミは全く入りたがらない。たぶん新築だからだろーな。たぶん匂いが気になるんだろー」


 ケイゾーはやれやれとお手上げ模様だ。アオキも、どれどれと匂いをかぎ、顔をしかめた。


「確かに若干薬品臭いですね」

「だろ?たぶんそれが気に入らないんだと思う。今日は放牧地で過ごさせる。」

「てことは今日も近くで寝泊まりするんですか?」


 ケイゾーは静かに頷いた。馬房に入らない馬を一人にするのは危険だ。野生動物に襲われる可能性もある。ケイゾーはノゾミの安全を第一に考え、この4日間寝食を共にしていた。


「まぁ、今日からは柵もできたし、さらにフェンスまでつけたから少しは安心はできるだろう」 


 そう言ってケイゾーは寝袋の準備をする。


「何度も聞きますが、オレやりますよ。それくらい」


 アオキは心配そうにケイゾーに申し出る。もう3日も外で寝泊まりしているケイゾーには、少し疲れが見られた。


「いやー、アオキは就活中で、大変だろ。俺は就活とかしたことねぇからわかんねぇけど」

「でも・・・」 

「とにかくこっちは気にするな。自分の心配をしろ」


 こうなるとケイゾーは頑固だ。アオキは諦めの表情を見せた。


「わかりました。何かあったら教えてください。」

「おう。ありがとな」


 ケイゾーとアオキは放牧地の最終確認を終える。

 そしてケイゾーは放牧地の扉を開け、アオキはノゾミを引く。ノゾミは抵抗することなく、放牧地に導かれ、放牧地へと足を踏み入れた。


 アオキは手綱を離す。


「ブヒヒ!!」


 まるで子どものように軽快な足取りで草地に飛び出すノゾミ。風が彼のたてがみを優しく撫で、夕陽の光が彼の毛並みに温かな輝きを与える。初めての自由を感じるかのように、ノゾミは大きく息を吸い込んだ。


「やっぱりうれしそうですね」


 アオキの言葉にケイゾーは深く頷く。


「やっぱりあいつも馬なんだなー」


 ノゾミは芝の上をゴロゴロと転がっていた。その光景に2人は目を細める。


「飯にしよう。明日は予定あるか?」

「いや、ないです。もともと牧場でなんか手伝う予定だったんで」

「おーならちょうどいい。飯食ってけ」

「いいんですか!?」


 そう言って、ケイゾーとアオキは夕飯を取りに家に向かったのだ



 ーーーーーーーーーーーーー

 夜更けの静寂が辺りを包む中、ケイゾーはふと目が覚めた。馬房の藁の香りが鼻腔に染み渡る。夢と現実の境界が曖昧なまま、ぼんやりと天井を見上げる。月明かりが細い隙間から差し込み、部屋の中を幽かに照らしている。


「・・・ふわぁー。ノゾミの様子を見に行くか」


 あくびを1つ、ゆっくりと体を起こし、ノゾミのもとへ歩き始める。扉の蝶番が小さな音を立て、夜の静けさに微かに響く。外は冷たい風が吹き抜け、肌を刺すような寒さで身を震わせる。


「ノゾミ・・・?」


 ケイゾーは目を疑った。


 静寂に包まれた夜の放牧地の闇の中で、一頭の馬が特別な光を放っていた。言うまでもないノゾミである。


 彼の筋肉は、月光の下で美しく輝き、力強いリズムで地面を踏みしめる。長い首が高く掲げられ、まるで星々に誓うかのように、その目は未来を見据えていた。息は白い煙となって夜空に立ち昇り、まるでその努力が天に届くようだった。


 競走馬として生まれるためのトレーニングは、単なる身体の鍛錬ではない。それは精神の試練、心の成長だった。彼は夜の静けさの中で、自分の限界を押し広げ、信念を深めていった。蹄の音はリズムを刻み、まるで彼自身が運命の音楽を奏でているかのようだった。


 この一頭の馬は、誰にも見られず、誰の声援もなく、己の内なる声に応えて走っていた。それは静かな戦いである。自分自身と向き合い、競走馬としての未来を創造するために、夜の闇を切り裂くように走り続けた。


 この瞬間、彼はただの馬ではなく、一途な夢を追い求める一人の人間のようだった。そして、その姿は夜空の星々と共に輝き、誰にも気づかれずに、しかし確かに、この世界にその存在を主張していた。


 それをケイゾーは邪魔することなく、ただ見守る。男の口元は一筋の線のように引き締まった。唇が固く閉じられ、顎が張り、決然とした意志がその顔に浮かぶ。1歳馬の頃の彼と比べると今の彼は劣って見える。ましてや今の2歳馬とくらべると目も当てられない。


(だからもう走らなくていい)


 喉まで出かかった言葉を、ケイゾーは辛うじて飲み込んだ。


 彼の瞳を見てしまったから。


 彼の瞳には、再起を図る決意が燃えていた。まるで暗闇の中で一筋の光を見つけたかのように、その眼差しは強く、そして揺るぎない意志を宿していた。かつて失ったものを取り戻すため、立ち上がる覚悟が、その澄んだ瞳の中に見て取れた。


