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28-5 みんなの願い

『中山競馬場です。暮れの柔らかな陽光が、冬枯れのターフを黄金色に照らし出しております。雲一つない、絶好の競馬日和となりました。


 今年はホープフルステークスが昨日土曜日に行われ、本日このグランプリ・有馬記念が、2025年の中央競馬を締め括る正真正銘、最後の大一番となります。


 今年も一年、様々な喝采と悲嘆、数々のドラマがこのターフの上で生まれましたが、無事にこのフィナーレの日を迎えることができました。


 師走とは思えないほどの暖かい日差しの下、中山競馬場は超満員のお客様で埋め尽くされております。発表によりますと消防法による入場制限もかかったとのこと。スタンドを埋め尽くした皆様の白い息、そしてその熱気が、まるで陽炎のように立ち上っています。


 さあ、いよいよ、その時が近づいてまいります。役者は揃いました。二冠を引っ提げた若武者ライジンショット、絶対王者ホワイトフォース、世界の女傑ハナマンカイ、短距離王ビジョンコメコ、覚醒の兆しサンショクダンゴ。そして――二年半の沈黙を破り。帰ってきた天才、フッカツノネガイ。


 この舞台に、脇役は一頭もおりません!それではお聞きいただきましょう!


 有馬記念、ファンファーレです!』


 競馬場のターフビジョンがスターターを映す。


 その瞬間競馬場の空気が、緊張と興奮で張り詰める。観客席からは、期待と興奮が入り混じったざわめきが聞こえ始める。

 そして、スターターが旗を振り、有馬記念の始まりの告げる。


 張り詰めていた競馬場の空気が、高らかな金管の音色によって弾けた。それは戦いの号砲であり、ここまで勝ち進んできた勇者たちへの祝祭の調べだ。歴史的な瞬間の前触れに、十万の観衆が叩く手拍子は、やがて一つの巨大な生き物の脈動となって場内を支配する。


 旋律が最高潮に達し、最後の音が鳴り響くと同時に、溜め込まれていた声援が爆発した。地鳴りのような歓声が、この地に集う全ての人々の魂を一つに溶かした。


『海上自衛隊のファンファーレをお聞きいただきました。ゲートインは既に始まっています。

 さて解説の近衛良さん。改めて、とんでもないメンバーが揃いましたね』

「ええ。本当に奇跡のようなメンバーですね。有馬記念だからこそ実現した、まさにドリームレースだと思います」


 『そして、この馬場と天候です。まさに言い訳のきかない、純粋な力比べの舞台が整ったと言えそうですが』

「おっしゃる通りです。今日の馬場は内外の差もほとんどなく、どの脚質の馬にもチャンスがある絶好のコンディションです。天気も最高。

 まるで、競馬の神様が『最強の馬を一頭、ここで決めようじゃないか』と言っているような、最高の舞台が整いました。騎手たちの駆け引きも含めて、本当に楽しみな一戦です。

 本当に幸せですよ。こんなレースの解説をやらせていただけて」


『なるほどありがとうございます。ゲートインはあと2頭を残すのみになりました。

 3度目の有馬記念優勝を目指す絶対王者。

 ホワイトフォース。ゲートに・・・入りました。


 まずは全馬無事完走を。そして願わくば最高のレースを。


 最後はダービー馬⑯番ライジンショット・・・・収まりました。



 ゲートイン完了。




 スタートしました!!』


 ーーーーーーーーーー


「・・・ふぅ」


 ゲートの中、三津は静かに息を吐いた。ゲートインはスムーズ、万事順調だ。

 ゲートが開くまでの僅かな静寂。脳裏で、レース展開のシミュレーションを繰り返す。


 やがて最後の一頭がゲートに収まった。意識を研ぎ澄まし、三津は真っ直ぐに前を見据える。


「でろーー!」


 係員の鋭い声が響く。それを合図に、ノゾミが僅かに身を沈めた。体に染みついた、いつものルーティン。


 コンマ数秒の刹那。


 ゲートが、そして世界が、開いた。


 爆発的な加速。肌を切り裂く風。

 二年半のブランクなど、まるで幻だったかのように。あの時と寸分違わぬ、完璧なスタート。


 二年半のブランクなど、まるで幻だったかのように。あの時と寸分違わぬ、完璧なスタート。


 ――同じ?


