7-2 未来に続くエピローグ
一章完結です。
美浦トレーニングセンター、国本厩舎。早朝の澄み切った空気が、厩舎の静けさを一層際立たせている。
厩舎の奥からは、馬たちの鳴き声と、厩務員たちの忙しなく動く音が聞こえてくる。今日は、ダービー馬ノゾミの放牧日。厩舎全体が、どこか寂しげでありながらも、晴れやかな雰囲気に包まれていた。
「ノゾミ、行くぞー」
厩務員のイマナミは、ノゾミの首筋を優しく撫でながら、そう語りかけた。ノゾミは、イマナミの言葉に応えるように、嬉しそうに鳴いた。その瞳は、故郷への期待に輝いていた。
「お、ノゾミ放牧か」
「ヒンッ」
「元気にやれよー」
「ヒンッ」
馬運車までの短い道中で他厩舎の職員に次々と話しかけられるノゾミ。いつの間にこんなに可愛がられるようになったのか、イマナミは驚いた。ノゾミは自厩舎だけでなく、美浦トレセンの人気者となっていた。
そしてやがてノゾミが乗る馬運車が見えてくる。
馬運車の前には、すでに多くの報道陣が集まっていた。カメラの放列、マイクを構えるリポーターたち。ダービー馬の里帰りは、競馬界の一大ニュースだ。フラッシュの光を浴びながらも、ノゾミは落ち着き払っていた。
その堂々とした姿は、まさにスターホースの風格そのものだった。
「イマナミ、ご苦労さん。ノゾミもずいぶんと嬉しそうだな」
クニモトが、労いの言葉と共にイマナミに近づいてきた。
「ノゾミ、牧場に帰るのを心待ちにしていたみたいですわ」
イマナミは、苦笑いを浮かべながら答えた。その答えにクニモトも苦笑いを浮かべるしか無かった。
そしてノゾミの体調の最終確認を終えると、馬運車へ。
ノゾミは、イマナミに導かれるまま、ゆっくりと馬運車に乗り込んだ。最後に、イマナミはノゾミの鬣を優しく撫で、その温もりを確かめた。
「じゃあな。故郷でゆっくり休めよー」
「ヒンッ!!」
ノゾミは、イマナミの言葉に応えるように、力強く鳴いた。馬運車の扉が閉まり、エンジンが唸りを上げる。ノゾミを乗せた馬運車は、ゆっくりと河合牧場へと走り出した。
イマナミは、馬運車が見えなくなるまで、その背中を見送った。
「ふう・・・」
「何ボーっとしてんだ」
少し力の抜けたイマナミにクニモトは声を掛ける。イマナミはその声にビクリと姿勢を正す。
「今日の仕事はこれだけじゃねぇー。お前はノゾミの馬房片付けて、次の馬が来る準備をしろ」
「次誰来るんですか?」
「ケガしてたコメコだ。骨折治ったから、戻って来る。坂口が定年で辞めたからお前が面倒を見ろ」
ビジョンコメコ。
その馬はノゾミと同じく3歳馬で、国本厩舎の今年のクラシック候補と言われていた馬だった。しかしシンザン記念で惨敗の後、骨折が判明。怪我に泣いた悲運の馬。イマナミは、その名に胸が熱くなるのを感じた。
「俺怪我した馬の調整とかしたことあんまりないんですけど」
「あぁ。お前、運が良いのか、担当した馬でそれも大きな怪我した馬はいなかっただろう。これも勉強だ。安心しろ。おれもサポートしてやる」
「・・・そうですね」
イマナミは背伸びをして、頬を叩き気合を入れなおした。
「よし!!仕事に戻ります!!」
仕事に戻るべく厩舎へ走った。
ノゾミが去っても、国本厩舎は動き続ける。新たな出会い、新たな挑戦。その繰り返しこそが、競馬の世界なのだ。
夕暮れ時、ノゾミの馬房は綺麗に片付けられ、新しい藁が敷かれていた。イマナミは、コメコの到着を待ちながら、静かに馬房を見つめていた。その瞳には、未来への希望と、新たな挑戦への決意が宿っていた。
そして、遠くに見える河合牧場の方向に、ノゾミの無事を祈った。
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河合牧場では、いつもなら賑やかな二人が、今日はまるで子供のように落ち着きをなくしていた。
「あんたらね。働かないなら、もう駐車場で待ってなさいよ」
河合牧場の牧場主のケイゾーの妻、河合美玖は青筋を立てながら2人に言い放った。
「いや!ミクさん!俺は仕事してますよ!ケイゾーさんと違って!こうやってコピーもしてるし!!」
アオキは、必死に自分の仕事ぶりをアピールしようと、手に持ったコピー用紙を掲げた。
