6-1 彼らの願い
2/13 タイトル変更しました
ダービー当日。
ついにこの日が来た。競馬界の祭典、ダービー当日。クニモトはダービーの前のレース10Rを中継を見ながらダービーに思いを馳せていた。
前日のうちに輸送は滞りなく完了し、自信を持って送り出せる仕上がりとなった。担当厩務員であるイマナミが夜遅くまで手入れを怠らず、調教師も納得のいく調整を施した。
ここまでで調教師と厩務員の仕事の8割は終わったと言えるだろう。
残るはパドックを無事にこなし、ジョッキーにバトンを繋ぐこと。
観客の熱気と興奮が伝わるパドックで、馬のコンディションを最終確認し、騎手に的確な指示を伝える。それがトレーナーとしての最後の仕事だ。
しかし、不安は常に付きまとう。
最終追い切りは本当に坂路で良かったのだろうか?CWでビッシリと追い切った方が良かったのではないか?それでは2週前、3週前は・・・そもそもここまでのレース選択は最適だったのか?あの時の判断は本当に正しかったのか?
考え始めれば、きりがない。
それでも、自分たちがやってきたことを最適だったと信じるしかない。それが馬券購入者に対する、そして何より命をかけて走る馬と騎手に対する礼儀だと、クニモトは師匠から叩き込まれた。
迷いや不安を払拭し、堂々と胸を張ってゲートインを見送る。
それがクニモトの流儀だった。
10Rがまもなく終わる。
場内の興奮は高まり、ファンの期待が高まる。いよいよダービー、競馬界最大の祭典が始まる。
クニモトは静かに目を閉じ、愛馬の健闘を祈った。
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静寂が支配するジョッキールーム。誰もが息を潜め、それぞれの時間を過ごしていた。そんな中、三津は1人、天井を見上げていた。
「ふぅー」
深く息を吐き出す。
張り詰めた空気、研ぎ澄まされた集中力。話しかける者など、いるはずもない。今の彼は、嵐の前の静けさの中にいるのだ。
三津の今日の騎乗鞍はわずか3鞍。その2鞍で芝の感触は確かめることが出来た。そして日本ダービーが終わったあとの目黒記念は、頭を下げて断った。
ダービーにすべてを賭ける。
それ以外のレースに騎乗する余裕など、彼にはなかった。負けても勝っても、もう一度ダービーに騎乗できる保証などない。
だからこそ、この一瞬にすべてを注ぎ込む。
「馬はいい。だがお前はどうだ?」
どこからか声が聞こえてくる。
どこからか自分に問いかけられる呪いの言葉。
「三津はG1では勝てない」
ざわめきが聞こえる。嘲笑が聞こえる。焦燥が聞こえる。プレッシャーが聞こえる。
それらがすべて、三津の耳に届いていた。
G1未勝利。
その事実は、彼の肩に重くのしかかっていた。それでも、三津は逃げなかった。逃げることなど、考えもしなかった。
これまで日々怠らずトレーニングを積んできた。天才と言われた新人時代も、G1に勝てず後ろ指を差され出した若手時代も、何も変化のない成長を感じない虚無だった中堅の時代も、そして今も、彼は努力をやめなかった。
なぜ成果も出ないのに、きつい思いをしているのか自問自答するときもあった。
今なら自信を持って答えられる。
今までの努力はこの時のためにあったのだ。
これまで勝たせてあげれなかった馬が、夢に出ることがある。人気薄の馬であと一歩まで迫ったことも、圧倒的一番人気で勝てなかったことも、ある。
しかしその経験は苦い思い出としてだけじゃなく、すでに血肉となり、経験になっている。
あの時の敗戦があったから、今の自分がある。そう思えるまでに、時間はかかった。それでも、過去の経験は、今の彼を支えている。
元天才ジョッキー?昔は強かった?
うるさい。
そんな言葉で、今の俺を測るな。
今日の俺は、今までで一番強い。
肉体的にも、精神的にも、技術的にも、そして経験的にも。
過去の自分を遥かに凌駕する、最高の状態。
これまでのすべてを、この一戦にぶつける。
ダービーに勝つ。
それだけを考えてきた。それだけを願ってきた。
時計を見る。
もうすぐ10Rが終わる時間だ。ゆっくりと立ち上がった。震える拳を握り締め、静かに闘志を燃やす。
覚悟は、決まった。
俺は今日、俺に勝つ。
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「イマナミはダービー回るの初めてか?」
クニモトの問いかけに、イマナミは少し緊張した面持ちで頷いた。
「初めてですね。やっぱり、独特の雰囲気があります」
パドック門前には、華やかな勝負服を纏った騎手たちや、関係者たちのざわめきが溢れていた。報道陣のカメラの放列も凄まじく、異様な熱気に包まれている。
「やっぱり緊張するか?」
クニモトはイマナミの表情を見て、再び問いかけた。
「いや、そこまでは。G1も何度か引いてますし、それに何より、ダービーがノゾミの最終レースじゃないですから」
イマナミの言葉に、クニモトはハッとした。ノゾミの競走馬生命は、ダービーで終わりではない。この大舞台を終えても、まだ長く、あるいは短い競走馬生活が続く。クニモトはダービーを目標に据えすぎていた自分を恥じた。
イマナミは「ただ…」と言葉を続ける。
「日本ダービー、勝ちたいです。だって、ノゾミにとっては最初で最後のダービーですし、
そして何よりセンセーにとっても最後のダービー挑戦ですから」
クニモトは、イマナミの言葉に息を呑んだ。イマナミの表情は穏やかであったが、その目は真剣だった。
「・・・」
喉が詰まり、言葉が出てこない。イマナミの言葉が、胸に深く突き刺さる。
「俺だけじゃないっすよ。国本厩舎、みんなが思ってることです。先生にダービーを獲らせたいって」
イマナミは、真っ直ぐにクニモトの目を見つめた。その瞳には、強い決意が宿っていた。
「イマナミ・・・」
クニモトは、彼の名前を呼ぶことしかできなかった。熱いものがこみ上げてくるのを必死に堪えた。
「周回始めまーす」
パドックの門がゆっくりと開く。
イマナミはクニモトの目を見つめ、力強く言った。
「勝ちましょう」
その言葉に、クニモトは深く頷いた。ノゾミは堂々と、ダービーのパドックへと足を踏み入れた。その背中には、厩舎スタッフたちの熱い想いが乗せられている。




