表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
104/109

28-4 みんなの願い

次回最終話となる予定です。8/22に投稿予定です。

 レース開始まで、あと数分。馬券販売の締切を告げる無機質なベルの音が止むと、十万を超える観衆の熱狂は、逆に密度を増して場内を支配した。


 本馬場入場と返し馬を終え、いよいよ各馬がゲート裏へと集まってくる。これから鳴り響くファンファーレと、それに続く緊迫のゲートインを前に、地鳴りのような歓声がスタンドを揺らし、空気そのものが期待に震えていた。


 だが、そのすさまじい喧騒のただ中で、ある者たちの世界は、不思議なほどの静寂に包まれていた。


 熱狂は、祈りへ。声援は、願いへ。それぞれの想いが、ただ一頭の馬へと向かう。



 グランドスタンドの片隅で、少女は胸に抱いたスケッチブックの表紙を、震える指でそっと撫でた。


 ――その走りが、誰よりも美しい芸術であれ、と。



 遠く離れた町の公民館では、あれほど騒がしかった祭りの喧騒が嘘のように静まり返り、そこにいる誰もが画面の一点だけを睨みつけていた。


 ――元気な走りを、俺たちに見せてくれ、と。



 静かな診察室で、女医はパソコンからそっと手を離し、背筋を伸ばした。そしてモニターの向こうの奇跡と、ただ真っ直ぐに、静かに向き合う。


 ――その脚で掴み取った未来を、思う存分に駆け抜けて、と。



 馬主席の最前列、二人の男は同じ一点を見つめていた。


 牧場の長である男は、背筋を伸ばし、固く握りしめた拳を膝に置く。我が子を戦場に送り出す父親のような、厳粛な祈りだった。


 ーー無事に、必ずこの場所へ戻ってこい、と。



 その隣で、産まれた時から彼を知る男は、穏やかに腕を組み、微笑みさえ浮かべていた。誰よりも馬の心を信じる、兄のような眼差しだった。


 ーーお前の思うままに、誰よりも楽しく走ってこい、と。



 ガラス張りの関係者席で、元調教師の男は身じろぎもせず、ただ真っ直ぐにゲートへと向かう馬群だけを見つめていた。


 ーーお前の持つ、その気高いまでの強さを、ただ解き放て、と。



 ターフへと向かう馬を最後に見送ったラチ沿いで、若き調教師はスタッフと共に、強く、強く拳を握りしめていた。


 ーー俺たちの想像も、常識も、歴史さえも、すべて超えていけ、と。



 いくつもの場所から生まれた、いくつもの願い。そのすべてが、目に見えない一本の光の糸となり、ゲートの中、ただ一人の男の背中へと収束していく。


 その重みを確かに感じながら、鞍上の男は、ただ一頭の相棒にだけ聞こえるように、静かに、しかし力強く言った。


 あの日の約束を、今ここで果たそう


 と。


 ファンファーレが聞こえてくる。


 世界が、息を止める。


 運命のゲートが、今、開く。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