 いや。


 口角が、不敵に吊り上がる。


 違う。


 あの時よりも、速い。


 二年半。人々は、ノゾミが失われた肉体を取り戻すための時間だと思っていたはずだ。


 だが、違った。


 こいつは、自分たちの知るノゾミさえも超えるために、牙を研ぎ澄ましていたのだ。


「見せてやろうぜ、ノゾミ。俺たちの二年半を」


 三津は軽く手綱を握り直した。


 ーーーーーーーーーー


『1コーナーをカーブしました。先頭は、2年ぶりの復帰戦フッカツノネガイ!逃げます!!

 そして2番手にはしっかりビジョンコメコ!ビジョンコメコもしっかり折り合いがついています!!


 3番手は少し離れてサンショクダンゴ!武谷はどこで仕掛けるのか!?そして、ハナマンカイとホワイトフォース、そしてライジンショットは最後方に構えました!!有力馬が前と後ろに広がりました』


 ーーーーーーーーーー


 三津は額に汗を流しながら、ニヤリと笑った。


「全く・・・簡単じゃないな」


 当然だ。

 彼が引き連れているのは、猛者の群れなどという生易しいものではない。一頭一頭が、こちらの魂を喰らい尽くさんと牙を剥く、巨大な捕食者の群れだ。


 少しでも手綱を緩めれば即座に喰われる。


 そんな中、まるでこの獣の群れを率いているかのように、一際獰猛なオーラを放つ者がいた。


「まったく、センセーも意地が悪い。ガチで勝ちに来てるな。コメコ」


 ビジョンコメコ。


 かつて対峙した頃の、有り余る能力に振り回されていた面影はない。今の彼の瞳には、理性に裏打ちされた、燃えるような闘志が宿っていた。


 それはまるで、目の前にいる師であり友であるノゾミ、ただ一頭だけを追い落とすための炎。


「ヒンッ!!」


 嘶きが、宣戦布告のように響く。


 幼い弟分はもういない。ノゾミを超えんとする、一頭の好敵手がそこにいた。


 ーーーーーーーーーー


『ーまもなく1000mを通過します。先頭はフッッカツノネガイ。そしてすぐ後ろにマークする形でビジョンコメコと鍔迫り合いが続きます。


 両頭折り合いはついているように見えます。


 ・・・1000メートル通過しました。1000m・・・57秒!!早い!早い!!暮れの中山でそのタイムは速いぞ!!ここまで計算通りか、三津康生!?』


 ーーーーーーーーーー


 視界の端を、1000mの通過標識が猛烈な速度で後ろへ飛んでいく。


 三津は体内時計で瞬時に理解する。常軌を逸したハイペース。二年半前の自分なら、恐怖し、無理矢理にでも手綱を引いていただろう。


 だが、今の彼に焦りは微塵もなかった。


 手綱を通して伝わってくるノゾミの鼓動は、苦しみではなく、むしろ歓喜に満ちている。まだ行きたい、まだ足りないと、その魂が叫んでいる。


 これだ。


 二年半、他の馬で勝ち星を積み重ね、リーディングを争うまでに磨き上げたこの乗り方は、全てこの瞬間のためだった。馬の意志に全てを委ね、自らの肉体を完璧に同化する。


 これは暴走ではない。


 これこそが、フッカツノネガイという馬の、誰も知らなかった本当の姿なのだ。


「この姿のノゾミと俺は勝つ。

 これが俺がした。自分との約束だ。」


 ーーーーーーーーーー


『残り千メートルを切りました。おっと動き出しました!今日は早めだ!!ハナマンカイ!!ここから動き出さないと間に合わないと読んだか!一気に中団まで動いていきました!!


 そして先頭でも動きが、ビジョンコメコがフッカツノネガイに並走という形になりました。同厩舎の盟友が並走しています。

 しかし!?

