8-2 リスタート
八月の終わり、まだ夏の熱気が肌を焦がす頃、ノゾミの新たな戦いが幕を開けようとしていた。
「ノゾミ今日、美浦に戻るからなー。」
「ヒンッ」
アオキが寝藁を丁寧に整えながら、穏やかな声でノゾミに告げた。ノゾミは、まるで心地よい夢を見ているかのように、静かに寝そべったまま、小さく鼻を鳴らした。
「おい、ノゾミどいてくれよ」
ノゾミは「しゃーねぇーな」と立ち上がった。彼の立ち姿は、とても放牧された馬とは思えないほど出来上がっていた。しなやかな柔らかい筋肉は、力強く隆起し、黒曜石のような毛並みは、さらに磨きにかかっていた。
「今日はご飯はニンジンとリンゴだぞー」
「ブヒヒヒヒ!!!」
壮行会として特別用意されたご飯に喜びの声をあげるノゾミ。それは、まるで子供がご褒美をもらった時のような、純粋な喜びの叫びだった。
アオキからイマナミへのバトンタッチが近づいてきた。
「ノゾミどうだー?」
ケイゾーは餌をやり終わったアオキに声をかける。
「いい感じですよ。ノゾミは自分で馬体を作りますから」
丁寧に餌を与え終えたアオキは、満足そうに答えた。
「そいつはよかった。しかし、ノゾミがいなくなると、この牧場も静かになるな」
ケイゾーは遠くを見つめ、小さく息を吐いた。その顔には、安堵と、そしてほんの少しの寂しさが浮かんでいた。
「本当に、嵐のような日々でしたね」
アオキが苦笑交じりに言う。
「ああ、思い出したくもない騒ぎだった」
あの日の騒動後、すぐに人数制限を設けた。しかし、それは焼け石に水だった。文字通り、牧場は人で溢れかえり、制限を無視する者、何も知らずに訪れる観光客で、連日トラブルが続いたのだ。
「耕作に相談して、商店街の方々にも協力してもらって、ようやく落ち着いたけど・・・」
ケイゾーはそう言って、疲れたように目を細めた。
「本当に、感謝しかないですね」
アオキもまた、深く頷いた。しみじみと思い出に浸っている中、ケイゾーは時計をちらりと見る。馬運車の到着予定時間まであと30分ほど。ケイゾーは切り替えて、アオキに言った。
「何にせよ、ノゾミを無事に美浦へ送り届けるまでが俺たちの仕事だ。最後まで気を抜くなよ」
ケイゾーは、アオキの目をじっと見つめ、念を押した。
「はい、肝に銘じます」
アオキは、背筋を伸ばして答えた。
そして10分後、馬運車のエンジン音が、静かな牧場に響き渡る。
「お、もう来たのか。ちょっと早いな」
ケイゾーが呟くと、アオキは夕焼け空の下、大急ぎで駆け出した。
「準備してきます!!」
その背中には、ノゾミとのしばしの別れを惜しむ感情が滲み出ていた。
「おーいノゾミ行くぞー」
「ヒンッ」
アオキが声をかけると、ノゾミはゆっくりと立ち上がった。そしてでてくるかと思いきや、くるりと方向を変えた。
「何やってんだ?」
「ブヒー」
ノゾミは馬房の壁に掛けてあった額縁を咥えた。
それは、かつて一人の少女から贈られた、ノゾミの肖像画だった。
ノゾミはその絵を、まるで宝物のように大切にしていた。最初は事務所に飾られていたその絵は、いつの間にかノゾミの馬房の入り口に移され、そして最後には、ノゾミの個室の一番奥に飾られるようになった。それは、ノゾミと少女との間に確かに存在した、目に見えない絆の証のようだった。
「お前、その絵持っていくのか?」
「ヒンッ!!」
アオキが優しく問いかけると、ノゾミは誇らしげに頷いた。「しょうがないな」とアオキは微笑み、ノゾミが咥えた額縁を丁寧に受け取り、ノゾミの手綱を握った。
馬房から出ると、ケイゾーが運転手と話しているのが見えた。
「ノゾミを連れてきました。」
アオキが声をかけると、ケイゾーは運転手との話を切り上げ、こちらを向いた。
「アオキ、ありがとう。おいその絵は・・・」
「ノゾミがどうも持って行きたいみたいで・・・」
アオキがそう言うと、ケイゾーは少し考え込み、携帯電話を取り出した。
「・・・センセーに相談するわ」
ケイゾーは電話をかけ、数分後、安堵の表情で頷いた。
「大丈夫だってよ。絵は、運転手に渡してくれ。」
額縁に飾られた絵は、運転手に丁寧に手渡された。それは、ノゾミの新たな旅路を見守る、小さな守り神のようだった。
諸々の手続きを終え、ノゾミは再び、戦いの地へと足を踏み入れた。パートナーは、アオキからイマナミへとバトンタッチする。それは、ノゾミの物語の新たな章の始まりを告げる、静かなる移行だった。
「あっちでも頑張れよーノゾミ」
アオキは、ノゾミの首筋をガシガシ撫でた。その手には、ノゾミへの愛情と、これからの活躍を願う気持ちが込められていた。
「ヒンッ!」
