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8-1 リスタート

有馬記念決着まで書き終えたので、2章スタートです。

 あの日の轟音は、今もなお、ノゾミの耳に深く焼き付いていた。大地を揺るがす激しい震え、全てを押し流す津波の咆哮。それは、ノゾミの故郷を一瞬にして地獄へと変えた、決して忘れられない悪夢。

 美浦では見なくなった悪夢も、故郷にもどると、ノゾミは必ず悪夢にうなされた。轟音と地鳴りに怯え、ノゾミは何度も目を覚ました。そして、眠れぬまま、朝を迎える。

 昼間、ノゾミは懸命に走り続けた。それは、恐怖を振り払うための、必死の逃避だった。しかし、どれだけ走っても、あの日の記憶はノゾミの脳裏から離れることはなかった。

 ノゾミの心は、あの日の悪夢から前に進むことができずにいた。


 ーーーーーーーーーーーーー


 春の激闘を終え、ノゾミは故郷の河合牧場で静養していた。青葉賞、京都新聞杯、そして日本ダービー。その苛烈なローテーションを乗り越えた彼は、秋に向けて心身の回復と更なる成長を目指していた。しかし、その願いとは裏腹に、牧場は想像を絶する喧騒に包まれていた。


「ノゾミだ!本物だ!」

「テレビで見た通りだ・・・!」

「触らせて!」


 河合牧場のゲート前は、朝早くから報道陣と一般の見学者で溢れかえっていた。熱心な競馬ファンは、ノゾミの雄姿を一目見ようと、早朝からカメラを構えていた。テレビや雑誌の取材クルーは、ノゾミの独占インタビューを狙い、スタッフに食い下がっていた。しかし、その数を遥かに上回るのは、競馬には詳しくない、いわゆる「ライトファン」たちだった。


「ちょっと、そこの人!フラッシュ撮影は禁止です!」

「勝手に馬に餌を与えないでください!餌やりは予約された方のみです!」

「柵を乗り越えないでください!危ない!!」


 牧場スタッフである神無月加奈子の声が、喧騒の中に悲鳴のように響く。

 ダービー馬を一目見ようと集まった人々は、興奮のあまりルールやマナーを守る余裕を失っていた。子供たちは柵にへばりつき、大人は我先にとスマートフォンを構える。中には、柵を乗り越えようとする者、ノゾミに触ろうとする者まで現れ、現場はまさにカオスと化していた。加奈子は額に汗を浮かべ、喉が枯れるのも構わず叫び続けた。


「ケイゾーさん、これ…一体どうなってるんですか?」


 アオキがケイゾーに問いかけた。彼の顔にも疲労の色が濃く、ぐったりとした姿勢だった。


「俺に聞くな。まさかここまで人が来るとは・・・」


 ケイゾーは頭を抱え、後悔の念を露わにした。彼の視線の先では、見学者が押しあい、まるで嵐のようだった。


「やっぱり、あのドキュメンタリーの影響でしょうか?」


 アオキはそう呟き、ドキュメンタリー番組の映像を思い浮かべた。感動的な内容が評判を呼び、SNSでは「涙が止まらない」「勇気をもらった」という声が溢れかえった。


「ああ、放送後から問い合わせが殺到して、ミクが完全にパンク状態だ。電話もメールも止まらない」


 ケイゾーはそう言い、ミクが対応に追われている事務所の方へ視線を向けた。彼女の悲鳴にも似た声が、時折聞こえてきた。

 元々、河合牧場は観光牧場ではなく、静かな競走馬の育成牧場だった。観光客を受け入れるノウハウも、十分な人員もいない。スタッフは、押し寄せる見学者に対応するだけで精一杯で、本来の業務である馬の世話がおろそかになりかけていた。馬たちは落ち着きを失い、いななきが絶え間なく鳴いていた。

 サラブレッドは本来、臆病な生き物だ。大きな音や光に敏感で、ストレスを感じやすい。しかし、ノゾミは違った。彼は周囲の喧騒を意に介さず、時間になると黙々とトレーニングをこなし、時にはファンサービスに応える余裕すら見せていた。


「とりあえず、アオキ。ノゾミ以外の馬の餌やりはお前が担当してくれ。俺は少し出かけてくる」


 ケイゾーはそう言い、軽トラックのキーを手に取った。


「了解です。あの、ケイゾーさん」


 アオキはケイゾーの背中に声をかけた。


「なんだ?」


 ケイゾーは足を止め、アオキの方へ振り返った。


「やはり、見学者の人数制限をした方が良いのでは?このままでは、業務に支障が出ます」


 アオキは真剣な眼差しで訴えた。


「そうだな。対策を考えるわ」


 ケイゾーはそう言い残し、軽トラックに乗り込んだ。エンジン音が響き、軽トラックはゆっくりと走り出した。牧場に残されたアオキとカナコは、押し寄せる見学者たちに対応するため、再び声を張り上げた。


 ーーーーーーーーーーーーー


 ケイゾーが向かっているのは、震災で壊滅的な被害を受けた商店街の、ただ一軒残った八百屋だ。かつては活気に溢れていたその場所は、今や半分以上の店がシャッターを下ろし、閑散としている。ケイゾー自身も牧場を営む個人事業主であり、災害からの復興がいかに困難であるかを痛いほど知っていた。


 だから仕方ない。


 そう頭ではそう理解していても、やはり胸にぽっかりと穴が空いたように寂しい。そんな中で、再び店を開いた八百屋の灯りは、ケイゾーにとって希望の光だった。だからこそ、ケイゾーは彼らにできる限りの応援をしたいと思っていた。


