10-2 再戦
秋晴れの空がどこまでも高く、菊花賞を目前に控えた金曜日。緑豊かな河合牧場には、静謐な空気が漂っていた。町の八百屋店長であり、商店街会長でもある耕作が、いつものように明るい笑顔でケイゾーを訪ねてきた。
「よぉ、ケイゾー。いよいよ菊花賞だな!」
「ああ。おかげさまで、最近は取材も多くてな。だが、それも今日までだ」
ケイゾーは、少し疲れた様子で古びた革張りのソファに深く腰を下ろし、ゆっくりと息を吐き出した。その表情には、期待と不安が入り混じった複雑な感情が浮かんでいた。
「お前が河合牧場を続けると言い出したときはびっくりしたけど、よくここまで来たな」
耕作はそう言って、遠い日のことを思い出すように目を細めた。窓の外に目をやると、広大な牧草地が広がっている。そしてそこでは、数頭の馬たちが、夕日に照らされて黄金色に輝く草を食んでいた。
「俺だって驚いたさ。まさか本当に続けることになるとはな。一年前の今頃は、牧場をどう畳むか、そればかり考えていたからな」
まるで昨日のことのように一年前を思い出し、苦笑いを浮かべた。
「でも、俺たちは嬉しいよ。かつては馬産で栄えたこの町も牧場も大型牧場に押され、廃れてしまったからな。そして、残ったわずかな牧場も一昨年の震災で廃業してしまったからな」
「この辺で残ってるのって、澤井さんくらいか?」
ケイゾーがそう言うと、耕作は静かに首を横に振った。
「いや、澤井さんも歳も歳だから、廃業するらしい」
「そうか・・・寂しくなるな」
いくら復興に力を入れようと、この町は、緩やかに、しかし確実に、その灯を消しつつあるのかもしれない。ケイゾーと耕作の間には、静かで重い沈黙が訪れた。
その沈黙を打ち破るように、耕作はいつもの明るい声で言った。
「菊花賞の当日の10月26日に、公民館で菊花賞のパブリックビューイングをしようと思うんだが、いいよな?」
「それはありがたいが・・・いいのか。その日は・・・」
耕作の提案に戸惑うケイゾー。
10/26。
確かに、この日は、菊花賞当日である。しかし同時に、この町にとって、決して忘れることのできない、忘れてはいけない日でもあった。
10月26日。それは二年前の震災で多くのものを失った日である。
「なーに。別に問題ないさ。みんな、もう前を向いているさ。いつまでも悲しみに暮れているわけにもいかないからな」
そう言って、耕作は力強く笑い、肩を強く叩いて続けた。
「ノゾミはこの町全員で応援してるからな」
「・・・簡単じゃないけどな」
耕作の激励に苦笑を浮かべるケイゾー。
菊花賞。
日本の競馬において最も権威のあるレースの一つであり、3歳馬クラシック三冠の最終戦として位置づけられている、まさに3歳戦の締め括りとなるレースである。
舞台は京都競馬場の3000メートル。出走するのは、皐月賞、日本ダービーを制したエリートホースたちに加え、菊花賞に向けて力をつけてきた上がり馬たち。
京都競馬場の外回りコースを使用し、直線は474.2メートルと長めで、競走馬の持久力だけでなく、スピードと持久力のバランスが重要であり、正に総合力が問われるレースである。
そしてノゾミの父である、キズナの子どもで2500m以上のG1を勝った馬はいない。難しい挑戦になるのは歴史が証明している。
「なに勝たなくたって、誰も怒りはしないよ。無事に帰ってくれることが一番だ」
「・・・そうだな」
耕作の言葉に笑みを浮かべて、ケイゾーは頷いた。
その時、耕作は時計をチラリと見て、ハッとした表情を見せ立ち上がった。
「ヤバい!明後日の菊花賞のパブリックビューイングの準備しないといけない時間だ」
「そうなのか」
「それに追悼式もあるからな。忙しいんだ俺も」
