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28-2 みんなの願い

 吹き付ける風がひときわ鋭く肌を刺す、パドック裏の通路。その片隅で、男は一人、凍てつく鉄の手すりに痩せた身を預け、階下の熱狂を万感の想いで見下ろしていた。地鳴りのように響く歓声と、鼻を突く湿った土の匂い。その全てが、彼を孤独の淵へと追いやるようだった。


「よお、クニモト。特等席、取っといてやったぞ」


 静かな、それでいて芯の通った声に、男――クニモトはゆっくりと振り返った。そこに立っていたのは、呆れと労りをない交ぜにしたような顔をした長年の盟友、高柳だった。


「・・・ああ。悪いな」

「ったく。俺なんかに頼まなくても、アイツに一言『入れてくれ』って言やあ、尻尾振って貴賓席に案内するだろうに」


 高柳はわざと軽口を叩きながら隣に並ぶと、温かい缶コーヒーを無言で押し付けた。じんわりと伝わる熱が、かじかんだ指先だけでなく、強張った心まで解かしていく。


「イマナミのことか」

「他に誰がいるんだよ」


 クニモトは曖昧に笑って頷くと、再び階下へと視線を戻した。パドックを周回する人馬の群れ。その中心に、かつての愛馬コメコと、そして奇跡の復活を遂げたノゾミの姿があった。


「顔、見せてやらんのか。お前のことだ、どうせまともに話もしてないんだろ」

「・・・ああ」

「意地っ張りめ」


 高柳は短く息を吐いた。その声には、非難よりも深い理解が滲んでいる。


「・・・見ろよ、高柳」


 クニモトは、階下を指指した。その先には、イマナミやサカイをはじめとする、かつての仲間たちの姿があった。


「イマナミがいて、それをサカイがサポートし、スタッフたちも下支えして、そしてなにより、最高の馬たちがいる。・・・もう、俺の出る幕なんてない、立派な一つのチームじゃねえか」


 その声は、寂しさよりも、紛れもない誇りに満ちていた。


「俺なんかが今さらしゃしゃり出たって、あいつらの歯車を狂わせるだけだ。俺が入るべき隙間も、その必要も、どこにもねえ」

「・・・そうか」


 そう言うクニモトの横顔は、憑き物が落ちたように晴れやかだった。だが高柳は、その無理して作った笑顔の奥に、捨てきれぬ父性のような未練が澱んでいることを見逃さなかった。


「・・・まあ、お前の言い分は分かった。だがな、クニモト。一つだけ、これだけは言っておく」

「・・・なんだ」

「看板がどうとか、どっちの厩舎だとか、そんなもんはな、俺たちみてえな老いぼれの感傷でしかねえんだよ。あいつらは、ノゾミもコメコも――国本厩舎と今浪厩舎の馬だ。お前が夢見て、アイツが受け継いで、ここまで来た。お前は、何一つ恥じることなく、胸を張っていい」


 その言葉は、杭のようにクニモトの胸を貫いた。息が、止まる。高柳は、そんな旧友の肩を一度だけ、強く、無骨な手で叩いた。


「じゃあな。せいぜい目に焼き付けていけよ。お前の夢の、その続きをな」


 それだけを言い残し、高柳は室内へとその背を溶かしていく。まるで、己の役目は終わったとでも言うように。

 一人残された通路で、クニモトは階下の喧騒を遠くに聞いていた。高柳の最後の言葉が、錆びついた心の中で何度も、何度も反響する。


(国本厩舎と、今浪厩舎の馬・・・か)


 その言葉を、まるで宝物のようにゆっくりと噛み締めた瞬間、ふっと、固く閉ざされていた何かが、音を立てて溶けていくのを感じた。そうだ。これは自分が終わらせた物語なんかじゃない。俺たちが命を燃やして始め、イマナミが魂を懸けて受け継いだ、まだ終わらない物語の、続きなんだ。


