10-3 再戦
東の空が、静かに、しかし確実に白み始め、やがて力強い朝陽が地平線から顔を出す。例年なら、菊花賞デーである今日は、人々の熱気と期待で溢れかえるものである。
しかし今日は違った。競馬場全体が、まるで重い布で覆われたかのように、異様な静けさに包まれていた。
観客たちは、ただ静かに、何かを待ち受けるかのように、それぞれの席に座っていた。彼らの表情は、一様に硬く、その視線は、遠く、過去の一点を見つめているようだった。2年前の今日、日本を、ノゾミの故郷を、未曾有の大災害が襲った。今日という日は、単なる菊花賞の開催日ではなく、あの悲劇を追悼する日でもあった。
場内に、司会者の穏やかな、しかし、張り詰めた声が響き渡る。
「黙祷をお願いいたします。」
その言葉を合図に、観客全員が一斉に、静かに目を閉じた。彼らは、それぞれの心の中で、失われた命へ、そして、今もなお苦しむ人々へ、祈りを捧げた。G1レースの華やかさは、そこにはなく、ただ、厳粛な静寂が、競馬場全体を支配していた。
「ご協力ありがとうございました」
その言葉を合図に、静寂が終わりを告げ、ゆっくりと、しかし確実に、競馬場に日常が戻り始めた。朝陽が、観客たちの顔を、静かに、しかし力強く照らした。
「・・・ケイゾーさん、行きましょうか。」
アオキが、静かに、しかし、力強くケイゾーに言った。
「ああ、そうだな。」
ケイゾーは、アオキの言葉に頷き、ゆっくりと、しかし、確かに、馬主席へと歩き出した。菊花賞デーが始まった。
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第8Rのパドック。午後の陽光が、アスファルトの照り返しと馬体の汗を煌めかせ、ざわめきと熱気が渦巻いていた。クニモトとイマナミは、一頭の馬を引きながら、周囲の喧騒を遮断するように、静かに言葉を交わしていた。
「ノゾミはどんなコンディションだ?」
クニモトがイマナミに尋ねる。その声には、普段の冷静さの中に、わずかな不安の色が滲んでいた。
「いやあ、ちょっとピークアウトしちゃってました」
イマナミが、苦笑いを浮かべながら答える。
「やはり、神戸新聞杯で仕上げすぎたか」
クニモトはそう呟き、馬運車から降りてきたノゾミの姿を、記憶の中から呼び起こした。
決して悪い仕上がりではなかった。しかし、自らの意志で馬体を創り上げるノゾミにしては、僅かに細く、研ぎ澄まされすぎた印象を受ける。神戸新聞杯での激走が、僅かに影を落としているのかもしれない。
(菊花賞直行の方が良かったか・・・)
クニモトは、心の中で小さく舌打ちをした。
しかし、すぐにその考えを振り払う。過去を悔やむよりも、今、目の前のレースに集中すべきだ。
「対して、コメコはいいっすね。抜群に」
イマナミが、引いている馬に目を向け、確信に満ちた声で言った。その声には、隠しきれない興奮が滲んでいた。
「ああ。間違いない。良いな」
クニモトもまた、コメコことビジョンコメコの堂々とした佇まいに、思わず頷いた。1勝クラスの自己条件である8Rのパドックを、コメコは悠然と闊歩していた。
神戸新聞杯の時とは、まるで別の馬のようだ。細かった四肢には、力強い筋肉が付き、肋骨が浮き出ていた腹回りも、ふっくらと、それでいて無駄のないラインを描いている。馬体の変化もさることながら、レースに対する意識が、劇的に変わっていた。
以前は、輸送のストレスでパニック寸前だったコメコが、ノゾミと共に過ごすことで、信じられないほどの落ち着きを取り戻し、調教もノゾミと一緒にしたことによって、内に秘めた闘志が、出るようになってきた。
「ノゾミに感謝だな。」
クニモトが、感慨深げに呟く。
「追い切りで頑張りすぎたせいで、当の本人は疲れちゃいましたけどね」
イマナミが、苦笑交じりに言う。その言葉には、ノゾミへの労りと、コメコへの期待が込められていた。
「それを言うな。だが、大丈夫だ。あいつは、そんなことを言い訳にしない。国本厩舎きっての、負けず嫌いだからな」
クニモトはそう言って、力強く笑った。その笑顔には、ノゾミへの絶対的な信頼が滲んでいた。
「まあ、ノゾミに繋げますか。このレース、絶対に負けられませんから」
イマナミが、引き締まった表情で言う。その言葉には、勝利への強い決意が込められていた。
「ああ、そうだな」
二人は視線を交わし、電光掲示板に目を向けた。