「うん?」


 ケイゾーは商店街の光景に違和感を覚えた。

 今、ケイゾーの目に映るのは、わずかながらも人々の足音だった。観光客らしきグループが、地震でひび割れた壁や奇跡的に残った古い看板を見つめ、写真を撮っていた。子供たちは、災害の爪痕を好奇心に満ちた目で追い、母親がその後を慌ただしく追いかけていた。

 暖簾から漂う食事の香りが、通りを少しだけ賑わわせて、かつては静寂に包まれていたこの場所に、今は微かなざわめきが戻っていた。古い喫茶店の前には、数人の客がテラス席でコーヒーを楽しんでいた。


「こんなに人が戻ってくるなんて・・・」


 まだ完全ではない。だが確かに、この商店街が再び人々の生活に溶け込もうとしている、その小さな一歩にケイゾーは感動を覚えた。


「よ!ケイゾー!!」


 聞き慣れた明るい声が、ケイゾーの耳に飛び込んできた。声の主は、八百屋の店主であり、ケイゾーの旧友であり、そしてこの商店街の会長でもある耕作だった。そして、震災後、抜け殻のようになっていた商店街を、再び活気づけようと奔走している男でもある。


「今日もニンジンとリンゴ、頼むわ」


 ケイゾーがそう言うと、耕作は笑顔で答えた。


「はいよ。ノゾミの餌な」

「餌じゃねぇーよ、オヤツなオヤツ」


 ケイゾーはそう言いながら、耕作に代金を支払った。耕作は、お釣りを手渡しながら、嬉しそうに目を細めた。

 二人は、箱入りのリンゴとニンジンを手に取り、軽トラックへと運んだ。箱を荷台に積み込みながら、ケイゾーが感慨深げに呟いた。


「それにしても、すごい人出じゃないか」

「ああ、おかげさんでリンゴもニンジンも飛ぶように売れてるよ」


 耕作はそう言いながら、店の奥へと視線を送った。そこには、観光客らしき人々が、楽しそうに野菜を選んでいる姿があった。


「そうなのか」

「ああ、まあ、皆ノゾミ目当てなんだろうけどな」


 それにケイゾーも「だろうな」と頷く。


「それでな、煎餅屋ばぁさんとか、色んなところから『ノゾミ印』の商品を作りたいって話が来てるんだ」


 耕作がそう言うと、ケイゾーは少し考え、そして言った。


「ああ、それくらいなら全然構わないよ。後でミクに連絡しておく」

「助かるよ。皆、このチャンスを逃すまいと、目の色を変えてるからな」


 耕作はそう言って、嬉しそうに笑った。


「商売人ってのは、そういうもんだろ?」


 ケイゾーがそう言うと、耕作は少し寂しそうな表情を浮かべた。


「いやいや、震災後はそんな余裕もなかったんだ。皆、抜け殻みたいになっててな。やっぱり、商店街は人がいてこそだよ」

「ああ、本当にそうだな」


 ケイゾーは、耕作の言葉に深く共感した。震災後、この商店街は、まるで時間が止まってしまったかのように静まり返っていた。しかし、今、こうして再び賑わいを取り戻しつつある。その光景は、ケイゾーの胸に熱いものを呼び起こした。

 しかし、この賑わいによって河合牧場は大混乱していることを考えると、複雑な感情が生まれてくる。このままでは、馬たちの世話さえままならない。


「河合牧場は、大変なことになってるんだろう?」


 耕作がそう問いかけると、ケイゾーは正直に答えた。


「ああ、本当に大変だ。従業員にも、馬たちにも、大きな負担をかけてしまっている」

「なら、人数制限をするのが一番だろう」

「だがな・・・」


 ケイゾーは、言葉を濁した。その煮え切らない態度に耕作は眉をひそめた。


「まさか、俺たちに遠慮してるんじゃないだろうな?」


 耕作の鋭い指摘に、ケイゾーは言葉を失った。


「・・・っ」


 図星だった。この町の賑わいの立役者は、間違いなくノゾミだ。しかし、ノゾミに会えないと知れば、どれだけの人がこの町を訪れるだろうか。せっかく生まれた復興の兆しを、ここで止めてしまっていいのだろうか。


「お前は、俺たちを舐めすぎだ。誰かに頼るのではなく、自分たちの力で町を盛り上げる。俺たちは、そう誓い合ったんだ」


 耕作の言葉は、ケイゾーの胸に深く突き刺さった。


「そうだったのか」

「ノゾミの走りを見て、俺たちは勇気をもらったんだよ」


 ケイゾーは、何も言うことができなかった。

 耕作は、ケイゾーの軽トラックに、慣れた手つきでニンジンの段ボールを積み込んだ。ケイゾーも、リンゴの箱を荷台に載せる。


「町に人が来てくれるのは、本当に嬉しい」


 耕作はそう言いながら、ケイゾーの肩を叩いた。


「だが、俺たちはノゾミのファンでもあるんだ。ノゾミのためにも、何かしたいと思っている。もちろん、お前の力にもなりたい」


 耕作はそう言って、ケイゾーに背を向け、手を振りながら言った。


「俺たちのことは気にしないでくれ。お前が最善だと思うことをすればいい。

 俺たちは自分たちで出来ることをコツコツやっていくさ。ノゾミが教えてくれたことだ。自分たちが動かないとどうにもならないってことをな」


 耕作の言葉は、ケイゾーの胸に温かいものを灯した。

 ノゾミが町にもたらしたのは、ただの賑わいではなかった。それは、人々の心の奥底に眠っていた情熱を呼び覚まし、再び夢見る力を与えたのだ。訪れる人々との交流は、街の人々にとって、閉ざされた日常からの解放であり、再び前を向いて歩き出す勇気を与えたのである。

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