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28-1 みんなの願い

 中山競馬場


 ゲートをくぐった瞬間、肌を粟立たせる冬の冷気と、それを溶かすほどの凄まじい熱気が里奈の全身を包んだ。地鳴りのような歓声、無数の足音、そして遠くから微かに聞こえるファンファーレの音色。

 3年ぶりに吸い込むその空気は、一瞬で、あの日の記憶を呼び覚ました。


「来た・・・!遂に、来たよ、お母さん! 有馬記念・・・!」


 指定席にたどり着き、眼下に広がる緑のターフを見下ろす。この景色を見るのも、3年ぶりだ。

 メインレースまではまだ時間がある。それなのに、逸る心臓が肋骨を内側から叩いていた。すぐ目の前で繰り広げられているはずのレースも、その歓声さえも、まるで分厚いガラスを隔てた向こう側の出来事のようだった。


「あなたがそんなにそわそわしている顔、久しぶりに見たわ」


 母親が、どこか懐かしそうに言う。


「・・・うん。だって、今日は・・・絶対に、来なくちゃいけない日だったから」


 膝の上で、ぎゅっと握りしめたカバンの重みが、二年半という祈りの長さを物語っていた。中には、彼女の時間のすべてを注ぎ込んだ、何冊ものスケッチブックが眠っている。どのページを開いても、そこに描かれているのはたったひとつの栄光の場面。――二年半前、他の追随を許さず、絶対的な強さでゴール板を駆け抜けた、あの輝きの瞬間。


 それは、彼のキャリアの頂点だった。神々しいまでの走りは、今見ても胸が震える。


 しかし、彼女にとって、その絵は祝福であると同時に、呪いでもあった。ページをめくる指は、いつもあの瞬間の割れんばかりの歓声と、その直後に世界から音が消えたかのような、悪夢の静寂を思い出してしまうからだ。彼女の絵は、最高の瞬間のまま、悲劇の入り口で立ち尽くしていた。


 だから、今日ここに来たのだ。


 あの日の栄光を、悲しい記憶のまま封印しないために。あなたの物語が、あの日で終わりじゃないと証明するために。


 二年半待ち続けたこの約束の場所で、もう一度、光の中を駆けるあなたの姿をこの目に焼き付ける。そして、あの日の絵の隣に、今日という新しい輝きのページを描き加える。


 悲劇の記憶を乗り越えた、本当の笑顔のあなたを。


 私の絵を、そしてあなたの物語を、真のハッピーエンドで完成させるために。


 吹き抜ける風が、里奈の髪を優しく揺らす。彼女は、まだ姿の見えない約束の相手に向かって、そっと心の中で呼びかけた。


 ノゾミ。

 会いに来たよ。


 ーーーーーーーーーー


 その頃、河合牧場から少し離れた街の公民館は、さながら祭りのような熱気に包まれていた。壁には『祝・復活!フッカツノネガイ号!』と書かれた手作りの横断幕。長机には、肉屋の女将が持ち込んだ大皿の唐揚げや、耕作が持ってきた果物が山と積まれ、すでにビールの栓を開ける景気のいい音も聞こえてくる。


 テレビでは朝から競馬専門チャンネルがつけられ、解説者たちが難しい顔でレースを分析している。


「よお、盛り上がってるな!」


 八百屋の耕作が、店の前掛けをしたまま笑いながら入ってくる。


「当たり前だろ!それよりあんた店はどうしたんだい!?」


 肉屋の女が威勢よく返す。


「はっ、こんな日に店開けてられるか! どうせ客なんか来やしねえよ。なんたって今日は、町内あげてのお祭りだからな!」


 耕作はテレビを指さして、からりと笑った。


「解説の先生方は色々言ってるが、わかってねえんだよ。俺たちは、あいつが歯ぁ食いしばってリハビリしてたのを、ずっと見てきたんだからな!」

「そうだとも」


 威勢のいい耕作の声に重なるように、穏やかで、しかし芯のある声が響いた。皆が振り返ると、入り口に澤井が静かに佇んでいる。


「俺たちは知っている。泥水すすって、それでも立ち上がろうとするあいつの本当の強さをな」


 かつて馬産に携わった男の重みのある言葉は、皆のわずかな不安を吹き飛ばし、祭りの熱気をさらに燃え上がらせるのに十分だった。


「そうだ!」「澤井さんの言う通りだ!」「もう一本ビール持ってこい!」


 公民館のボルテージは最高潮に達し、あちこちで景気のいい声が飛び交う。耕作は、その喧騒の中心で馬鹿騒ぎをする仲間たちの姿を、少しだけ離れた場所から目を細めて見ていた。誰もが、心の底から笑っている。