ノゾミは小さく鼻を鳴らし、アオキの手に顔を寄せた。その瞳には、これから始まる新たな挑戦への決意が宿っていた。
そしてノゾミは馬運車に乗り込み、扉がゆっくりと閉められた。エンジン音が響き、馬運車は美浦の国本厩舎へと走り出した。アオキは、馬運車が小さくなるまで、静かに見送った。その瞳には、別れを惜しむ寂しさと、新たな戦いへの期待が入り混じっていた。
ーーーーーーーーーーーーー
シャッター音の嵐が鳴り響く中、一頭の競走馬が悠然と姿を現した。
ダービー馬、フッカツノネガイ。その名は、美浦トレーニングセンターに轟き、秋のG1戦線を熱くする。三歳クラシック最終戦、菊花賞へ向け、王者がついに始動した。まずはその試金石、神戸新聞杯での勝利を目指し、調整が始まる。
「久しぶりだな、ノゾミ。元気にしてたかー?」
イマナミはノゾミの鬣を撫でながら迎える。イマナミの歓迎にノゾミも満更でもなさそうな表情を見せた。
「話には聞いてたが、もう馬体9割方出来てやがるな」
遠くからノゾミの堂々たる姿を見守っていたクニモトは、その完璧な馬体に感嘆の息を漏らした。柔らかくしなやかな筋肉は、力強く隆起しており、表情もキリッとしている。
ケイゾーから聞くに、ノゾミの馬体は外厩によるものではなく、自身の運動によるものであるというのだから、規格外の頭の良さだと改めて思った。
そしてクニモトの思考は、どのようにノゾミの状態をあげるかではなく、どうすればこのままの出来で、仕上げ"すぎない"で神戸新聞杯に出ることができるかに切り替わっていた。
輸送による疲労を考慮し、イマナミはノゾミを一旦馬房へと引く。
すると、ノゾミの馬房の隣には見慣れぬ馬がいた。ノゾミはその馬を興味深そうに見つめた。
「おー。ノゾミ。そいつも神戸新聞杯出るんだぞ。名前はビジョンコメコ」
その馬はとても可愛らしい馬だった。栗毛がとても美しい。そして肉体を見れば柔らかいバネを持ち、軽やかに走りそうな軽量な馬体。なるほどこれならG2に出しても恥ずかしくないと思える。
しかし、その瞳の奥には、どこか怯えの影が潜んでいるようだった。まるで過去から逃れようとするかのように、彼の眼差しは時折、不安げに周囲をうかがう。
そしてそれを見たノゾミはその馬に近づき、
「ブヒッ!!」
突然、力強く鳴いた。その瞬間、コメコは驚愕の表情でノゾミを見つめ、そしてすぐに、何かを諦めたかのように肩を落とした。
「おいおい、ノゾミ。コメコは怪我から復帰したばかりなんだ。あんまりケンカふっかけるなよ」
イマナミがそう窘めると、ノゾミはそっぽを向き、自分の馬房に入ると、すぐに静かな寝息を立て始めた。
イマナミは一つため息をつき、馬房を後にした。すると、そこにクニモトの姿があった。
「どうだー?ノゾミは?特に問題無しか?」
「大丈夫だと思います。センセーは取材終わったんですか?」
イマナミは、寝藁をほぐすのに使った鋤を水で洗いながら言った。クニモトは、取材で乾いた喉を潤しながら頷いた。
「あぁ。ノゾミについて聞かれまくったわ」
「やっぱりG1馬は違いますね」
クニモトはイマナミの言葉に苦い顔をするしかない。
「G1馬だからダービー馬だからというより、ノゾミだからかなー。普段見慣れんテレビも記者も入ってきててやりづらいことこの上ない」
「やっぱりあのドキュメンタリーの影響ですか。ネット全盛期っていってもまだまだ地上波放送は強いっすねー」
その言葉にクニモトは頷く。
「さて、イマナミ。そんな注目度マックスになってる国本厩舎、勝負の秋だぞ。気合い入れろ」
「分かってますよ。ダービー馬に下手なレースさせられないですからね」
三歳王者としての、そしてノゾミ自身の、勝負の秋が、静かに、しかし確実に幕を開けた。
ーーーーーーーーーーーーー
とあるネット記事にて
熱戦必至!神戸新聞杯でダービーの再戦へ!!
神戸新聞杯が来る秋のクラシック戦線に幕を開ける。その舞台で、今年の日本ダービー覇者フッカツノネガイとその強力な挑戦者である2着馬ホワイトフォースが再び激突する。
フッカツノネガイは、圧倒的な走りとその背景にあるドラマでファンの心を鷲づかみにした。だが、ここに来て新たな試練が待ち受ける。一方のホワイトフォースは、ダービーでは惜しくも一歩及ばなかったものの、ホープフルステークス1着。皐月賞1着。これまでの実績に疑うところはない。
神戸新聞杯は、菊花賞への有力なトライアル。果たして、ダービー馬はその称号を守り抜くのか、それとも2着馬が逆転の狼煙を上げるのか? 目の離せない一戦が、競馬界を大いに沸かせること間違いなしだ。




