1-2 希望の灯火
「こりゃー驚いた・・・」
ケイゾーは家にあったありったけのリンゴを両手に抱え、感慨深げに呟いた。ケイゾーは未だに目の前の光景が現実とは思えなかった。
「フヒーフヒー」とうれしそう食べているノゾミ。その食べる姿は正に1年前のノゾミそのものであった。その愛らしい姿を見ているとケイゾーの胸に熱いものがこみ上げてきた。ケイゾーが忘れかけた温かい感情が蘇る。
「そうですよね!!こいつノゾミですよね!!」
アオキは興奮した様子でノゾミを指差していた。確信が欲しかったのだろう。ケイゾーの肯定を求めるように、目を輝かせている。ケイゾーはこみ上げる涙を手の甲で拭い、ゆっくりうなずいた。
「あぁ。間違いない。確かにノゾミだ」
ケイゾーの肯定の言葉にアオキは小さくガッツポーズする。そして喜びを噛み締めた。
「フヒッ!!」
ノゾミは「当たり前だ!!」言わんばかりに鼻を慣らし、リンゴを貪り続ける。当然だが馬にリンゴばかり食べさせては健康に良くない。
しかしそれを分かってもなお、「この奇跡的な再会を祝して、好きなだけ食べさせてやりたい」そう思った。
「ヒーン・・・」
ノゾミは、リンゴを食べ終えた。そして幸せそうな表情で横になった。長い旅路の疲れを癒やすように、目を閉じている。
「おいノゾミ!!」
アオキは横になる姿を見てノゾミの体をさすろうとするが、それをケイゾーは止める。
「寝てるだけだ」
ノゾミは極限の緊張感からの解放からか静かに寝息を立てていた。寝ているだけと気付いたアオキは安堵の息を漏らした。
「おい、俺は家に、馬用の道具さがしてくる。お前はノゾミの寝所作ってやってくれ。」
「わかりました」
ケイゾーとアオキは、喜びと興奮、そして少しの戸惑いを抱えながら、慌ただしく動き出した。奇跡の生還を果たした友を迎えるために。河合牧場に、久しぶりの活気が戻ってきた。
そして夕方、獣医師の診断を受けた二人は、安堵の表情を浮かべていた。
「精密検査しないとわかりませんが、とりあえずは大丈夫ではあると思います」
獣医師の診断に力が抜ける2人。
「とりあえずよかったですね」
「そうだな。奇跡だ。」
2人は笑みを浮かべる。
1週間後にもう1回訪問診療すると言って獣医師は河合牧場を後にした。
獣医師が去ったことを確認して2人は緊張の糸が切れたのか座り込んだ。
そうしてしばらくの沈黙が続いた。
「よかった」
ケイゾーは震える声でつぶやいた。
その瞬間、二人の間には言葉はいらなかった。ただ、静かな新秋の風が、安堵の重さを優しく運んでいった。
「それで、どうするんですか。ノゾミ」
アオキの表情は真面目になって聞いた。
「どうするって・・・」
「河合牧場、畳むつもりだったんですよね」
アオキの言葉にケイゾーは目を丸くさせる。河合牧場を畳むということはアオキには伝えていないはずである。
「お前、知ってたのか」
「知ってるというより察してはいましたよ」
アオキはこれまで定期的に河合牧場の片付けに協力していた。その際ケイゾーが河合牧場の再建の道を必死に探っていたことを横目に見ていた。そしてそれが難しいことも、経営素人ながら何となく感じていた。
「あぁ、畳むつもりだった。それで今日はアオキを呼んだんだ」
「やっぱり、そうだったんですね」
「酒もいっぱい用意したんだぞ」とケイゾーはにやりと笑い、それにアオキも力なく笑った。
「話はノゾミに戻るが、まぁ、競争馬になるのは無理だわなー」
ケイゾーはそう言って改めてノゾミを見る。1年前のノゾミとは全然違う。馬は0歳から1歳が一番成長する。それは間違いない。特にノゾミは成長が早く、骨格は出来上がっていた。
しかし肉体はそうではない。筋肉は萎んでしまっており、取り戻すには時間がかかる。
そして精神面でも大きな課題だ。競走馬は生まれたときから調教を受け、競馬に出走できるように訓練する。ノゾミにはその基礎がない。
