7-1 未来に続くエピローグ
日本ダービーから一週間後の日曜日の夜。個室の居酒屋には、五つの人影が寄り添うように座っていた。
彼らの表情は、一様に明るく、高揚感に満ちていた。しかし、その奥には、言葉では表現しきれないほどの深い感動と、共に歩んだ日々への感謝が静かに息づいていた。
「それではケイゾーさん!!乾杯の音頭をお願いします!!」
「え、おれ?」
困惑するケイゾー。その傍ら拍手が湧き上がり、ケイゾーは少し戸惑いながらも、前に押し出された。ケイゾーは、突然の出来事にしどろもどろになりながらも言葉を捻り出した。
「えーと、今日はノゾミがダービーを制覇したということで、祝勝会を開かせていただきました。河合牧場の河合敬三です。ダービーを勝てたのは、ひとえに国本厩舎と三津騎手のおかげです。本当にありがとうございました」
ケイゾーは深々と頭を下げた。その姿には、感謝と安堵、そして込み上げる喜びが滲み出ていた。
「それでは、今日は難しいことは忘れて、大いに楽しみましょう。乾杯!!」
「「かんぱーい!!」」
グラスを合わせる音が、喜びの輪唱のように響き渡る。そこは、ノゾミのダービー制覇を祝う、歓喜の宴であった。
「いやー、取材とんでもなかったですねー」
「いや本当に気疲れしましたわ」
イマナミの言葉にアオキが同意する。
この一週間、五人は漏れなく、とても忙しい日々に目を回していた。しかし、その忙しさの中には、ノゾミの勝利がもたらした喜びと、彼らが共に成し遂げた偉業への誇りが満ち溢れていた。
被災地から奇跡的に生き残った馬がダービーを制覇したということで、牧場主であり馬主であるケイゾーと、育ての親であるアオキ、そして競走馬に仕上げたイマナミには、ノゾミに関する取材が競馬雑誌・番組だけでなく地上波にも依頼され、それに対応に東奔西走した。
そしてクニモトは、念願のダービー制覇ということで、競馬番組や競馬雑誌の取材、そして今までお世話になった馬主からお祝いの電話を多数受けるなどで、調教の指示をほとんど調教助手のハシモトに任せるほど走り回っていた。
最後に三津。彼もダービー、いやG1を制覇したことで取材は殺到した。しかし彼の場合はそれだけではない。騎乗依頼も殺到したのである。デビュー時以来の騎乗依頼の数に、どうするか、嬉しい悲鳴を上げていた。
「いやー、三津どうよ?初G1は?」
クニモトは、ニヤニヤしながら、三津にG1ジョッキーになった感想を尋ねた。三津は冷静を装いながら言った。
「いや、別に何も変わったことはないですよ。技術が上がったわけでもないですし」
「なーに、すかしてんだ!?こういう時は、素直に嬉しいって言えばいいんだよ!!」
クニモトは、豪快に笑いながら三津の肩を叩いた。その仕草には、まるで息子を祝う父親のような温かさが込められていた。ちなみに国本厩舎の従業員には、その酒癖の悪さから、飲み会は固辞されている。
「いやいや、俺にとってはやっと、って感じで、そんな無邪気に喜ぶ年でもないですし」
「いやいや」
三津の言葉を遮るように、イマナミが被せた。その表情は、クニモトと瓜二つだった。
「俺、知ってるんですよー。ノゾミに会いに行って、『ありがとう!!』って言ってたの!!」
「ばっ、なんでそれを知ってるんだよ」
三津はイマナミの言葉に焦った表情を見せる。対するイマナミは得意げな顔をして言った。
「いやー、ノゾミと会わせてほしいって言われて、何をするんだろう?と思って、こっそり見てたんですよねー」
イマナミの言葉に、三津は顔を真っ赤にした。そして、周囲を見渡すと、そこにはやけに温かい空気が流れていた。
この雰囲気はマズイ。
三津は空気を変えるために、一つ咳払いをした。
「いや、先生こそどうなんですか?ダービー制覇は、やっぱり特別ですか?」
三津の言葉に、クニモトは腕を組み、「うーん、そうだな」と呟いた。
「あまり意識しないようにしてたんだが、いざ制覇したら」