 いつの間にか、クニモトの口元には、心の底からの笑みが浮かんでいた。彼は改めて、パドックを周回する者たちへ、誇りに満ちた視線を注いだ。


 ひたむきに歩き続ける、もう一頭の愛馬、コメコ。


 昔と変わらぬ実直さで馬と向き合う、最高の右腕だった男、サカイ。


 そして、己の全てを託し、今や一人の調教師として堂々とそこに立つ、イマナミ。


 変わったものと、変わらないもの。その全てが、たまらなく愛おしかった。


 そして――。


 彼の視線は、ひときわ強い輝きを放つ漆黒の馬体へと吸い寄せられる。全ての想いは、ただ一点、そこに集約されていく。


 その馬は、彼の輝かしいキャリアに唯一残された、深い、深い心残りだった。


(ノゾミ・・・)


 才能だけでは超えられない壁がある。この身を削り、嫌というほど味わってきたこの世界の非情さだ。これまで何頭もの優駿が、その壁の前で夢破れ、ターフを去っていくのを見てきた。


 だから、あの日の大阪杯の後、お前もまた、その一頭になるのだと・・・そう、覚悟した。あれが俺たちの最善だったと何度自分に言い聞かせても、お前の未来を一度は閉ざしてしまったという悔恨だけが、棘のようにずっと胸に突き刺さっていた。


 だが、お前は――。


 クニモトは目の前の奇跡を、ただ見つめた。


 お前は、俺の感傷も、競馬の常識も、運命さえも、すべてを覆して此処に帰ってきた。


 そうだ。


 お前をこの場所へ連れ戻したのは、奇跡などという不確かなものではない。


 お前自身の、不屈の魂だ。


 お前は速いだけではない。

 強い。そう強いのだ。


 込み上げる熱い想いを、凍てつく空気を震わせる最後の一言に込める。


「行け、ノゾミ。お前の魂が望むままに、ただ、誰よりも――強く、あれ」



 ーーーーーーーーーー


 階下の熱気の只中、パドックの柵沿いにもまた、たった一頭の馬だけをその目に焼き付ける男たちがいた。

 ケイゾーと、アオキである。


「・・・なぁ、アオキ」


 ケイゾーは、階下のノゾミから目を逸らさぬまま、低く、絞り出すような声で言った。


「はい、ケイゾーさん」

「ノゾミは・・・無事に、帰ってくるだろうか」

「はぁー?今さら何言ってるんですか?」

「いや、今ふとそう思ってな・・・」


 それは、百戦錬磨のホースマンである彼が、滅多に見せることのない種類の感情の揺らぎだった。

 アオキは、その声に含まれた重みを静かに受け止めると、穏やかに、しかしはっきりとした口調で答えた。


「心配要らないですよ」

「・・・」

「大丈夫です」


 アオキは、パドックを歩くノゾミを真っ直ぐに見つめて続けた。


「心配になるお気持ちは、痛いほど分かります。

 でも、あいつはもう、俺たちが守ってやるような存在じゃない。あの地獄から、自分の力で這い上がってきたんです。その魂の強さを、俺たちは一番近くで見てきたじゃないですか」


