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0-1 日常の崩壊

よろしくお願いします。

 現代競馬において、血統とは宿命にも似た、抗えぬ力である。父の偉業、母の血脈、兄弟の栄光。それらは全て、未来を駆ける駿馬の価値を、否応なく左右する。人々は言う。「両親が偉大だから」「兄弟が優秀だから」。その言葉は、期待と羨望を孕み、若駒の価値を天井知らずに押し上げる。

 そして、選ばれし血統、未来を約束された駿馬は、特別な名で呼ばれる。


 『名血』と。


 その夜明け前、古びた馬房に佇む一頭の馬もまた、そう呼ばれるべき存在だった。


「おはよー。アオキ。どうだー?ノゾミは?相変わらず朝早いなその馬は。」


 古びた馬房に人影が2つと馬影1つ。吐く息は白く、寒さが身に染みる。河合牧場の主、河合敬三は、ホッカイロで冷えた手を温めながら、従業員に声をかけた。馬産に生きる者たちの朝は早い。まだ時計は3時を指し、空には星が残っている。

 古びた馬房は、長年の風雨に晒され、壁には無数のひび割れが走り、屋根のトタンは錆び付いて赤茶色に変色していた。しかし、清掃が行き届いた馬房の中は、藁の香りと馬の体温が混ざり合い、独特の温かい空気が漂っていた。


「ケイゾーさん。おはようございます」


 アオキと呼ばれた男は振り返って、馬のブラッシングを止める。そして笑みを浮かべて言った。


「いいっすよ。バネもいいですし、馬体も順調に成長しています。走らせたら他の1歳馬と相手にならない。そして何より」


 アオキは馬の頬に自分の頬をくっつけながら満面の笑みを浮かべた。


「可愛いんすよね」



 その馬は完璧だった。


 名前はノゾミ。


 黒曜石のような光沢を放つ漆黒の馬体。その身長は高く、筋肉質な体は力強さとしなやかさを兼ね備えている。


 首は長く、優雅に曲線を描き、風を切るように伸びる。肩から背中にかけては、まるで彫刻家が丁寧に彫り上げたかのように完璧なラインを形成している。競馬を少しでもかじったことのある人が一目見れば、「走りそう」と口をそろえるほどだ。


「可愛い・・・ね」


 そのアオキの緩み切った表情にケイゾーは苦笑いを浮かべる。一方、アオキに頬ずりされてる馬は傍迷惑そうな表情を浮かべていた。。


「そんなことすると、やられるぞ」

「え、」


 アオキの間抜けな声とともに、ノゾミと呼ばれる馬はアオキに蹴りを入れた。スネに。

「いっ!?」という言葉にならない悲鳴と共に膝を抱えてその場にうずくまり、痛みの波が引くのを待つ。そしてノゾミをキッと睨みつける


「やりやがったな!!」

「ブヒヒヒヒ」


 涙目で抗議するアオキを馬鹿にするようか表情でノゾミは笑う。むろんノゾミは全力で蹴ったわけではない。ノゾミが本気で蹴りを入れれば、アオキの脚はアザなどでは済まず、砕けてしまっていただろう。


 いつもの光景にため息をつくケイゾーだが、平和な光景に少しだけ笑みも浮かべていた。


「本当に仲いいなお前ら。だが、あともうちょいでセールなんだ。売れるように仕上げてくれよー」


 ケイゾーはノゾミを撫でながら言う。ケイゾーの言葉にアオキは不満そうな顔をして言った。


「えーケイゾーさん。本当に売っちゃうんですか?こいつ絶対走りますよ、こいつ。ほら大手の牧場はやってる、オーナーブリーダーってやつ。それやりましょうよー。ケイゾーさんも一応馬主資格持っているんでしょ?」