 その光景がどうしようもなく胸に込み上げてきて、いつの間にか隣に並んでいた肉屋の女に、ぽつりと呟いた。


「なあ、由恵・・・。こうやってみんなでバカ騒ぎしてると、色々あったのが嘘みたいだな」

「ほんとね・・・」


 肉屋の女はジョッキを呷り、からりと笑った。


「まあ、大変だったけど、あたしたちはしぶといからね!それに、あの子が頑張ってるって聞けば、こっちももっと頑張れるってもんよ。おかげで、毎日が楽しくてしょうがない!」

「・・・ああ、まったくだ!」


 耕作は深く頷く。そして笑った。

 そうだ。過去を振り返るんじゃない。俺たちは、あいつと共に、今を、そして未来を走っているんだ。


「ほら、耕作!」


 肉屋の女が、その背中を威勢よくポンと叩いた。


「あんたが音頭取らなきゃ始まらないだろ! 私たちの希望の星に、でっかいエールを送ってやんな!」

「おう、任せとけ!」


 耕作はニヤリと笑うと、公民館の真ん中に進み出て、全員に響き渡る声で叫んだ。


「みんな、聞いてくれ! 今日は、俺たちの仲間の新しい門出だ! 思いっきり、この祭りを楽しんでやろうぜ!」

「「「おう!!」」」


 耕作の檄に、公民館の全員が突き上げた拳で応える。

 その瞬間、テレビの画面が中山競馬場の生中継に切り替わった。鬱蒼とした木々の間から、誇らしげに歩く漆黒の馬体が現れる。

 割れんばかりの歓声と拍手が、公民館を揺らした。


 ーーーーーーーーーー


 診察室のデスクで、神埼はいつものようにレントゲン写真と向き合っていたが、その視線は焦点を結んでいなかった。

 彼女が見つめているのは、壁に飾られた一枚の写真。二度の手術を乗り越え、退院する日に撮った、フッカツノネガイと、少し疲れた顔で、それでも誇らしげに微笑む自分と高田の姿だった。


「いよいよ、この時間ですね」


 高田がそっと淹れたコーヒーをデスクに置きながら、静かに言った。神埼は「ええ、そうね」と短く応える。


「あーあ、見たかったです、生で! よりによって、なんで今日に限ってオペが長引くんですかねぇ・・・」


 がっくりと肩を落とす高田に、神埼はくすりと笑った。


「仕方ないでしょ。私たちにとっては、目の前の命が最優先。それが私たちの仕事よ」

「いや、確かにそうですけど・・・」


 本心から悔しそうに項垂れる高田を見て、神埼はふっと微笑んだ。


「いいじゃない、ここで。ここが、私たちだけの特等席よ」


 手術室ではない。ターフでもない。幾多の命と向き合い続けてきたこの診察室こそが、二人の物語の始まりの場所だった。


「・・・そう、ですね」


 高田は納得したように頷くと、リモコンを手に取った。


「では、特等席で、世紀の瞬間を見届けましょうか」


 彼がスイッチを入れると、小さなテレビに、中山競馬場の熱狂が映し出された。びっしりと埋まった大観衆のざわめきが、静かな診察室に流れ込み、空気が一変する。


 画面には、大勢のファンが固唾をのんで見守るパドックが映っていた。その喧騒の中心を、一頭の漆黒の馬体が映し出していた。


 神埼は息を詰めて、画面の中の半年ぶりの彼を見つめた。


 まずは、歩様。滑らかに芝を踏む四肢の動き。特に、かつて粉砕骨折した右後脚の踏み込みには、ブレも躊躇も見られない。それどころか、地面を抉るかのような力強さは、怪我以前の彼をも凌駕しているようにも感じる。

 そして背中からトモにかけて、流れるように隆起する筋肉のラインは、アスリートとしてこれ以上ないほどの完成度を示していた。

 神埼の胸中に、一つの確信が静かに満ちていく。医学的にだけではない。競走馬として、フッカツノネガイは完全に、あの頃の自身を超越している、と


 フッカツノネガイ。二年半の時を経て、彼は再び、この場所に帰ってきたのだ。


「・・・先生は、緊張しますか?」


 高田の問いに、神埼はノゾミの馬体の分析をやめ、絶対的な確信を込めた、悪戯っぽい笑みを浮かべた。


「いいえ。むしろ、ワクワクするわ」


 彼女は、まるで我が子の晴れ舞台を見守る母親のように、誇らしげに、そして全ての祈りを込めて、テレビの向こうの天才に囁いた。


「行ってらっしゃい、ノゾミ。

 そして、あなたがその脚で掴み取った未来を・・・思う存分、楽しんできなさい」


 その言葉と共に、神埼は二年半もの間、張り詰めていた細い糸が、ふっと緩むのを感じた。そっと息を吐き、深く、深く椅子に身を沈める。やるべきことは、すべてやった。彼女の口元には穏やかな笑みが浮かび、その瞳は、モニターの中で誇らしげに歩む彼の姿を、ただただ慈しむように見守っていた。

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