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1-1 希望の灯火

 震災から一年がたった。


 周りを見渡せば災害の爪痕は、まだ街のあちこちに深く刻まれている。崩れ落ちたビルの残骸は、かつて栄えていた商店街の面影を残しながらも、今は鋼鉄とコンクリートの墓標となっている。空を見上げれば、黒い煙が立ち上る代わりに、青空が広がっているが、その青さもどこか痛々しく感じられる。


 人々は、汗を流しながら瓦礫を片付け、再び生活を取り戻そうとしていた。子供たちの笑い声が、かつては聞こえていた公園では、今は黙々と働く大人たちの姿が見える。

 それでも希望の光は確かに灯っていた。

 新しい苗木が植えられ、傷んだ道路が修復され、壊れた家々の跡には新しい家が建てられ始めていた。緩やかであるが、それでも確実に復興が進められているのである。



 そして河合牧場でも新たな岐路が訪れていた。


「とりあえず、河合牧場は畳む。アオキには頭を下げて、オレたちが暮らせる最低限のお金残して、残り保険金を退職金代わりに渡す予定だ。」


 河合敬三 ケイゾーは、妻である河合美玖 ミクにそう告げた。


「そう・・・アオキくんには悪いことをしたわね」


 ミクはそう言ってため息をついた。話し合う前に淹れた温かいお茶はすっかり冷めきってしまった。


 河合牧場は壊滅的な被害を受けた。馬房は津波に流され、牧草地も失われた。残されたのは幸い高台にあった、自宅のみ。

 しかし、少なくない保険金もでて、再建の可能性はある。

 しかし心が折れた。

 長年に渡り、代々受け継いできた愛馬たちをすべて失ってしまった。それは、どれだけの金銭を積もうにも決して取り戻すことはできない。


「ミクにも申し訳ないことをした。保険金がでて、借金こそしてないもの、楽な老後にはならないかもしれない」

「何今更言ってんの。そんなの結婚したときから覚悟してたことよ」


 俯くケイゾーにミクは優しい笑みを浮かべた。


「それよりこれから牧場を畳んで何をするの?何をしたいの?」


 ミクは手を叩いて、未来の話を聞いた。


「何をしたい・・・か」


 ミクの疑問にケイゾーは何も答えることができなかった

 災害発生から今日までケイゾーは働いた。ひたすら働いた。保険会社に連絡をとり、友人や競馬関係者に助けを求め、資金繰りに頭を悩ませ、河合牧場の代わりの放牧先を探したり東奔西走に走り回った。

 そして今やっと落ち着き、こうして自分たちの今後について考える余裕が生まれた。しかしケイゾーには今後のビジョンが全く浮かばなかった。


 ーーーーーーーーーーーーー


「ふぅーこんなもんか」


 アオキは額をタオルで拭い、息を吐く。災害によって愛馬を奪われたその時から、彼の心は、ぽっかりと穴が開いていた。かつては馬蹄の音が響いていた日常が、今はただの沈黙に変わってしまった。馬のぬくもり、息づかい、そしてその背中に乗って訓練を重ねた日々が、一瞬にして失われた。心の穴は風穴のように、冷たい風を招き入れ、彼の魂を震わせた。夜になると、彼は星を見上げ、馬と過ごした無数の夜を思い出し、その不在を痛感した。

 毎朝、馬房のあったはずの場所に行っても、そこには何もなく、彼の心は再びその深淵な喪失感に引き戻されるのだった。


「再就職先も探さないとなー」


 しかしどうも再就職する気にならない。


 スマートフォンを手に取った。その画面には、かつての仲間たちの写真が映し出される。昔の笑顔、一緒に過ごした無邪気な時間、そして今はもう戻らない日々の記憶が、鮮やかに蘇る。そして、最後の写真に辿り着いたとき、彼の目から涙が溢れた。涙は止めどなく流れ、彼は一人、寂しさと懐かしさに包まれながら、画面を見つめ続けた。


 もう1年である。世間ではあの震災はもうすでに歴史になっている。テレビでは「忘れない」などと、普段はもう忘れてしまっているかのように報道される。「もう慣れろよ」「次に向かえよ」と親族や学友は言う。しかし自分にとっては『まだ1年』なのである。


「あーくそ・・・」


 スマホをポケットに入れて涙を拭う。前を向こう。そして進むしかない。



 そう決意を新たにしたそのときである。


「ブホー?」


 馬がいた。目をパチクリさせる。


 馬体は良くない。馬体は黒かったのだろうが、泥まみれでくすんで見える。そして世話されていなかったのだろう、本来人が切るべき蹄は自分で処理していたのか、雑に切られていた。


 ありえない。


 面影は微かにある。しかし頭では、理性は「違う。別の馬だ。」と叫ぶ。災害からもう1年だ。家畜である馬が人間の補助無しで生き抜けるはずがない。それが理屈だ。しかし感情が心では、そのあり得ないのことを期待してしまっている。

 震える口でアオキは名前を呼んだ。


「もしかして、ノゾミ・・・?」

「ヒン!!」


 アオキの声に反応し、彼は力強く反応する。間違いない。ノゾミという声に確かに反応した。

 アオキは走り出した。


「ノゾミ!」


 アオキは叫び、涙が頬を伝った。彼はアオキの前に立ち止まり、優しく首を伸ばしてきた。アオキは彼の首にしがみ付き、涙と喜びを混ぜ合わせた。


「ノゾミ、お前生きてたのか。生きててくれて、ありがとう」


 アオキの声は感動で震え、心は暖かさで満たされた。彼は、まるでアオキの言葉を理解するかのように、静かに鼻息を吹きかけた。


 ノゾミの表情は疲弊しているように見えた。一体どのようにして1年を生き延びることができたのか想像もつかない。しかしそれはとてつもなく困難であったことはノゾミの姿を見れば明らかだった。


 力強さとしなやかさを兼ね備えていた筋肉質な体は頼りない四肢に。見栄えのするはずである漆黒の馬体は毛艶に精細を欠き。芸術的と言われていた腹のラインは肋が浮き出てしまっていた。そして傷一つ無かったはずの馬体には至る所に傷跡があった。


 しかしそんなことはどうでもいい。かつて自分が諦めてしまった命がそこにある。その事実が自分の心を熱くした。


「フヒッ!!」


 ノゾミは前右脚をカンカンと地面を鳴らす。忘れもしない。いつものご飯を用意しろという合図である。


「え、あーちょっと待ってくれ!!ケイゾーさん呼んでくる!!」


 そう言ってアオキはケイゾーの住む家へ駆けていった。それを聞いたノゾミは「早くしろよ」と言わんばかりにかつて自分の馬房があった場所で座った。

 この再会によって、共に過ごした日々が、止まっていた時計が、動き出そうとしていた。

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