「バカヤロー。そんな金ねぇーよ。今持ってる一歳の3頭売れなきゃウチは倒産だ」


 アオキの無茶な要求に、ケイゾーは、ため息をつきながらNOを突きつける。


「だからキズナなんか、滅茶苦茶高い馬をつけるのはよしたほうがいいって言ったんですよ。それで奥さんにもコッテリ絞られたんでしょ?」


 【キズナ】。

 その馬は、2013年の日本ダービーを制覇。その爆発的な末脚は、観る者すべてを魅了した。海外レースでも活躍し、その名を世界に轟かせた。短くも鮮烈な競走生活。その走りは、まるで疾風のよう。誰も追いつくことのできない、圧倒的なスピード兼ね備えた彼は競馬史に永遠に刻まれるだろう。まさに伝説の名馬である。

 そして種牡馬になった現在でも、重賞馬やG1馬を多数送り出しており、種牡馬としての価値も急上昇した。そして今では種付け料が1回2000万円という、とてつもない金額になっていた。


 そんな馬に、自分の牧場で生産されたローズステークスを勝った重賞馬を掛け合わせる。馬産を携わるものだったら誰もが心躍るだろう。実際ケイゾーも熱に浮かされてやってしまった感は否めない。


「それを言うんじゃねー。今でもたまにぐちぐち言われてるんだよ」

「あはは!!そりゃーそうですよ!!」

「フヒヒヒっ!!!」


 苦い顔を見せるケイゾーにアオキは手を叩いて笑い、ノゾミも地面に脚を叩きながら笑っていた。


「とにかく!!俺にオーナーやる余裕はねぇーよ」

「・・・残念です」


 ケイゾーの言葉にアオキは肩を落とす。アオキはノゾミのブラッシングを再開した。


「しかしかなりいい感じに育ったな。これならセール期待できる。」

「そうですね。『この馬はこの牧場の僅かなノゾミだから名前はノゾミ』って言ってた時には相当やばいと思いましたよ。まさか本当にそうなるとは」

「お前そんなこと思ってたのかよ・・・まぁ、まさかこんなに育つとは俺も思わなかったわ」


 アオキとケイゾーは2人でノゾミを見つめて笑みを浮かべた。


 あと少しでノゾミはオークションに出される。そして馬主に出会うことになるだろう。そうなると生産牧場と馬が出会う機会は激減する。


「寂しいなー」


 アオキは思わずつぶやく。いつものことではあるが、まだ若いアオキにとっては、このイベントは少しほろ苦いものだ。


「馬産に携わるものとしては宿命だ」

「なんでそんなに割り切れるんすか。1年以上一緒にいるんですよ」


 ケイゾーの言葉にアオキは口をとがらせる。ケイゾーとアオキ携わっている馬産という職業は、その名の通り馬を生産、管理する仕事だ。

 単に馬を管理するだけではない。馬産は自然のリズムに合わせて進行する。春には新しい生命が芽吹き、夏には緑豊かな草原で馬たちと共に遊び、秋には共に馬たちの訓練が進み、冬には厳しい寒さから彼らを守るために、日々奮闘する。


 そんなことを続けていれば当然愛情は産まれてくるし、離れたくないと思うのは当然だろう。


 その中でノゾミは特別手のかかる仔だった。乳離れは異様に早く、かと言って牧草は嫌がる。気づけば馬房から抜け出してるし、指示には従わない。そのような日々をケイゾーとアオキは時に怒り、時に共にに笑いながら過ごしてきた。

 手のかかる子ほど可愛いと言うが、まさにノゾミはその通りの子だった。


 別にオークションの日が来なくなっていい。むしろずっとこんな日が続けばいい。

 離れたくない。


 そう思った。




 その時である。



 ドンッ!!

 低く響く地鳴りで打ち破られた。窓ガラスが震え、厩舎の明かりが揺れる中、床がゆっくりと波打つようにグラグラと揺れ始めた。


 地震である。


 馬具が滑り、壁にかけられた重賞の優勝レイは揺れる。まるでそれは、この世界が崩壊する前兆である。


 2人は驚きと恐怖に駆られて声を上げる間もなく、ただ立ち上がることさえ困難になった。地震の力は容赦なく、建物が軋みを上げ、まるで大地が自分の怒りを解放するかのように、激しい揺れが続いた。そしてその激しい揺れは1分ほど続いた。