耕作は分厚いフレンチコートを着て言った。
「俺も手伝うか?」
何もしていないケイゾーは耕作に申し出る。しかし耕作は首を横に振った。
「いや、大丈夫だ。お前は明後日の菊花賞に集中してくれ!!」
耕作はそう言い残し、バタバタと牧場を後にした。残されたケイゾーは小さくため息をつき、自身も事務所を出た。
彼の足は、放牧地や馬房へとは向かわなかった。まるで、心の奥底に封じ込めていた記憶に導かれるように、河合牧場の隅にある、人影も馬影もまばらな場所へと向かった。
そこには、静かに佇む石碑があった。
風雨に晒され、苔むした石碑。そこには、かつてこの牧場で生きた馬たちの名前が、まるで物語を紡ぐかのように刻まれている。
津波によって、彼らの骨は跡形もなく消え去った。それでも、わずかに残された蹄鉄や鬣が、彼らが確かに生きていた証として、静かに時を刻んでいる。
ケイゾーは、数珠を片手に、石碑の前で深く頭を垂れた。石碑に刻まれた馬たちの名前を、ゆっくりと指でなぞる。その指先は、まるで愛おしい存在に触れるかのように、優しく、そして震えていた。
一頭、また一頭・・・。
優しい瞳をした「ハナ」、力強い足並みの「テン」、お茶目な性格の「マロン」、そしてノゾミを産んだ「フジカゼ」こと「フジ」。
それぞれの馬との思い出が、走馬灯のようにケイゾーの脳裏を駆け巡る。あの頃、馬たちは皆、牧場を自由に駆け回り、無邪気に戯れていた。彼らの鳴き声、蹄の音、温かい体温。それら全てが、ケイゾーの心に鮮やかに蘇る。
しかし、あの日、突然全てが変わった。未曾有の災害が牧場を襲い、馬たちは一瞬にしてその命を奪われた。
今思い出しても、ケイゾーの心は無力感と怒り、そして深い悲しみに覆われる。あの日、彼らは必死に生きていた。迫りくる脅威から逃れようと、懸命に走り、嘶き、それでも、自然の猛威には抗えなかった。
ケイゾーは、石碑に触れ、冷たい感触に手を握りしめた。その冷たさが、まるで失われた命の冷たさのように、彼の心を締め付けた。
「・・・すまなかった」
絞り出すような声が、静寂の中に響いた。それは、亡き馬たちへの懺悔であり、彼らへの深い愛情の叫びでもあった。
「あれ?ケイゾーさん。ここにいたんですね」
声に振り返ると、そこにはアオキが立っていた。その手には、数珠と、供え物であろうニンジンが握られていた。
アオキもまた、石碑の前で静かに目を閉じ、亡き馬たちに祈りを捧げた。
「いやー、もう2年ですね」
アオキは、石碑にニンジンを供え、線香に火を灯した。ゆらゆらと立ち上る煙が、亡き馬たちの魂を慰めるかのようだった。
「そうだな。あっという間だった」
「こいつら、ノゾミがダービーを制覇して、菊花賞に挑むって知ったら、どう思うんですかね?」
アオキは、どこか寂しげな、しかし優しい笑みを浮かべながらそう言った。その表情を見て、ケイゾーもまた、静かに笑みをこぼした。
「そりゃー、さぞかし驚くんじゃないか」
「そうですよね!驚いて、喜んでくれますよね!!」
アオキは、目を閉じ、手を合わせ、亡き馬たちの冥福を祈った。
「ノゾミが菊花賞に出るんだ。応援してくれよ」
ケイゾーとアオキは、しばらくの間、石碑の前で静かに佇んでいた。それぞれの心の中に、亡き馬たちへの思いを馳せながら。
やがて、アオキが先に口を開いた。
「ケイゾーさん、行きましょうか」
ケイゾーは、頷き、石碑に別れを告げた。
「ああ、行こう」
二人は、肩を並べて石碑を後にした。彼らの背中には、亡き馬たちへの感謝と、未来への希望が満ち溢れていた。
彼らが歩き出すと、空には夕焼けが広がり、亡き馬たちの魂が、彼らを優しく見守っているようだった。彼らの足元には、亡き馬たちの蹄の音が、微かに響いているようだった。