 ケイゾーは拳を固く握りしめた。目は馬から離さない。そして、まるで何かを誓うかのように、深く頷いた。


 そしてゆっくりノゾミに近づき、放牧地の扉を開けた。


「よー、ノゾミ。ほどほどにしとけよー」


 なるべく柔らかい表情でノゾミに話しかける。


「ヒュー・・・ヒュー・・・」


 ノゾミの表情、呼吸とともに余裕はない。ケイゾーはノゾミの目を見て言った。


「なあ、ノゾミ。俺とアオキは、別にお前に走ってほしいわけじゃないんだ。それに、お前がどんなに厳しい訓練を積んでも、勝算は限りなく低い。それは紛れもない事実だ」


 ノゾミはケイゾーの目を見て、ケイゾーの言葉を静かに聞いた。


「それを知ってもなお、お前はあの世界に行きたいのか?残酷な世界だぞ。勝てない馬には冷たい世界だ。」


 競馬場の光景は、表面上は華やかで、栄光に満ちたものに見える。観客たちは、目の前の競走馬が疾走する姿に酔いしれ、勝利の瞬間を待ち望む。しかし、その背後には、多くの人々が知らない、残酷な現実が広がっている。


 馬たちは生まれた時から、ただ走るために存在する。厩舎の冷たい床の上で、毎日が始まる。朝、厩務員の手によって厳しいトレーニングが課され、競走馬としての価値を証明するために、日がな一日、走ることしか許されない。


 レースの日、馬たちは華麗な装束に身を包み、観客の喝采を浴びる。しかし、その輝きの裏側で、彼らの体は限界まで追い込まれ、怪我や病が常に付きまとう。競馬の世界では、骨折や腱断裂といった重傷は日常茶飯事であり、その結果、一部の馬は安楽死の道を選ばざるを得ない。また、競走能力を失った馬は、しばしば競馬界から追放され、その後の人生は不確実さに満ちている。


 競馬とはそんな世界である。


「それでもお前は競馬の世界で戦いたいのか?勝ちたいのか?」

「ヒンッ!!」


 ノゾミはまるで言葉がわかっているかのように大きく頷いた。その目には、決して諦めない強い意志が宿っていた。ケイゾーは静かに近づき、馬の側で膝をついた。手を伸ばし、その温かい首筋に触れ、馬の鼓動を感じた。


 心は決まった。

ケイゾーは立ち上がり、両手をその背に置いた。そして、まるで誓いのように、目を閉じて深く息を吸い込んだ。


「分かった。ならオレと一緒に夢を見よう」


 そうケイゾーは囁いた。馬の温かな息吹を感じながら、ケイゾーはこの瞬間から共に歩む道を選んだ。どんな困難が待ち受けていても、この馬を支える力となると誓ったのである。


「ブヒっ」


 ノゾミは身をかがめ、体を揺らす。何かを待っているかのようだ。


「なんだ?ノゾミまさか乗れってか?」


 ケイゾーが冗談交じりそう言うと、ノゾミは自信満々そうに頷く。それを見て、ケイゾーは「まじか・・・」と苦笑いを浮かべる。ノゾミは馬具をつけていない裸馬である。その馬に乗り移動することは、馬にとっても、人にとっても難しい。ケイゾーは拒絶の意思を見せるが、ノゾミは譲る気配はない。


「わかったよ・・・」


 ケイゾーは恐る恐るノゾミの背中に跨る。ケイゾーがしっかり座ったことを確認し、ノゾミはスッと立ち上がった。揺れもなくスムーズな立ち上がりだった。


「視線が高い」


 思わず声が漏れる。これは1年前だったら当たり前の光景だった。牧場にいた馬に乗ってトレーニングするなんて当たり前だった。だが、今、この瞬間がかけがえのないものだと、ケイゾーは深く感じていた。。


「ありがとな」


 ケイゾーはノゾミに「降ろしてくれ」と背中をポンポン叩く。しかし、ノゾミは一歩も動く気配はない。


「この光景を見せたかったんだろ。降ろしてくれ」


 ケイゾーがそう言うが、ノゾミは反応しない。


「おーい。ノゾミ?聞いてるかー?」


 ケイゾーは怪訝そうに言うと、ノゾミはケイゾーのほうを見て、いたずらっぽくニヤリと笑った。

 そして、その直後、ノゾミは大地を力強く蹴り上げた。まるで星空に誘われるように。静止を拒否するように、風を切って走り出した。


 夜風がケイゾーの髪を激しくなびかせ、その胸を高鳴らせる。ノゾミの力強い走りに身を委ねながら、ケイゾーは夜空を見上げた。無数の星々が瞬き、まるで彼らを祝福しているかのようだ。


 速度が増すにつれ、星々が後方へ流れ、時間が止まったかのように感じられた。その瞬間、ノゾミは天に向かって力強く嘶く。


「ヒヒーン!!!ヒヒーン!!!」


 その咆哮は、夜の静寂を切り裂き、遠くまで響き渡った。ノゾミの魂の叫びに応えるように、ケイゾーもまた、夜空に向かって叫んだ。


「一緒に走るぞ!!そして勝つぞ!!」


 この一瞬、彼らはただ自由を感じ、魂の叫びを天空に響かせた。星空の下で、馬と男は一体となり、挑戦への遠吠えを放った。


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