 一瞬の静寂が生まれる。


「大丈夫か!?アオキ!?」


 揺れが収まったことを確認して、ケイゾーは叫ぶ。


「大丈夫です!!」


 地震が過ぎ去った後、遠くから聞こえてくるピーポーピーポーという救急車のサイレン、そしてウゥゥーンというパトカーの警告音が。


 サイレンは次第に大きくなり、消防車の音が、火災の可能性を知らせるかのように響き渡る。


 防災無線から警報も流れてきた。 



『警報、警報、地震発生に伴う津波の危険があります。速やかに高台へ避難してください』と繰り返し流れた。



 津波

 そんな言葉が耳に入った時、2人の表情は変わる。



「津波・・・避難・・・。ケイゾーさんどうします?今俺とケイゾーさんしかいないですよね。馬はどうしますか?」

「・・・」

「やばいっすよ。俺とケイゾーさんじゃあ、連れて行けて2頭です」


 アオキの問いにケイゾーは答えることはできない。ケイゾーの牧場 河合牧場には、河合牧場にいる馬は10頭。繁殖に使っている牝馬3頭。0歳馬2頭。1歳馬3頭。そしてオーナーから預かっている放牧中の2頭である。


「・・・・」


 どうする。どうすればいい。

 彼は、目の前の10個の命を前にして、深い苦悩に沈んだ。目の前にいるのはまだ産まれたばかりの希望あふれる幼い馬、そして河合牧場で産まれ母親になりずっと連れ添ってきた馬である。どれかを選べと言われても選ぶことなんかできない。


「ヒーン」「ヒヒーン」「ブホー」


 馬は突然の揺れに不安そうに鳴いている。しかしそんな不安の中でも必死に生きようとしている。それを聞いて、彼の心は引き裂かれそうになった。


「選ばなくてはならないのか?」と、彼は心の中で問い続けた。冷たい風が吹きつけ、彼の思考をさらに混乱させる。


 アオキの言う通り、救えるのは多くて2頭。

 助けを求めるように、全頭が牧場から顔を覗かせる。どの命もかけがえがない大切な命だ。だが、時間は待ってくれない。


 タイムリミットが迫る。


「ふぅー」


 彼は目を閉じ、心の中で祈りながら。

 目を開く。選ばれた者と選ばれなかった者の運命が、一つの決断によって決定する。選ばれた命が救われる一方、もう一つの命は静かにその光を失う。



 彼は、一生忘れられないこの瞬間を胸に刻みつけながら、ケイゾーは言った。


「レイニージョイとアダマントとつれていく。」

「放牧中の・・・馬ですか」


 アオキは呟く。


 ケイゾーの判断は言ってしまえば、当たり前である。レイニージョイとアダマントは自分たちの馬ではない。オーナーの馬であり、自分たちはそれを預かっている立場である。預かっている馬を優先するのは信頼関係が第一の競馬社会では当然だと言えることだった。


「わかりました。レイニージョイとアダマント連れてきます」


 アオキは動き出す。アオキの手や足は微かに震えていた。それを見てケイゾーは唇をかみしめた。噛み締めた唇は血が滲んだ。


「準備できました」


 アオキは息を切らせながら準備の完了を告げる。


「よし、行くぞ」


 決意が揺るがないために、一目散に避難所に移動しようとした

 その時。


「ケイゾーさん・・・ノゾミが」

「ノゾミ・・・」


 ケイゾーは静かに彼の名前を呼びながら、崩れ落ちた農場の傍らに立った。馬は、ケイゾーとアオキの声に反応し、優雅に首を上げた。その黒い瞳には、理解と悲しみが混ざっていた。


「すまねぇ・・・お前は連れて行けないんだ」


 ケイゾーの声は震えていた。ノゾミは、自分たちの夢であり希望だ。それを捨てなければならない。身を切るような痛みだ。だが誰も責めることはできない。すべては己の選択である。


 ノゾミは、まるで言葉を理解しているかのように、ゆっくりと歩み寄り、ケイゾーとアオキの肩に擦り寄る。2人はその首に腕を回し、強く抱きしめた。2人と1頭の息が一つになり、静寂の中で、最後の瞬間が流れていった。


