4-4 夢への軌跡
青空が広がる美浦トレーニングセンター。その片隅にある坂路コースに、一頭の黒毛の馬が蹄を鳴らしていた。ノゾミである。ノゾミは次走の京都新聞杯に向けての2週前追い切りに取り掛かろうとしていた。そして、その背には、栗東から遥々やってきた三津の姿があった。
「今日はよろしくな」
そう言って三津はノゾミの背中をポンポン叩いた。
「三津さん、よろしくお願いします。」
三津をノゾミの上に乗せる補助をするイマナミ。三津を鞍の上に乗ると、ノゾミは「今日はお前か」という表情を見せるが、それ以上のリアクションはなく、ゆっくりと歩き出した。
「昨日ノゾミはどうでしたか?」
三津が質問すると、イマナミは苦い表情になった。
「それが、あれだけ抑えるのが困難なほどかかったのが、今週はもう異様にペースが落ちてしまって・・・」
お手上げだという表情で、イマナミはノゾミの現状を説明した。
これまでは暴走するノゾミのペースを落とすように手綱を引っ張っていたのが、今度はペースが遅すぎて、促さないといけないのだ。それを報告されたクニモトも、頭を悩ませているという。
「まぁ、一度走ってみます。ペースは?」
「細かいペースはノゾミには望んでないですよ。とりあえず折り合えるようによろしくお願いします。一応前に2頭走らせます。最後に併入か先着が目標です。」
「わかりました」
三津はゴーグルを装着し、目の前のノゾミをじっと見つめた。その視線は、ノゾミの一挙手一投足にあった。
「よし、行こう、ノゾミ」
静寂を切り裂くような三津の合図。ノゾミはゆっくりと、しかし確実に歩を進め、坂路の入り口に立った。軽く蹄を鳴らすその姿は、内に秘めた闘志を押し殺しているかのようだった。通常ならば、轟音と共に爆発的な加速を見せるノゾミが、今日はまるで別馬のように、静かに、じわじわとスピードを上げていく。その異様な光景に、三津の胸には戸惑いが広がっていく。
「ノゾミ・・・?」
三津の声には、隠しきれない困惑が滲んでいた。確かに加速はしている。しかし、いつものような力強さが、漲るようなエネルギーが、そこには微塵も感じられなかった。
何が原因なのか。三津は周囲を見渡すが、特に変わった様子はない。風の音、鳥のさえずり、そして遠くの木々のざわめき。いつもと変わらぬ風景。しかし、ノゾミだけが、まるで別世界にいるかのように、異質な存在感を放っていた。200m、400mの標識が、静かに、しかし確実に過ぎていく。その時、三津はノゾミの異様なまでの冷静さに気づいた。
「もしかして…ペース配分の練習をしているのか?」
後ろの馬にもそして騎手にも頼らず、単独でレースを制するために。ノゾミは自らを律し、ペースを制御しようとしている。三津はそう感じた。まるで熟練の職人が、精密な作業を行うかのように、ノゾミは自身の動きを制御しようとしていた。
しかし、その過剰な集中が、逆にノゾミの動きをぎこちなくさせていた。軸はずれ、コーナリングもぎこちない。そして何より、圧倒的にスピードが足りない。まるで一流のピアニストが、初めてピアノに触れたかのように、ぎこちなく鍵盤を叩いているようだった。
「800m、70秒か・・・」
三津は困惑したように呟いた。あまりにも遅すぎる。ノゾミの本来の力からすれば、信じられないほどの遅さだった。
「お疲れ様です。どうでした?」
イマナミの声が、静寂を破る。その声には、わずかながら不安の色が滲んでいた。
「見ての通り、ノゾミが全く負荷かかってない。あんまり良くない追い切りになってしまいました」
三津はそう言って肩を竦める。イマナミは「わざわざ来て頂いたのに申し訳ないです」と頭を下げる。
暗い雰囲気のまま坂路をあとにしようするとノゾミがくるりと方向を変えた。
「おい!!ノゾミどこ行こうっていうんだ!!」
「ブヒッ!!」