ビジョンコメコ 1.3倍
2番人気の馬は10.3倍。他に一桁人気の馬はいない。
圧倒的な一番人気。
神戸新聞杯の負け方からは考えられない人気だが、競馬関係者やファンは、コメコの変貌を確信していた。追い切りで見せた走りは、ノゾミに匹敵すると。
そしてクニモトとイマナミも確信していた。コメコは、このレースに勝つことを。そして、その勝利を、ノゾミへと繋げることを。そのために、彼らは全力を尽くす。
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『菊花賞デーの京都7R・・・スタートしました!おっと、ビジョンコメコ伸び上がったかのスタート。その他出遅れはありません。
先頭は⑧番キーエンス。そこにピッタリマーク、⑨番ヨコハマ。そこから3馬身ほど離れまして、①番ミスターボーイ、⑭番カルロスローズ⑤番ニューノーマル。そして最後方に圧倒的一番人気⑭番ビジョンコメコゆったりと構えます。
キーエンスとヨコハマが競り合って逃げていきます。その差7馬身。後方には動きがありません。
1000m通過しました。1000m63秒!!おっとこれは、スローペース。後続馬届くのか。
4コーナーに入ります。悠然と上がってきました。ビジョンコメコはじめ、後続馬動き出します。
しかしおっと!ビジョンコメコ逸走!?ビジョンコメコ1頭。外ラチによろめく!先頭争いは依然としてキーエンスとヨコハマ!!後続馬追いつけません!!
しかし1頭外から飛んできた!ビジョンコメコ!!あっという間に詰め寄ってきた!残り200の標識を通過!差し切った!ビジョンコメコ!そして突き放す!!
これは強い!ビジョンコメコ一着でゴールイン!!
2着は⑧番キーエンス。3着は⑨番ヨコハマ。圧倒的一番人気に応えました⑭番ビジョンコメコ。
出遅れ逸走なんのその!ビジョンコメコ。鞍上武谷雄一は今日2勝目!今年JRA100勝まであと2勝となりました。
電光掲示板はスンナリ。一着⑭番ビジョンコメコ。2着⑧番・・・』
イマナミは地面にへたり込み、安堵の息を漏らした。
「はぁーーー、マジで焦った……」
スタートで出遅れたのはまだ良かった。しかし、1000m通過63秒というタイムを聞いた時は、背中に冷たい汗が伝った。そして、まさかの逸走。心臓が口から飛び出すかと思った。
なんとか勝利を掴み取った瞬間、全身から力が抜け、安堵感が津波のように押し寄せた。競馬場の喧騒が遠く、まるでスローモーションのように感じられる。聞こえるのは、自分の荒い息遣いと、早鐘のように鳴り響く心臓の音だけ。
それでもなんとか検量室へ向かい武谷を迎え入れる。
「お疲れ様です。武谷さん」
イマナミはそう言って武谷をコメコから降ろす。
「お疲れ。まだまだ粗削りだな、この馬は」
そう言って武谷はコメコの鬣を撫でる。
「ええ、もともと不器用な馬なんですけど、追い切りでは綺麗にコーナーを回れていたので、油断してました」
「フッカツノネガイと一緒に追い切りな。俺もあの追い切りを見てたから、完全に油断してたわ」
「ですよね……」
検量を済ませ、二人はウィナーズサークルへと歩き出す。
「イマナミ。フッカツノネガイと追い切りできる時は、なるべく一緒にやった方がいいぞ。あの馬のコーナリングは競馬のお手本だからな」
「武谷さんがそこまで絶賛するなんて、ノゾミって本当にすごいんですね」
イマナミは、レジェンドがノゾミを競馬のお手本と称することに驚きを隠せなかった。
「あれは本当に凄い。あんなに競馬を知っている馬、俺は見たことがない」
武谷のノゾミに対する評価の高さに、イマナミはただただ圧倒された。武谷は冗談交じりに続けた。
「もし、三津が乗れなくなったら、俺が乗るから、その時はよろしく頼むよ」
「はは……、その時はよろしくお願いします」
イマナミは苦笑いを浮かべるしかなかった。武谷に冗談でさえも、軽々しく言い返すだけのキャリアが、自分にはまだ20年ほど足りない。
「ああ、それと、コメコのローテーションが決まったら教えてくれ。オレが乗る。他の馬と被らないように調整するから」
「ありがとうございます、助かります」
イマナミは武谷のありがたい申し出に、深々と頭を下げた。一方、コメコは、ノゾミがいる馬房の方をじっと見つめていた。アクシデントはあったものの、コメコは見事に勝利し、ノゾミへとバトンを繋いだのだ。