「ありがとう、ノゾミ。お前がいてくれて、俺はこれまで何度も救われた。」


 アオキは涙をこらえながら、彼に感謝の言葉をささやいた。


「すまねぇ・・・すまねぇ・・・」


 ケイゾーは何度も何度もノゾミに謝りを入れた。その目には後悔と無念そして愛情があった。


「ブヒッ」


 2人は彼から離れ、最後の愛撫をした。ノゾミは、何かを察したのか、静かに歩き出し、壊れた柵を越えて、荒廃した風景の中へと消えていった。


 ケイゾーはその姿を見送りながら、心の中で祈った。ノゾミが、どこかで自由を見つけ、幸せを掴むことを。


 避難所への道は、友を残して進む道となり、その重さはケイゾーとアオキの心にずっと残るだろう。2人は無言で歩き出した。



 遠くで聞こえる風の唸り声が、迫り来る危機を告げるかのようだった。ケイゾーとアオキは手綱を握りしめ、避難所へと向かう道を進んだ。馬の蹄が冷たい地面を叩く音が、静寂を打ち破り、静かに響く。アオキは何度も牧場の方を振り返った。


「大丈夫だ。津波なんてうちの牧場まで来ないよ」


 ケイゾーはそう言った。


「そうです。」


 分かっている。ケイゾーは自分を鼓舞するために言ってくれているということ。アオキはその言葉に笑顔を作って頷いた。自分に言い聞かせる笑顔だ。手綱をもつ手は震えていて、その震えを反対の手で押さえた。



「もう少しだ、頑張れ」ケイゾーは馬に向かって囁く。馬は耳をピンと立て、不安そうな目でケイゾーを見つめるが、その瞳には彼に対する確かな信頼があった。


 河合牧場から歩き出して15 分ほど。

 避難所の明かりが見えてきた。そこには、同じように避難してきた人々が集い、互いに支え合う姿があった。


 2人はゆっくりと避難所の入り口に近づき、馬を丁寧に手綱から解き放つ。避難所の人々が慌ただしく動き回る中、馬はその場で立ち止まり、安堵の息を吐いた。そして2人もまた、安全な場所に着いた安堵感に包まれた。



 しかしその安堵は長く続かなかった。



 夜空が暗く覆われ、月さえもその光を隠したかのような静寂が訪れる中、海は不穏なうねりを上げていた。町の人々は、何かに引き寄せられるように高台から遠くの海を見つめていた。そして、その瞬間が訪れた。


 海面が大きく盛り上がる。そのとき、人々は理解した。町が、津波の猛威に飲み込まれようとしていることを。


 波は恐ろしい速さで迫り、人々は言葉を失った。町の灯りが次々と消えていく中、津波は町を覆い始めた。建物が壊れ、車が流され、すべてが一瞬で変わり果てる。誰もが、ただ立ち尽くし、信じられない光景を見つめるしかなかった。


「噓だろ・・・」


 誰かが呟く声が、静寂のなかで響いた。だが、目の前で起こっている現実は、何の反論も許さない。恐怖と絶望が、街の人々の心を深く切り裂いていく。誰もが、ただ呆然と、自分たちの生活が奪われていく様を見つめるしかなかった。


 そしてその海の脅威は牧場にも。ケイゾーは立ち尽くしかなかった。

 津波の脅威は河合牧場にも及んだのだ。愛馬たちが暮らしていた馬房が濁流によって流されていく。その様子を見たケイゾーは呆然とし、アオキは静かに涙を流した。



 夜が明けようとする頃、災害の爪痕は痛々しくも鮮明に街に刻印されていた。救助活動のサイレンが遠くで鳴り響く。町の人々は、疲れ果てた体を引きずりながらも、互いを支え合い、生き延びたことへの感謝を分かち合っていた。


 避難所では、火が消えかかったランプの光が、集まった人々の顔をぼんやりと照らす。そこには恐怖や悲しみだけでなく、希望や連帯の証が見て取れた。誰もが今日という日がもたらした変化に思いを馳せ、明日への道を探り始めていた。


 災害の日の締めくくりは、暗闇の中で見つけた小さな光のようなものだった。それは、破壊の後に必ず訪れる再生への一歩だ。

 ただ、ケイゾーとアオキは大事な仲間を失った。

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