ノゾミが向かう先は再び坂路だった。
「もう一度走るっていうのか」
「ヒンッ!!」
ノゾミの首を低く垂れ、耳がピンと立っている。走り終えた後の息は少しだけ荒れており、目はとても鋭い。口元は引き締まり、尾をゆっくりと振りながら、時折地面を小さく蹴る。蹄の音は今日の不満を物語るかのようだ。
「イマナミさんどうします?」
三津はイマナミの指示を煽る。イマナミは少しの思考の末、結論を出した。
「やめときましょう。リスクが高すぎます」
坂路調教は負荷が非常に高く。通常週に1・2回程度しかされないものである。それを一日に2回もするのは、非常にリスクがあるとイマナミは判断した。
「だってよ。帰るぞ。ノゾミ・・・」
「ブヒッ・・・・」
ノゾミはとても不満げな声をあげる。三津はノゾミから下馬し、イマナミとともに手綱を引きながら坂路をあとにさせた。
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昼すぎになり他の馬の追い切りも終えた三津はノゾミの馬房の前にいた。ノゾミ専用に用意されたオーツ麦をモソモソも食べていた。その様子はとても不機嫌そうである。その様子に苦笑しながらも、三津はノゾミに話しかける。
「なぁーノゾミ」
「・・・」
ノゾミは、三津の呼びかけに応じることなく、ただ黙々と食事を続けている。それでも、三津はノゾミが自分の言葉を聞いていると信じて、話を続けた。
「俺はノゾミのことは何もわからん。」
「・・・」
「ノゾミが今何が食べたいとか何をしたいかとか何一つ分からない。世話はイマナミさんがしているしな」
三津は一呼吸おいた。「でも」とつづける。ノゾミの耳がわずかに動いた。
「でも、お前のレースにかける想い。それは、誰よりも分かっているつもりだ。初めてお前に出会った時、正直、俺はお前を甘く見ていた。レースなんて走りたくないから、俺の言うことを聞かないんだと、そう思っていた」
「・・・」
「でも、違った。お前は、最初から自分の力で勝つために、誰よりも懸命に戦っていたんだな」
三津の言葉に、ノゾミは食べるのをやめ、静かに三津を見つめた。
「お前は、これまで一人で戦い、勝利を掴んできた。でも、これから挑む重賞レースは、お前一人では勝てない」
その言葉にノゾミは何も反論しなかった。それは己一人での限界をノゾミ自身が感じていたからである。
「レース展開やペース、直線のルート取り。おれに任せてくれないか?」
三津はそう言ってから「いや、そうじゃないな」と言って少し考え込む。
「一緒にやろう。お前だけじゃなくて、俺も戦わせてくれ。」
「・・・」
ノゾミは、三津の瞳をじっと見つめた。それは、まるで彼の魂の奥底を見透かそうとしているかのようだった。
三津はそれを黙って受け入れた。
「ヒンッ」
それは、かすかに震える、小さな鳴き声だった。しかし、三津には、それがまるで言葉を交わすかのような、強い意志を持ったメッセージのように聞こえた。
「ノゾミ・・・?」
認めてくれたのか?
もう一度語りかけても、ノゾミは、まるで何もなかったかのように、もそもそとオーツ麦を口に運ぶのみで、反応はない。これ以上話しかけても、無駄だと悟った三津は、静かに馬房を後にした。
「あ、三津さん。どうでしたか?」
別の馬の馬房の掃除をしていたイマナミが話しかけてきた。
「あー。イマナミさん。いやーどうでしょ。わかってくれたかはわかりません」
「いやきっとわかってくれますよ。ノゾミ賢いですから」
人の言葉がわかる馬。そうイマナミはノゾミを称した。
実際どうなのか分からない。三津は、眉唾物だと思っていた。しかし、今日の出来事を通して、もしかしたら、本当にそうなのかもしれないと感じ始めていた。
2週間後。京都新聞杯がやってくる。ダービー行きのチケットをかけた最後の戦いが始まる。