クニモトは、ビールをグビグビと飲み干し、しみじみと言った。
「嬉しいな」
その表情は、まさに万感の思いが溢れ出たようであった。調教師を始めて四十年。この歳になっての初偉業は、想像を遥かに超える喜びをもたらしたのだろう。
その言葉を聞いた瞬間、イマナミの目から涙が溢れ出した。
「おいおい・・・なんでイマナミが泣いてんだよ」
「いや、なんか、なんでだろう?」
イマナミは涙を拭きながら口を開いた。
「初めてセンセーに恩を返せた気がして・・・全然返し足りないんですけど」
「イマナミ・・・」
イマナミの涙と言葉に言葉が出ないクニモト。クニモトの目にも涙があった。
イマナミが国本厩舎に勤めたのは、十二年前。JRAの競馬学校で厩務員課程を終え、すぐに国本厩舎の門を叩いた。一般家庭出身のイマナミは、クニモトに競馬界のイロハを叩き込まれた。反発したことも、喧嘩したこともあった。それでもクニモトは、イマナミに自分の技術を余すことなく教え込んだ。それからイマナミは、メキメキと力をつけ、G1馬を育て上げるところまで成長した。いつしかイマナミにとって、クニモトは第二の父親のような存在になっていた。
受け取ってばかりだったイマナミにとって、ダービーはクニモトに受けた恩を返す、数少ないチャンスだった。定年間近のクニモトの万感の思いを聞き、イマナミの中で、ダービーの重圧からようやく解放されたのだ。
「まぁまぁ、飲もうや!!明日からも仕事だ!!」
「そうですねー」
ケイゾーは湿っぽい雰囲気を手を叩いて変え、話題は未来へ、ノゾミの今後へと移っていった。
「あーそうだケイゾーさん。来週中にノゾミを放牧に出そうと思っているんですが、大丈夫ですか?」
「えぇ。大丈夫です。詳細が決まったら、メールかFAXで送ってください。アオキ、準備頼む」
「はい。わかりました」
アオキは、ケイゾーの言葉に頷いた。そして、アオキはスマホを取り出し、イマナミの方を見て言った。
「イマナミさん。ノゾミについての引き継ぎをしたいので、後でLINEを教えてください」
「わかりました。是非お願いします」
アオキの提案に、イマナミは快く応じラインを交換した。それは、まるでバトンを繋ぐように、ノゾミの未来を託す姿だった。
「ケイゾーさん、先生、ノゾミの次走はどうなるんですか?神戸新聞杯ですか?」
「うーん、神戸新聞杯になるかなー?どうですか先生?」
「さすがに疲れが見えているから、河合牧場での回復具合次第だが、神戸新聞杯かなー」
「やっぱり目標は菊花賞ですよね」
アオキの言葉に、ケイゾーとクニモトは頷いた。
「ダービーを獲ったら、やっぱり菊花賞は目指さざるを得ないよなー」
「ホワイトフォースとの再戦も求められているし、やっぱりそれにも応えないとな」
菊花賞。それは、日本の競馬におけるクラシックレースの一つであり、その歴史は1937年に遡る。毎年秋に京都競馬場で開催される。このレースは、日本の競馬三冠の最終戦である。
特徴は、なんといってもその距離。3000メートルという長距離は、スタミナと持続力が問われるレースであり、出走馬の底力が試される場である。競馬界では、もはや主流から外れている距離だが、競馬ファンにとっては人気のあるレースであり、格式高いレースとして知られている。
「ホワイトフォースに勝てますかねー」
「うーん、難しいなー。ホワイトフォース。あれはどう考えても長距離馬だ」
アオキの言葉に、ケイゾーは冷静に分析した。ケイゾーの言葉に、クニモトも三津も異論はなかった。勝ったとはいえ、ホワイトフォースは強敵だ。次ダービーと同じ条件で戦っても勝てるかは分からない。
まさに怪物。そして今度は、相手の得意な舞台であろう長距離で戦わなければならないのだ。とても楽観視できる状況ではなかった。
「まぁ、ノゾミは2000メートルくらいが良さそうだもんな」
「血統的に言ってもそうですし、馬体的に見ても中距離馬ですもんねー。将来的にマイルで走ってる可能性もありますよ」
