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5-2 決戦へ

 京都新聞杯が終わって2週後。3歳牝馬の頂点を決めるオークスウィークになった。SNSや掲示板、競馬雑誌などでは今週の牝馬の頂点になるのかという話題で持ちきりである。

 しかし栗東と美浦のトレーニングセンターは少し様子が違う。オークスウィークは、日本ダービーの2週前でもあるのである。競馬関係者の間ではオークスの話題をよそに、ダービーの話題が飛び交い、ダービーに出走させる厩舎の緊張感は高まってきていた。

 ダービーは一生に一回しか挑戦できず、日本一注目されるレースである。だから下手な調整で馬をレースに送り出すことは許されない。


 ダービーは特別なのだ。


「お疲れ様です」


 2週前追い切りを終えた三津はイマナミに声をかけられる。


「体感だといいタイムだったんだけどどうだった?」

「バッチリでした」


 イマナミはそう言って、親指を立てた。表情は明るく、三津自身もつられて笑った。


「ならよかった」


 そう言って三津は、ノゾミから降り、息を吐いた。追い切り一本一本にも神経を尖らせなければならない。1つのミスでそれまでの努力が水の泡となる。三津はヘルメットを外し、汗を拭った。

 三津は緊張感からか感じなかった喉の渇きを感じ、騎手の休憩所へ訪れる。


 すると休憩所には先客がいた。


「よぉ。三津。今日は美浦か、フッカツノネガイに乗りに来たのか?」

「武谷さん、おはようございます。そうですね、フッカツノネガイに乗りに来ました」


 武谷雄一。この名を知らない競馬ファンはいないだろう。それどころか、広く世間にも知られた最も有名な騎手と言っても過言ではない、レジェンドジョッキーである。JRA通算勝利数は4000勝を超え、重賞も数え切れないほど勝利している。クラシック(皐月賞、日本ダービー、菊花賞)やGIレースを多数制覇し、数々の名馬の鞍上には武谷がいた。特に、日本ダービーを5回制覇した功績は、他の追随を許さない。長年競馬界を率いてきた偉大な騎手。

 そして今年のダービーではサンショクダンゴの主戦であり、ライバルだ。


「まぁ、座れや」


 武谷は椅子を勧め、三津は勧められるまま隣に腰を下ろした。


「フッカツノネガイ、いい馬だな」


 武谷はスポーツドリンクを飲みながら言った。世間話をするつもりらしい。武谷と二人で話す機会はほとんどない。武谷は美浦所属で、三津は栗東所属だからだ。調教はもちろん、重賞のある日以外に一緒にレースをする機会もない。

 そのため三津は少し緊張しながら返答した。


「あぁ。俺もそう思います。いい馬に乗せてもらってます」

「いやいや、あんな暴れ馬をよく制御できるようにしたのは、イマナミと三津の努力こそだろ」


 そう言って、武谷は「おれだったら初戦で落馬してるわ」と冗談交じりに三津を褒める。


「あはは。ありがとうございます。サンショクダンゴはどうですか?」

「悪くないよ。これなら、自信を持ってダービー行けそうだ。てかお前見てたじゃねぇーか」


 武谷はジロリと三津を睨む。しかしその口元は緩んでいて、三津をからかっているようだった。


「あはは・・・見てたんですか」

「あんなにジロジロと見られたらな。誰でも気づくわ」


 武谷は三津の表情が硬く感じ、手元をチラリとみた。その手は震え、足元も貧乏ゆすりをしていた。

 武谷は上を見上げてふと考えた。


「お前は何にそんなに縮こまってるんだ」


 武谷は、強い口調で声をかけた。

 三津は驚いて振り返り、そして答えた。


「ダービーなんて、G1でさえ勝ててない俺が勝てるのかなって・・・」


 その表情は苦々しく、自信無さげだった。それを見て武谷はため息をついた。


「どうしてだ?お前がダービーに導いた馬だろ?自信を持って乗ればいいだろ?勝ち負けその後についてくる」

「そりゃーそうですけど・・・」


 武谷は、厳しいが鼓舞するような目で彼を見据えた。


「お前は何を感じている?焦りか? 恐怖か? そんなもの、みんなが感じることだ。」


 武谷はペットボトルをゴミ箱に捨て、肩を叩いた。


「お前がG1に勝ててないのは、まだその時が来てないからだ。別に技術不足って言うわけじゃない。むしろ技術だけはお前は超一流だ。

 ただ心はどうだ?勝てるメンタルティーをもっているのか?最後は心の持ちようだ。恐怖に震えれば重心がブレる。焦ればペースが乱れる。」


「馬も知ってるさ、お前の心がどう揺れているかを。だからこそ、お前は恐怖を乗り越える姿を見せなきゃならない。

 その姿を見せるべきは誰か。ファンや俺ら騎手じゃない。自分自身と馬にだ。ダービーは、ただのレースじゃない。お前の人生の転換点になる。いや自分自身で転換点にしなくちゃならないんだよ」


 三津は、武谷の言葉に奮い立たされ、拳を握りしめた。彼の表情は硬さはなく、レースに燃える勝負師の顔である。

 それを確認した武谷は満足そうに頷き、調教を再開しようと歩き出す。


「そしてお前だけの伝説を作れ。競馬ファンはいやダービーは、そんな瞬間を待っている。」


 武谷が扉を開けようとすると三津は立ち上がった。それに少し驚き、武谷は三津の方を見る。


「武谷さん」


 そして、深々と頭を下げる。


「ありがとうございました」


 彼には既にG1に勝てないことに対する焦りやG1に対する恐怖はない。

 それに深く頷く武谷。最後に「もっとも」と言って、付け足した。


「負けるつもりはないけどな」


 武谷はそう言ってニヒルに笑った。


 武谷雄一。

 レジェンドジョッキーと言われるのは圧倒的な実績あってこそである。しかしそれだけでない。圧倒的なプロ意識と、競馬界全体を見てより良い方向に導こうとする人間性。それらを兼ね備えているからレジェンドジョッキーとして尊敬されているのだ。

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