4-1 夢への軌跡
朝霧が深く立ち込め、視界を遮る美浦トレーニングセンター。白く煙る空気は、まるで二人の心の迷いを映し出しているかのようだった。イマナミは、ノゾミをブラッシングしながら、三津康成と穏やかな会話を交わしていた。しかし、その穏やかな口調とは裏腹に、二人の表情には拭い去れない不安が漂っていた。
「2連勝しちゃって、いよいよ青葉賞ですねー」
イマナミが穏やかに言うと、三津は苦笑いを浮かべて答えた。
「なんか実感ないな。俺乗ってるだけだし」
「俺に至ってはノゾミの世話係ですよ」
イマナミも三津と同じく苦笑する。
1年半ものハンデを背負った馬が、中央競馬で連勝する。
それはまさに前代未聞の快挙と言えるだろう。何千万もの金が飛び交う中央競馬で、エリートたちが血眼になって鍛え上げた馬たちがひしめき合う中で、ハンデを抱えたノゾミが連勝街道を驀進しているのだ。
そして次走の青葉賞は、ダービーへの切符をかけた重要なレースであり、日本でも有数の格式を誇る。
普通ならば誇り高い感情が胸を占めるはずである。しかし二人に喜びはなく、困惑の色が濃かった。
イマナミはノゾミに餌をやり、体調を管理する。ノゾミの世話は献身的に行っている。それはレースにおいても重要な要素であることは間違いない。しかし、レースに直結する調教では自分は乗っているだけで、ノゾミ自身が全てをこなしているのだ。
そして三津に至っては、本当にレースで騎乗するだけである。ノゾミを御するどころか、その奔放な走りを制御することすらできていない。これでは騎乗する意味がない。いや、むしろ自分の体重の分だけノゾミの負担になっていると言えるかもしれない。
イマナミも三津も、ノゾミのために何か出来ている実感がない。まるでノゾミ一頭でレースに挑んでいるかのようだ。走っているノゾミの瞳に、自分たち二人の姿は見えていないのではないか。
このままではいけない。二人の心には焦燥感が募っていた。しかしどうすればいいかは皆目見当もつかなかった。
「ブヒッ!!」
そんなことを考えていると、ノゾミが右前脚を地面にコツンコツンと叩きつけた。いつもどおりのご飯の催促である。
「わりーわりーメシの途中だったな」
イマナミはノゾミに詫びを入れて、サプリメント入りのオーツ麦を餌箱に入れた。ノゾミは「フンッ」と鼻を鳴らし、待ちきれないといった様子で美味しそうに食べ始めた。その姿は、まるで子供のようで、二人の心をわずかに和ませた。
「青葉賞は期待しといてください。もうちょいまともに走れるようにしときます」
「はは・・・期待せずに待ってますわ」
「センセーもなんとかしようと必死に考えてはいるんですけど、全然改善しなくて」
イマナミはやれやれと後ろ髪を掻きながら言った。
「すいません。俺は何も役に立てなかったです」
肩を落とし、自嘲気味に呟く三津に、イマナミは慌てて首を横に振った。
「いやいや、センセーと言ってたんですよ?やっぱり三津さんをレースで乗せてよかったって」
「ほんとうですか?」
イマナミの意外な言葉に、三津は目を丸くした。クニモトは、おべっかを使うような男ではない。そんな男が、まともにレースをさせられない自分を褒めているとは、思ってもみなかった。
「三津さんは、ノゾミがいくら暴走しても、一戦目も二戦目も諦めず抑えようと、教育してくれたじゃないですか。それにセンセーがとても感謝していましたよ」
「まぁー、効果なかったっぽいですけどね。ノゾミは、全然言うこと聞かないですし」
自嘲気味に笑う三津に、イマナミは再び首を横に振った。
「そんなことないですよ。きっと、それが生きる時が来ると思います。ノゾミは、賢い馬ですから、きっと分かってますよ」
「そうですかね?そうだったらいいんですけど」
そう言う、三津の表情は、自信なさげだった。
「ブヒッ!」
「うん?どうしたノゾミ?」
ノゾミは器用にくるりと馬体を後ろに向け、馬房の柵に右後脚を乗せた。その仕草は、まるで何かを訴えかけているかのようだった。
「なんか脚にあるのか?どれどれ・・・・」
イマナミは右後脚をチェックする。するとわずかに蹄鉄が緩んでいることが確認できた。
「蹄鉄だな。明日には打ち直してもらえるように言っておくよ」
「ヒンッ」
イマナミの返答に満足したのか、ノゾミは「頼んだぞ」と言わんばかりに鳴いて、馬房の柵から脚を下ろし、藁に寝転がった。
「イマナミさん。ノゾミって本当に賢いんですね」
その光景を見て、三津は目を丸くした。
「そうなんですよ。いつもはめっちゃ賢いんですよ」
そう言ってイマナミは笑った。三津は栗東(滋賀)の騎手であるため、美浦(茨城)のことは人伝でしか知らない。そのためレース中のノゾミの様子と今のノゾミの様子の乖離に驚きを隠せなかった。
「俺、いつもレース中しか乗らないから全くイメージなかったです」
「調教も追い切りじゃなかったら大人しいんですよ。だけど乗り運動だと、暴走するんです。だから、俺の足はこんなになってしまいました」
そう言って、イマナミはズボンの裾をまくり自身の足を見せた。三津はイマナミの足を見て目を丸くした。