「馬鹿野郎!アオキ!俺も仕事してただろう!こうやって書類も整理してるし!!」
ケイゾーも負けじと、机の上に積み上げられたファイリングした書類の束を指し示した。
しかし、ミクの目は誤魔化されない。彼女は、二人の言い訳を冷静に論破していく。
「アオキくん。そのコピー何回してるの?同じやつばっかりしてるじゃない」
「え、あ・・・」
アオキは、コピーしたものが、ミスしていたことに気づき、肩を落とす。
「それに、ケイゾー。書類整理って、日にち順に揃えればいいわけじゃないの。ちゃんと金銭関係、契約関係とかちゃんと分類してたのよ。」
「あ、そうか・・・」
ケイゾーもハッとした顔を見せ、やがて観念したように、項垂れた。
ミクは、時計をちらりと見て、ため息をついた。
「もうすぐノゾミが帰ってくる時間だし、今日は特別よ。二人とも、好きなように過ごしなさい」
そう言われて出てい2人を見て、ミクは深いため息をつくのだった。
「アオキ、柵は問題ないか?」
「はい、問題ありません。何度も確認しました」
落ち着かない二人は、期待と興奮を胸に、牧場を見回ることにした。
最初に訪れたのは、緑の絨毯を広げたような放牧地。震災で一時縮小を余儀なくされたとは思えないほど、力強く、そして美しく生まれ変わったその光景に、二人は目を細めた。自分たちの手で丁寧に修復し、何度も点検を重ねた柵は、どこを見ても完璧だった。
次に足を運んだのは、馬たちの安息の地である馬房。一頭、また一頭と増えていく馬たちに合わせて増築を重ねた馬房は、震災前の活気に満ちた姿を、完全に、取り戻していた。
「ノゾミの馬房も、寝藁は完璧だな」
「はい。ノゾミが好きなやつ用意しました」
二人は顔を見合わせ、満足げに頷いた。ノゾミを迎える準備は、万全だった。
やがてやることのなくなった二人は、ベンチに腰を下ろし、空を眺めていた。初夏の陽光が、二人の頬を優しく撫でる。
「それにしても、河合牧場デカくなったな」
ケイゾーが完全に復興した河合牧場を眺めながら、感慨深げに呟いた。
「本当にすごいですよね。いったい幾らかかったんすか?」
アオキが、子どものように目を輝かせて尋ねた。
ケイゾーは少し困ったような表情を浮かべたが、観念したように、そっと耳打ちした。
「・・・まじっすか」
あまりの金額に、アオキは目を丸くした。
「馬産って金かかるんすね」
「あぁ、ノゾミには足向いて寝れないわ」
ケイゾーは遠い目をして言った。
ノゾミの活躍がなければ、河合牧場は再び立ち上がることはできなかっただろう。それだけ河合牧場にノゾミがもたらしたものは大きかった
二人は、河合牧場の思い出、そしてこれからの夢を語り合いながら、ノゾミの到着を待ち続けた。
ノゾミの到着予定時刻から30分。焦りと不安が、二人の心をざわつかせる。何かあったのだろうか。二人は何度も時計を確認していた。
その時。
遠く、かすかに、しかし確かに、車の音が聞こえてきた。アオキは、息を呑み、立ち上がった。河合牧場へと続く道を、目を凝らして見つめる。そこには、馬産に携わる者ならば誰もが見慣れた、あの車がゆっくりと近づいてくるのが見えた。馬運車だ。
アオキの胸が高鳴る。ノゾミが、ついに、帰ってくる。震災を乗り越え、数々の栄光を掴み、故郷へと錦を飾るために。
馬運車が、ゆっくりと停止する。運転席のドアが開き、運転手が降りてくる。ケイゾーに軽く挨拶を交わした後、運転手は馬運車の後部、ノゾミが乗っている扉に手をかけた。
扉が、ゆっくりと、ゆっくりと開かれていく。
眩いばかりの光が、扉の隙間から溢れ出し、ノゾミのシルエットを浮かび上がらせる。
その瞬間、アオキの目から、とめどなく熱いものが溢れ出した。
「おかえり、ノゾミ!」
アオキは、声を震わせ、叫んだ。その声は、喜びと感動、そしてノゾミへの深い愛情に満ちていた。
「ヒヒーン!」
ノゾミは、アオキの声に応えるように、力強く嘶いた。その声は、河合牧場全体に響き渡り、まるで凱旋の高らかに告げるように、牧場の隅々まで満たしていった。
第一章 彼らの願い
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