28-4 みんなの願い
次回最終話となる予定です。8/22に投稿予定です。
レース開始まで、あと数分。馬券販売の締切を告げる無機質なベルの音が止むと、十万を超える観衆の熱狂は、逆に密度を増して場内を支配した。
本馬場入場と返し馬を終え、いよいよ各馬がゲート裏へと集まってくる。これから鳴り響くファンファーレと、それに続く緊迫のゲートインを前に、地鳴りのような歓声がスタンドを揺らし、空気そのものが期待に震えていた。
だが、そのすさまじい喧騒のただ中で、ある者たちの世界は、不思議なほどの静寂に包まれていた。
熱狂は、祈りへ。声援は、願いへ。それぞれの想いが、ただ一頭の馬へと向かう。
グランドスタンドの片隅で、少女は胸に抱いたスケッチブックの表紙を、震える指でそっと撫でた。
――その走りが、誰よりも美しい芸術であれ、と。
遠く離れた町の公民館では、あれほど騒がしかった祭りの喧騒が嘘のように静まり返り、そこにいる誰もが画面の一点だけを睨みつけていた。
――元気な走りを、俺たちに見せてくれ、と。
静かな診察室で、女医はパソコンからそっと手を離し、背筋を伸ばした。そしてモニターの向こうの奇跡と、ただ真っ直ぐに、静かに向き合う。
――その脚で掴み取った未来を、思う存分に駆け抜けて、と。
馬主席の最前列、二人の男は同じ一点を見つめていた。
牧場の長である男は、背筋を伸ばし、固く握りしめた拳を膝に置く。我が子を戦場に送り出す父親のような、厳粛な祈りだった。
ーー無事に、必ずこの場所へ戻ってこい、と。
その隣で、産まれた時から彼を知る男は、穏やかに腕を組み、微笑みさえ浮かべていた。誰よりも馬の心を信じる、兄のような眼差しだった。
ーーお前の思うままに、誰よりも楽しく走ってこい、と。
ガラス張りの関係者席で、元調教師の男は身じろぎもせず、ただ真っ直ぐにゲートへと向かう馬群だけを見つめていた。
ーーお前の持つ、その気高いまでの強さを、ただ解き放て、と。
ターフへと向かう馬を最後に見送ったラチ沿いで、若き調教師はスタッフと共に、強く、強く拳を握りしめていた。
ーー俺たちの想像も、常識も、歴史さえも、すべて超えていけ、と。
いくつもの場所から生まれた、いくつもの願い。そのすべてが、目に見えない一本の光の糸となり、ゲートの中、ただ一人の男の背中へと収束していく。
その重みを確かに感じながら、鞍上の男は、ただ一頭の相棒にだけ聞こえるように、静かに、しかし力強く言った。
あの日の約束を、今ここで果たそう
と。
ファンファーレが聞こえてくる。
世界が、息を止める。
運命のゲートが、今、開く。