 アオキの静かな、しかし絶対の確信を宿した言葉が、ケイゾーの胸の内に重く垂れ込めていた澱を、ゆっくりと溶かしていく。彼はもう一度、ノゾミの姿を瞳に焼き付けた。


 そこにいたのは、人々が物語を重ねる悲劇の馬でも、絶望的な怪我を乗り越えた奇跡の偶像でもない。

 喧騒の中にあってなお、ただ純粋に、走るという宿命を愛し、その瞬間を待ち望む、一頭のサラブレッドだった。


 ケイゾーは、長く、深く息を吐いた。まるで、胸の内にあった最後の不安まで、すべてを吐き出すかのように。そして、いつもの力強い光が、その瞳に戻っていた。


「・・・ああ。その通りだ。お前の言う通りだったな」

「はい」


 アオキは静かに、そして誇らしげに頷いた。


「俺たちに、もう祈りは必要ありません。ただ、信じて見守りましょう。あいつがその脚で掴み取る、俺たちの夢の続きを」

「・・・そうだな。あいつが俺たちに見せてくれる、夢の続きを」


 ケイゾーは力強く頷いた。言葉は、もはや不要だった。二人はただ、これから戦場へと向かう、誇らしく、そして愛しい我が子へ、エールを送る。


「行け、ノゾミ。そして必ず、ウチに帰ってこい」


 ケイゾーは、父親が息子に語りかけるように、そう呟いた。


「行け、ノゾミ。お前の思うままに、ただ、楽しく走ってこい」


 アオキは、一番の親友を送り出すように、そう言って晴れやかな笑みを浮かべた。


 ーーーーーーーーーー


 びっしりと埋まった大観衆の視線が突き刺さる、中山競馬場のパドック。その喧騒の中心で、イマナミ厩舎のスタッフは、二頭の競走馬と共に静かな戦いを始めていた。


「サカイさん、コメコは?」


 コメコを引くサカイに、イマナミが小走りで近づき、声を潜めて尋ねる。


「昨日と変わりない。落ち着いてるよ。大幅な距離延長がどう出るかだが・・・あとは戸中ジョッキーの手腕次第だな。そっちは? ノゾミは」


 サカイは、少し離れた場所で威風堂々と周回する漆黒の馬体に、鋭い視線を送った。


「こちらも。一点の曇りもありません。完璧です」


 イマナミは、自信に満ちた声で言い切った。


「・・・そうか」


 サカイが短く応えると、二人の間に一瞬、張り詰めた沈黙が落ちる。万を超える観客のざわめきが、まるで遠い世界の音のように聞こえた。


「・・・ここまで、来ましたね」


 イマナミが、万感の想いを込めて呟いた。


「ああ。俺たちがやれることは、すべてやった」


 サカイは深く頷く。


「あとは、三津ジョッキーと戸中ジョッキーに、俺たちの夢を託すだけだ」


 そう言ってから、まるで自分に言い聞かせるように付け加える。


「・・・まあ、ゲートが開くまでは、気は抜けないがな」


 その、胃が締め付けられるような緊張感を、隣で聞いていたイマナミが、ふっと笑い声で破った。


「俺、楽しみで仕方ないんですよ」


 サカイは、驚いて若き上司の顔を見る。イマナミは、子供のように瞳を輝かせていた。


「コメコが、この大舞台で初めての距離をどう乗り越えるのか。

 そして、ノゾミが――俺たちの想像を、常識を、どれだけ遥かに超えていってくれるのか」


 その屈託のない笑顔に、サカイの眉間の皺が、知らず知らずのうちに解けていく。


「・・・ったく、センセーは大物だな。こっちは、もう何本胃薬を飲んだか分からねえってのによ」


 サカイは呆れたように首を振った。だが、その口元には、確かな笑みが浮かんでいる。彼は、二頭の愛馬を慈しむように見つめた。


「・・・だが、まあ。センセーの言う通りだな。楽しみには、違いねえな」

「ええ」


 サカイの言葉に、イマナミは深く頷いた。

 いつしかコメコや周りの喧騒が意識から消え、その視線は、ただ一頭、漆黒の馬体――ノゾミにむいていた。


 しなやかに波打つ筋肉。静かに闘志を湛える瞳。吐き出す白い息の一つ一つにさえ、圧倒的な生命力が満ち溢れている。


 その神々しいまでの姿を見つめていると、これまでのことが思い出させる。

 手に負えない気性にあきらめかけた調教の日々。栄光のダービーで、師と抱き合ったあの日の熱狂。己のトラウマを打ち破ってくれた感動。そして――光から突き落とされた、あの日の絶望。獣医の非情な宣告の中でも、決して消えることのなかった、走りへの渇望。


 そうだ。俺の人生は、この馬と出会い、もう一度始まった。


 この馬がいたから、俺は今ここにいる。


 俺の夢も、意地も、後悔も、その全てが、この馬と共にあるのだ。

 込み上げる熱に、思わず息を飲む。胸の鼓動が、うるさいほどに耳朶を打った。


 もう祈りではない。これは、確信だ。


 イマナミは、震えるほどの想いのすべてを、魂の叫びに変えて解き放った。


「行って来い。そして見せてみろ、ノゾミ。お前という奇跡が、俺たちの想像を、そして競馬の常識さえも超えていく瞬間を」


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