イマナミの足はとても厩務員とは思えないぐらい鍛え上げれ、まるで短距離選手のような足だった。下手すると騎手である三津よりも太いかもしれない。
「どうしたんですか?その足」
「ノゾミは乗り運動すると暴走するんで、ノゾミの調教は引き運動中心になんですよ。今日も負荷かけるために2時間くらいノゾミと一緒に走ってました。だから、もう毎日ヘロヘロですよ」
イマナミはそう言って笑った。その笑みにつられて三津も笑う。
「イマナミさん、めっちゃ頑張ってるじゃないですか」
「いやいやこんなの当たり前ですよ。三津さんこそ、あなたが乗ってくれなかったら、誰も乗ってくれませんよ」
「いやいや、そんなことないですよ。俺なんか、ただの重りですから」
二人はそう謙遜し合い、顔を見合わせた。そしてイマナミは、ノゾミを見つめながら、祈るように呟いた。
「勝ちたいですね。青葉賞」
「・・・そうですね。勝ちたい。ノゾミと一緒に、ダービーに行きたい」
イマナミの言葉に頷く三津。そして三津は、固く拳を握りしめ、前を見据えた。その瞳には、ノゾミとダービーに行くという強い意志が宿っていた。
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三津に青葉賞について話があると言われクニモトは三津のもとへ、やってきた。
「どうしたー?三津こっちまでわざわざ来るなんて」
普段は物怖じしない三津が、珍しく言葉を濁している。
「先生・・・あの、その・・・」
三津は何度も言葉を区切り、葛藤している様子がありありと見て取れた。そして、意を決したように顔を上げ、クニモトの目をまっすぐ見据えた。
「青葉賞では、ノゾミを抑えるのは、もうやめて、ノゾミのペースで・・・行かせてやりたいんです。先生は、どう思われますか?」
三津の提案にクニモトは目を丸くした。
「どうって、あんだけ抑えてたのにどんな心境の変化だよ。理由を教えてくれ」
「はい・・・」
日曜のレースが終わったあとである。
三津は一人、自宅の薄暗い部屋でノゾミのレース映像を繰り返し見ていた。
(本当に、あれで良かったのか…?)
脳裏に浮かぶのは、必死にノゾミを抑え込もうとする自分の姿。しかし、何度見返しても、ラップタイムは異常なオーバーペースを示してはいなかった。むしろ、まるで熟練の騎手が手綱を操っているかのように、淀みなく一定のペースを刻んでいる。
「まさか・・・この馬、自分でペースを…?」
信じられない事実に、三津は目を疑った。騎手の指示に頼らず、自らの意志でラップを刻む。そんな馬、聞いたこともない。だが、映像の中のノゾミは、まさにそれをやってのけている。
(俺は・・・一体何を?)
これまでの二戦、三津はノゾミを必死に抑え込もうとしてきた。だが、それは本当に必要だったのか?もしかしたら、自分の行為は、ノゾミの才能をただただ邪魔していただけなのではないか?
(自分でペースを作れる馬に、俺がやるべきことはあるのか?)
自問自答を繰り返すうち、三津の心は激しく揺れ動いた。これまでの自分の騎乗を否定するようで、恐ろしかった。しかし、ノゾミの可能性を信じたい気持ちもまた、強く胸を打つ。
(もし、本当に自分でペースを作れるなら…)
三津は腕を組み、固く目を閉じた。脳裏に、これまでのレース映像がスローモーションのように流れ出す。そして、一つの結論に至った。
それならばレース展開、ペース管理、仕掛けどころを全て一度ノゾミに任せてみよう。
そう三津は結論を出した。
理由を聞いたクニモトは黙って頷いて聞いていた。
「お前の考えはわかった。ノゾミが騎手の仕事までしてるとは信じがたいが、頭のいいノゾミだったらおかしくない」
クニモトはそう言いながらも、どこか踏ん切りのつかない表情を浮かべていた。
「はい・・・」
三津は短く答えるのが精一杯だった。
「だが、おまえは良いのか?競馬の主役は馬か人かという話題はバカバカしいと思っているが、ノゾミ1人でレースしてしまって、お前があまりにも・・・」
「センセー」
三津はクニモトの言葉に被せて言った。
「G2は鞍上とケンカして勝てるほど甘いレースではないことはセンセーが一番わかっているはずです」
「・・・あぁ」
三津の言葉に、クニモトは押し黙った。
「それに、考えに考え抜いた末の決断です」
ノゾミにレース展開、ペース管理、仕掛けどころを任せる。それは三津にとって、今までの騎手人生を否定することに等しかった。ノゾミが優れた競走馬であることは分かっている。しかし、それはそれ。三津には三津のプライドがあった。これまで培ってきた経験、磨いてきた技術。それらを全て投げ捨てるのだ。どれだけの屈辱と無力感に苛まれているかは察して有り余る。
三津の表情は葛藤と少しの後悔が、しかしそれでも確固たる決意を感じた。
「わかった。今回はそうしよう」
クニモトはため息をついて、頷いた。
「はい。よろしくお願いします」
三津は頭を下げた。その顔は、安堵と、拭い去れない後悔が入り混じっていた。
三津とクニモトは、苦渋の決断に至った。全ては、青葉賞で勝利し、ダービーへの切符を手に入れるため。しかし、その決断は、二人に深い葛藤を残した。
各々が様々な葛藤を抱えながら、青葉賞の朝を迎えた。




