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8-3 リスタート

「コメコ、行くぞー」


 早朝にノゾミの追い切りを終えたイマナミは、もう1頭の管理馬であるビジョンコメコに追い切りに乗ろうとしていた。


「ブヒン!!」


 イマナミが手綱を引く。しかし、コメコはそれを頑なに拒む。夏からずっと、コメコはこのような様子だった。まるで走ることを恐れるように。

 原因は、おそらくシンザン記念での骨折だろう。骨折自体は完治し、痛みもないはずだ。しかし、コメコは走ることを極端に嫌がり、一歩も前に進もうとしない。

 その時お隣がチラリとコメコを見て、鳴いた。


「ブヒッ!!」

「ヒーン!!」


 トレーニングを終えたノゾミである。それに反応してコメコがさらに萎縮する。しかしやがて、ゆっくり立ち上がりトボトボとイマナミの方へ歩き出した。


「おい、ノゾミ。仲良くしろよ。てかお前そんなに他の馬気にするやつじゃなかっただろう?なんでそんなにコメコだけに厳しいんだよ」


 イマナミがそう言うとソッポをプイッと向いて、体を伸ばし始めた。聞く気なしの様子にため息をついて、コメコに言った。


「行くか。コメコ。今はそんなに他の馬いないから」

「ブヒ・・・」


 コメコの追い切りが始まった。


「よし行こう!!」


 イマナミが手綱を握りしめ、コメコを促す。しかし、その足取りは重く、まるで鉛を引いているかのようだ。かつて風を切り、ライバルたちを置き去りにした俊足は、今は見る影もない。


「コメコ、大丈夫だ!」


 イマナミは必死にコメコを励ます。だが、過去のトラウマがコメコの心を支配し、その足は一歩も前に進もうとしない。まるで時間が止まったかのように、ゆっくりと、ただゆっくりと、コメコは馬場を進む。鞍上の声も、手綱の力も、過去の痛みの記憶の前には無力だった。


「・・・今日はとりあえず終わりにするか」


 イマナミはそう言って、コメコの頭をポンポンと叩き、坂路を後にした。



「ハァー・・・」


 コメコを馬房に戻し、イマナミは再び深い溜息をついた。


「調教おつかれさん」

「あ、お疲れ様です」


 声をかけたのはいつも通りクニモト。その表情は苦々しい。


「今日もだめだったな」

「はい。すいません」

「なぁに、別にお前が悪いわけじゃねぇー」


 クニモトはそういって、汗だらけのイマナミに冷たいタオルを差し出した。イマナミはそれを受け取り汗のかいた顔を拭く。


「馬体は出走できる程度にはなってるんだがなー」

「そうですね。運動はきちんとしてますからね」


 コメコの精神は過去の恐怖から抜け出せずにいる。それに対して、肉体は、過去の傷跡を感じさせず、重賞出走馬と見比べても、何ら見劣りしないくらいに完成してきていた。肉体と精神のバランスがとれていない。それがコメコの現状だった。


「まぁ、勝てるとは言えねえーが、とりあえず好走・・・いやレースに参加させたいな」

「もう来週末ですもんね神戸新聞杯」


 そう言って2人はカレンダーを見る。神戸新聞杯のある日曜に丸がついている。この丸はコメコというより負けられないノゾミのレースのスケジュールの管理のために付けられたものである。コメコが戻ってきてもう3カ月。


「ちょっとレースになる気がしないんですけど・・・」

「しょうがない。オーナーがどうしてもこのレースがいいと言うんだ。それもだいぶ前から。だから何とか間に合わせたかったんだが・・・」


 クニモトはそう言い、深く溜息をついた。その顔には、焦りと疲労の色が濃く浮かんでいた。

 コメコは元々、国本厩舎の期待の星だった。新馬戦と1勝クラスを快勝。馬体も小さいながらも良く、気性も良い馬だった。実際シンザン記念では1番人気の期待を受けていた。当然オーナーも期待をかなり寄せていた。怪我明けの次走をダービー馬とダービー2着馬が激突する神戸新聞杯にすることを希望するくらいには。


「まぁ、しょうがない。ぎりぎりまで気にかけてやってくれ。勿論ノゾミもな」

「はい、わかりました」


 イマナミがそう返事すると、クニモトは体はどこかだるそうで、目も少しだけ重かった。軽く目を擦りながら、クニモトは小さなため息を漏らす。


「まったくウチの3歳の男どもは問題児ばかりだな・・・」

「いや、まったくです。しかもノゾミとコメコ相性悪いんですかね。厩舎内でいつもコメコがノゾミに怯えているんですよ」

「まだ仲良くならんのか。ノゾミもコメコも似たような境遇なのにな」


 クニモトは驚いた顔をして言った。

 ノゾミはデビュー前に躓いて、コメコはデビュー後に躓いた。共に躓いた同志、そして3歳馬同士、共通点が多いからということで、馬房を隣にしたのだ。


「どうします。馬房離します?」


 イマナミがそう言うとクニモトはすこし考え、指示を出した。


「いや、しばらくはそのままにしよう。別に寝れないとか、ケンカとかはしてないんだよな?」

「はい。それどころかいつもの夜鳴きもなくなり、今日の調教も相当渋ったんですけど、ノゾミに吠えられら、渋々動き始めました」

「なんだ。それならいいじゃねぇーか」


 楽観的な見解に、イマナミは苦笑いを浮かべる。


「そうですかねー?」

「とりあえず、神戸新聞杯までは様子見よう」

「わかりました」


 イマナミはクニモトの指示をメモ帳にメモした。


「いやーこれもしかしたらノゾミとコメコが一緒に走ったら、コメコが変わるかもしれねぇーな」

「変わりますかー?」


 クニモトの楽観的な笑顔に苦笑する。


「いやだって、ノゾミは人の言うこと聞かずにめちゃくちゃ走りたがるし、逆にコメコは人の言うこと聞かずに走りたがらないっていう、真逆の性格だろ?だったらコメコがノゾミの走りを見たら走りたくなるかもだろ?」

「えーそんな。楽観的な・・・そもそもノゾミに今のコメコ追走できないでしょ」


 楽観的なクニモトに対して悲観的なイマナミ。まるで対照的な2人である。

 クニモトは肩肘に力が入っているイマナミの肩をポンポンと叩く。


「イマナミ、悲観的なことばっかり言うな。こういう時は楽観的に考えるんだよ」

「そういうですか・・・そうですね。わかりました」


 クニモトの言葉にイマナミは頷いた。

 個性豊かな2頭の3歳馬。この2頭が、いったいどんな化学反応を産むだろうか。今は誰も分からない。

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