「まぁ、でもそれでもノゾミならなんとかなるって思ってしまうのは、やっぱり贔屓が入ってるんでしょうね」
そう言うアオキにも誰も否定しなかった。ホワイトフォースは強い。それは間違いない。しかしノゾミも強い。ノゾミの強さを誰もが知っていて、そして信じている5人であった。
「まぁ、まずは神戸新聞杯を目標に頑張りましょう」
「そうですね。まずは疲れを回復させて、そこからですね」
ノゾミのこれからの方針が決まり、ダービーの祝勝会は幕を閉じた。しかし、彼らの心には、ノゾミと共に更なる高みを目指すという、新たな希望が灯っていた。
彼らは、ノゾミという一頭の馬を通じて、深い絆で結ばれていた。それは、単なる馬主と関係者という関係を超え、まるで家族のような、固い絆だった。彼らは、ノゾミの成長を喜び、その活躍を心から願い、共に未来を切り拓こうと決意を新たにしたのであった。
ーーーーーーーーーーーーー
「ふぅー、飲んだ飲んだ。明日ですよね。帰るのは」
「あぁ。さすがにこのご時世、飲酒運転なんてできねぇーよ」
ケイゾーとアオキは、夜の静けさの中、酔いを醒ますためにホテルまでの道をゆっくりと歩いていた。街灯が二人を優しく照らし出し、足元に伸びる影が、まるで過ぎ去った時間の名残のようだった。
「いやー、楽しかったなー。またやりたいですね」
「次やるとしたら、菊花賞だな」
アオキの言葉に、ケイゾーは静かに笑った。そして、少し躊躇いがちに、まるで心の奥底に秘めていた想いを吐露するように、ゆっくりと口を開いた。
「なぁ、アオキ。アヤメカゼって覚えてるか?」
「えぇ、アヤメでしょ?それがどうしたんですか?」
「どうやら、もう引退を考えているらしいんだ」
「あー、もう五歳ですし、戦績も伸び悩んでますもんね」
アヤメカゼは、かつて大きな期待を背負っていた馬だった。全姉は、ローズステークスを制したフジカゼ。ノゾミの母親である。
アヤメは、セールで二千万円という高値で取引され、未勝利、一勝クラスと順調に勝ち進み、桜花賞にも挑戦した。結果は五着と、その才能の片鱗を見せ、更なる飛躍を予感させた。しかし、その後二年間、勝利の女神は彼女に微笑むことはなかった。そして、五歳という年齢を迎え、オーナーもまた、引き際を感じ始めていた。
「それで、アヤメカゼを引き取ろうと思うんだ」
「繁殖牝馬としてですか?」
「あぁ。そのつもりだ」
二人の間に、しばしの静寂が訪れる。河合牧場は、かつて一度、再建を諦めた場所だった。しかし、ノゾミが河合牧場に戻ってきたことで、再び牧草地と馬房が建てられた。それは、あくまでノゾミのため。馬産としての、生産牧場としての河合牧場は、過去のものとなったはずだった。
「生産牧場としての河合牧場の復活ですね」
「不満か?」
「いや、全然。ただ驚いただけです」
「自分でも、ここまで河合牧場を復興させることになるとはな」
河合牧場は、自分の代で終わらせる。それは、ケイゾーが心に決めていたことだった。
しかし、心の奥底で燻っていた情熱が、再び燃え上がり始めた。まだまだ、馬産に携わっていたい。そう、強く願ってしまったのだ。
「ノゾミのおかげだな」
「そうですね」
そう言って、アオキはふと河合牧場のSNSを確認する。情報拡散のために、ダービーウィークに作ったものだったが、フォロワーは既に一万を超えている。そして、ダービーの日には千を超えるお祝いコメントが来ていた。そして、ノゾミとのふれあい体験の申し込みは、既に倍率三倍を超えている。
「まだまだノゾミで夢見れるって、幸せなことですね」
「ほんとにな。幸せだ、俺たちは」
国本厩舎は、悲願のダービーを制覇し、三津は念願のG1タイトルを手にした。そして、河合牧場もまた、ノゾミを中心に、新たな道を歩み始めようとしていた。それぞれの場所で、それぞれの夢が、ゆっくりと、しかし確実に、花開こうとしていた。
あと1話で1章完結です。よろしくお願いします。