 武谷動きました!!サンショクダンゴがスルスルと内を突いて・・・並んだ!並びました早くも三つ巴!先頭争いが激化しています!!』


 ーーーーーーーーーー


「っ!?」


 ビジョンコメコが来るのは想定のうちだった。だが、この馬までもがここで仕掛けてくるとは。それはわずかに空いた内を音も滑り込んできた。


「ブヒっ・・・」


 ノゾミの呼吸が、熱を帯びて重くなる。

 絶対的な信頼を置くこの相棒すら、すぐ隣を走る馬の圧にわずかな動揺を見せている。


 ――サンショクダンゴ。


 今年の天皇賞(秋)を勝ったのは知っている。

 だが、あのレースにはホワイトフォースもハナマンカイもいなかった。主要メンバーが揃わなければ勝てる。それくらいの評価だった。


 だが、違う。


 今、肌で感じるこの気迫は、そんな但し書き付きの強さなどでは断じてない。


 そうだ、この馬は俺の目の前で、武谷と共に二人三脚でずっと走り続けていた。

 芝の王道を外れ、泥に塗れてダートを走る姿も見てきた。

 あの時は迷走しているとさえ思った。


 二年半前に露呈していた「あと一歩」の差。

 それを埋めるためだけに、彼らはこれほどの時間を費やしてきたというのか。


 酸いも甘いも全ての経験を血肉に変え、最後のピースを埋めた。


 この馬を、この二人を、完全に見誤っていた。

 目の前にいるのは幸運な勝ち馬などではない。執念で頂点に登り詰めた、本物の王者だった。


「ヒン・・・!」


 挑戦的な嘶き。

 隣で燃える瞳が、射抜くように三津を捉える。2人は改めてその挑戦者を視界に収めた。


 ーーーーーーーーーー


『4コーナーを回ります。

 ここで動いたのがハナマンカイ!ジワジワと・・・いや一気に捲り切った!!遂に4頭が並ぶデッドヒートだ!!


 直線に入ります!!


 しかし!!


 来た!来た!!大外からライジンショット!!


 一気にスピードアップ!!すごい脚!!


 一気に飲み込んだ!!ライジンショット先頭だ!!


 これが新しい風だ!!!』


 ーーーーーーーーーー


 ライジンショット鞍上の若月八起は、口の端に笑みを浮かべた。

 展開、ペース、全てが読み通り。狙い通り、四コーナーを回り切って先頭に躍り出る。


 ――完璧だ。


 作り出したリードは僅か。だが、短い中山の直線ではこれが絶対的なアドバンテージになる。


 勝利を確信した、そのコンマ数秒後。


 空気が変わった。


 背後から、これまでとは明らかに質の違う地響きが迫る。一頭ではない。複数が束になった、巨大な轟音。


「は?」


 まず外から一頭が並びかけてくる。

 違う、一頭ではない。内から、外から、馬群を割って弾丸のように後続が殺到する。

 一頭、二頭、三頭――気づけば四頭の影に、完全に包囲されていた。


 抵抗など、意味をなさない。


 それはまるで巨大な奔流が小さな岩を飲み込み、ただ通り過ぎていくだけの自然現象のよう。


 まさに蹂躙だ。


「まだだ!まだ終わっていない!」


 若月の全身全霊が、相棒に「追え」と命じる。


 ライジンショットもそれに応えて走る。あのダービーを制した時以上の、これ以上ないという完璧な走りで。


 なのに、なぜ。


 目の前の光景が、まるで悪夢のように歪んでいく。


 追っているはずなのに、離される。


 手を伸ばしているはずなのに、突き放される。


 何かがバキッと音を立てた気がした。


 それは、才能という名の分厚い壁に、真正面から叩きつけられた音。

 それは、どれだけ努力しても、どれだけ完璧に走っても、決して越えられないと悟った瞬間の音。


 もう、追うべき背中ではなかった。遥か先で演じられるのは、自分たちのものではないレース。


 ただ、遠ざかる四つの背中が、まるで伝説の一場面のように目に焼き付いていた。


(・・・ああ、くそ)


 心の底から、悪態が漏れる。


「チクショウォォォ!!」


 鞭を握る指から、力は抜けていた。


 遥か先で四頭のバケモノたちが、互いの魂を喰らい合うように、最後の鎬を削っている。若月は、それを見つめた。


 ああ、そうだ。

 そこが、俺では届かなかった場所。ここに俺たちもいるはずだった。いやいたかった。


 悔しさで目の奥が熱くなる。

 だがそれ以上に、心が震えた。


「行けよ・・・」


 若月の唇が、声にならない声で震える。


(俺が、俺たちが行けなかった、その先へ)


(誰が一番強いのか、この目に焼き付けさせろ・・・!)


「最高のレースを見せてみろ、バケモノどもが・・・!」


 そう言って、若き才の有馬記念は残り250メートルで終わった。


 ーーーーーーーーーー


『ライジンショット早くも苦しい!後退!先頭は再び混戦模様!

 内でフッカツノネガイ!中にビジョンコメコ!外にハナマンカイ!さらにサンショクダンゴも食らいつく!!