さらに、時期も悪い。もう10月である。仕上がりが早い馬はすでにデビューしており、2歳の重賞すら始まってしまっている。そしてデビューしていない2歳馬も競走馬デビューすべく、ハードな調教を積んでいる。
「そうなると乗馬ですか・・・」
アオキは複雑そうな表情を見せる。
「といっても、いかんせんこんな体だ。ある程度まともな体にせんとな。他の牧場に預かってもらうか・・・いやそもそも預かってもらえる牧場があるか」
ケイゾーは思考の海に沈む。奇跡的に生き残った馬だ。幸せに生きてもらいたい。そのためにはどんな手が最適か、考えてもなかなか答えは見つからない。
「あのケイゾーさんのところで、面倒をみるというのは無理ですよね?」
アオキは言いにくそうに言った。意外な言葉にケイゾーは目をパチクチさせる。そして、あごに手を当て思案した後口を開いた。
「できないことはないが・・・それだと放牧地、馬房を再建するのに保険金を使うことになる。ただ保険金は退職金代わりにお前に渡すつもりだったんだよ」
「え、そうだったんですか?」
「あぁ。今、河合牧場に退職金を出す余裕はないからな。保険金を退職金代わりにするしかなくてな。ざっとこれくらい渡すつもりだったんだ」
ケイゾーは試算した退職金の金額をアオキに渡す。
アオキは決して小さくない金額に戸惑い、そして悩んだ。
しかし決断に時間はかからなかった。
「退職金はいりません。ノゾミに使ってください」
その顔は迷いを振り切ったかのようにとても清々しかった。
「要らねぇって。そんなわけにはいかねぇーだろ」
「いや、いいんです。別に俺まだまだ若いし。失業保険をもらいながら、再就職しますよ」
アオキはそう言ってノゾミを撫でながら笑った。
「本当にいいのか・・・後悔するかもしれないぞ」
「大丈夫です!」
アオキの声には迷いがなく、まるで一本の矢が的を射るように言葉が放たれた。眉間には深い皺が刻まれ、瞳には燃えるような意志が宿っていた。時間が止まったかのような緊張感が漂い、その場の空気を切り裂くほどの真剣さが、彼の全身から溢れ出していた。
その表情を見てケイゾーは頭をガシガシ掻きむしり、大きなため息をついた。こうなるとアオキは頑固だ。ケイゾーはそれを分かっている。
「・・・はぁーわかった。保険金は全てノゾミのために使おう」
「っ!!ありがとうございます」
アオキは頭を下げた。後悔はないとは言えない。今後の生活を考えれば、もらうことが賢い選択であるということはわかっている。
しかしそれでも、ノゾミのために何かしたいという心に従わないということはできなかった。
「あーまったく。ミクにどんな小言言われるかなー」
「えっ」
自分が退職金を受け取らないだけで、ケイゾーにどんなデメリットがあるのかわからず、アオキは首をひねった。その様子にケイゾーはニヤリと笑った。
「アオキがもらわないのに、オレたちがノゾミのために金ださねぇーにはいかないだろ?」
ケイゾーはノゾミのために決して多くない老後のための貯蓄を使おうとしていることに気づいたアオキは慌てて止めた。
「いや、ケイゾーさん!老後の蓄えとして」
「なんだ?俺はもう働けねーとかいうのか?」
「いやいやそういうわけじゃないっすけど・・・」
ケイゾーは立ち上がって、ノゾミの頭をグリグリと撫でる。その表情はアオキがこれまで見たことがないくらい優しげだ。
「こいつは俺が最後まで世話してやるよ。覚悟が決まった。それがこいつにとっては一番の幸せだ。そして俺の幸せだ」
「あ、俺も手伝います!!」
ケイゾーはアオキの申し出に少し驚いた顔をするが、直ぐに満面の笑顔で頷いた。
「自分の生活を優先しろよ」
「わかっています」
男二人はニヤリと笑い、固く拳を突き合わせた。夕焼け空の下、力強い友情が、静かに、しかし確かに結ばれた瞬間だった。
その夜、このことを伝えたケイゾーは妻ミクにコッテリ絞られる。だがそれはまた別の話である。