 この4頭の叩き合いになった!ホワイトフォースは来ないのか!?』


 ーーーーーーーーーー


 4頭のそれぞれのプライドをかけて牙を剥く。一瞬でも気を抜けば、飲み込まれる。三津は必死にノゾミを鼓舞し、この地獄のような競り合いから抜け出そうともがいていた。

 だが、どの馬も譲らない。四頭の執念が絡み合い、誰もが抜け出せないまま、ゴールだけが刻一刻と迫ってくる。


 しかし、三津には確信があった。


 このまま、あの馬が来ないわけがない。


 彼は、まだ見ぬ最強の宿敵に向けて、挑戦的に呟いた。


「早く来いよ」


 その声に応えるかのように、場内がどよめいた。


 ーーーーーーーーーー


『きた!!大外から!!大外から白い稲妻!絶対王者、ホワイトフォース!!ものすごい脚だ!前まで6馬身5馬身・・・いや!?

 もう並んだ!?

 前の4頭に一気に並びました!!』


 ーーーーーーーーーー


 音もなく、白い幻影が隣に現れた。

 地を滑るかのような、あまりに優雅で、あまりに大きなストライド。


 ――ホワイトフォース。


 ターフを絶望の色に染め上げてきた、絶対的な末脚。その切れ味は、今日、最高潮に達している。


「ヒンッ・・・ヒンッ・・・」


 悲鳴を上げる心肺。軋む全身。

 ノゾミの肉体は、もう限界だと訴えている。


 だが、魂は別だった。


 手綱から馬の意志が流れ込んでくる。

 魂が歓喜に震えていることが分かる。そうか、この馬は、この瞬間を渇望していたのか。


 ならば行こう。



 そのために俺たちの二年半はあったんだ。



 ーーーーーーーーーー

 『さあ!残り200!!先頭は内で粘るフッカツノネガイ!食らいつくビジョンコメコ!!馬群を割ろうとするサンショクダンゴ!!外から女王ハナマンカイ!!そして大外ホワイトフォース、どれが抜け出す!?5頭が全く並んだ!!


 100mを切った!


 混戦だ!


 暮れのグランプリ、最終決戦!大混戦だッ!』


 ーーーーーーーーーー


 火花が散る。

 五つの魂が、ゴール板という唯一の座標を目指して、命を燃やしていた。

 王者も、女傑も、そこにはない。ただひたすらに、速さを求める競走馬の本能があるだけだ。


 だが、この輝きは、この舞台だけの占有物ではない。


 日本中の競馬場に、無数の蹄跡に刻まれたドラマがある。

 夏のローカルを駆ける若駒。雪のダートに挑む古豪。陽の当たらぬ未勝利戦で、それでも勝利を渇望し泥を跳ね上げる、名もなき者たち。


 そう、競馬に、負けていいレースなど一つもない。


 全ての馬が、誰かの願いを乗せ、己の誇りを懸けて、ただ一つのゴールを目指している。


 そして、ターフを去りし幾万の魂。その夢の残滓の上に、選ばれし者たちは立っている。


 故に、見せつける義務がある。


 この最高の舞台にふさわしい、最高のパフォーマンスを。

 中途半端な走りは許されない。魂の一滴まで絞り尽くすこと。

 それこそが、この舞台に立つ者の最低限の義務であり、最高の誇りなのだから。


 極限の果てに2頭が僅かに、僅かに前に出た。


 ーーーーーーーーーー

『さあ最後の直線、大外から、内から、各馬が脚を伸ばしてくる!


 大混戦だ!横に大きく広がった!誰が来るか、全くわからない!


 その馬群のど真ん中を割って、二頭が来た!

 来た!来た!来た!わずかに前に出た!


 ホワイトフォース! そしてフッカツノネガイ!


 クビの上げ下げ!まだ後ろも来ている!

 だがこの二頭!この二頭の叩き合いは!

 三年前の!あの伝説の有馬記念と全く同じだ!


 歴史は繰り返すのか!中山のターフで、再び奇跡が起きるのかーっ!!』



 ーーーーーーーーーー


 隣で、ロメロが鬼の形相で鞭を振るう。三津も、必死に手綱を動かす。まさに死闘だ。


 そんな中、ノゾミとホワイトフォースは少し違っていた。


 それは、遠い記憶の共鳴だった。

 初めてのはずだったダービーのパドックで、二頭が視線を交わしたあの時から。


 言葉はなくとも、理解していた。互いが、己の半身であり、越えるべき壁であることを。


 だから、これは死闘でありながら、歓喜なのだ。

 長い旅路の果てに、約束の場所で、最高の好敵手と再び出会えたことへの、全身全霊の祝福。


 二頭の天才は、苦痛ではなく、まるで互いの存在を確かめ合うように、歓びのままに走っているようにさえ見えた。


 ーーーーーーーーーー


『さあ、叩き合い!壮絶な叩き合い!

 ホワイトフォース!フッカツノネガイ!

 二頭、全くの併せ馬!


 またも、あの同着に・・・


 いや、違う!


 フッカツノネガイだ!

 フッカツノネガイが、僅かに、クビ一つ前に出た!


 絶対王者ホワイトフォース、これを許すのか!

 ロメロ必死に追う!


 だが、先頭は僅かに


 しかし確かにフッカツノネガイだ!』


 ーーーーーーーーーー


 肺が張り裂けそうだ。腕は、もう感覚がない。

 なのに、腹の底から笑い出しそうなくらい、この瞬間が楽しい。

 誰よりも早くゴールしたいのに、この地獄が永遠に続けばいいとさえ願ってしまう。


 矛盾だらけの感情が、思考を焼き切っていく。


 何万という大観衆の絶叫が遠のき、風の音が消える。ターフを叩く地響きだけが、腹の底に響く。


 聞こえるのは、隣を走るホワイトフォースの荒い息遣いと、鞍上のロメロが歯を食いしばる音。


 そして、自分たちの心臓の鼓動だけ。


 もう、三津とノゾミの境目はない。


 手綱を通して、互いの全てが流れ込んでくる。ノゾミの苦痛は三津の苦痛に、三津の闘志はノゾミの闘志に。


 一つの魂、一つの意志となって、ただ前だけを見据える。


 小細工も、駆け引きも、ここにはない。


 ただ、純粋な力と力が、魂と魂が、火花を散らすだけの世界。


 どちらも譲らない。どちらも引かない。完璧な均衡が、一瞬の永遠を生み出していた。


 その均衡を、破る。


 その魂の全てを、最後の一歩に乗せるために。


 そして自分たちの二年半の、その全てを懸けて、三津は一度だけ鞭を振るった。


「行けェェェッ、ノゾミィィィィッ!!」

「ヒィィィィンッ!!」


 声に応え、相棒が最後の最後の力を振り絞る。

 二つの光が、未来を掴むように、ほとんど同時にゴール板を駆け抜けていった。


 ーーーーーーーーーー


『二つの魂が、一つに溶け合うようにゴールへ向かう!


 勝敗を分けるのは、何か! 技術か、力か!


 いや、背負った想いの差か!



 僅かに、しかし、確かに届いた!



 その名に宿した、全ての祈りを力に変えて!



 フッカツノネガイだ!!



 ターフに奇跡は咲いた!


 三年越しの願い、今、ここに成就!


 これが、これがフッカツノネガイ! 復活のゴールです!』


 ーーーーーーーーーー


  爆発する歓声は、いつしか神々の喝采のように聞こえていた。

 スローモーションになった世界が、西日に照らされて黄金色に輝く。

 その光の中心で、三津はそっと、相棒の濡れた首筋に額を寄せた。


「ハァ・・・ハァ・・・」


 万感の想いを込めて、彼はただ一言だけを問いかける。

 永い旅路の、最後に。


「ノゾミ。走るのは、好きか?」


 汗と涙で濡れた頬に、誇りに満ちた相棒の息遣いが触れる。

 そして、天に届けとばかりに、高らかな嘶きが放たれた。


「ヒンッ!!」


 それは、勝者だけが発することを許された、誇り高き凱歌。


 走るために生まれ、走るために生きてきた。

 この瞬間のために、俺の全てはあったのだと。


 勝者の凱歌は、己の存在理由そのものを高らかに宣言する、生命の歌だった。

 暮れの中山に、いつまでも、その声は響いていた。



 消えた天才《フッカツノネガイと呼ばれた競走馬》完

これにて、完結とさせていただきます。最後に、楽しんで読んで頂けたのなら評価していただけると幸いです。

ご愛読ありがとうございました。

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― 新着の感想 ―
完結おめでとうございます。 年明けから追いかけてきた小説のフィナーレを見届けられて本当によかったです。お疲れさまでした。 最後の競り合いの描写に感動するとともに、「競馬に、負けていいレースなど一つも…
完結おめでとう御座います。 最終話まで、楽しく読ませていただきました。 私は競馬をしたことありませんが、読んでいてとても面白かったです。 お疲れ様でした。
感想一覧
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