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第二章 その四

「どうしてでもくれないんだったらウチらにも考えあるんだけど」

 ソファの上、下着姿の奈々子を押さえつける男とそれに携帯のカメラを向ける女の姿、ラボの扉を開き、その光景を目の当たりにすると僕は考えるよりも先に走り出して、男を殴りつける。できる限り勢いをつけたこともあり、男の身体が僅かに飛んでテーブルに背を打つと、その衝撃で板が真っ二つになった。引きこもり歴年齢の僕のパンチが強かったのか男の身体が重かったのか、出来れば前者であって欲しいところだが。

「いってえな」

 そう上手くもいかないようだ。男は、怠そうにのっそりと起き上がると割れた板の片方を手に取り、下卑た笑みを浮かべながら徐々に距離を詰めてくる。一歩、一歩と迫ってくる男に合わせてこちらも離れていたが、やがて壁の際まで追い込まれてしまう。危機的状況、おまけに僕の足は、武者震いとは別の純粋な震えで言うことを聞いてくれない。

「追い詰めたぜ、おらッ」

 そんな僕の気持ちなど当然関係なく、男は僕の首筋目掛けて板を振り下ろしてきた。衝撃まで凡そ瞬き一回分の時間、回避の余地も余裕もなかった僕は、反射的に両腕で防御に徹する。「ぐッ!」それでも襲い掛かってきた一撃は、想像を絶するような衝撃と痛みを有しており、僕の身体は軽く地面に横倒しとなってしまった。

 起き上がろうとするも、打ち付けられた衝撃で腕が痺れて力が入らない。そのとき視界の端に痛々しい僕を見て涙を流す奈々子が映った。「ダサい、ダサすぎんだろ僕」思わず乾いた笑いが漏れる。そんな僕の顔を男は容赦なく踏みつけて言った。「何しに来たのお前?」

 言いながら男は、軽く助走をつけて僕の腹部を蹴った。サッカーボールを蹴り飛ばすみたいに。凄まじい衝撃、それが身体の内側で響き、痛みと気持ちの悪さが僕を襲う。たまらず胃液を吐き出してしまった。そんな僕の身を案じてか、奈々子が小さく叫んで言った。

「や、や、やめ、やめて」

「うるさいんだよ、お前」

 言って女が奈々子の髪を掴み、彼女をソファにねじ伏せる。

「先輩に触るな! その手をどかさな――ぐっ」僕は叫んで、しかし言葉半ばで胸の辺りに蹴りを入れられてしまう。痛み、痛み、痛み、痛み、それから吐き出してしまったものは、真っ赤な血だった。「どうなんだよ? 手をどかさなかったら?」

 一体全体何が起きているのか、上手く呼吸ができない上に痛みで身体が言うことを聞かない。泣き喘ぐ奈々子を前に僕は、だらしなく横たわっていることしかできなかった。

 絶望的。そんな僕のことを見ながら女が言った。

「ねーあんたさ、ヒーロー気取ってんならやめときなよ。奈々子がいつ助けて欲しいなんて言ったの?」

「……聞くまでもない、だろ。嫌がってる」

「じゃあ、奈々子に聞いてみよっか。ねえ、奈々子、こいつに助けて欲しいの?」

 痛々しい、酷く悔しそうに表情を歪ませた奈々子は、その問いかけにすぐには答えず、数分の間黙り込んで、しかし、それから決然とした表情になって小さく口を開いた。

彼女がその問いかけに何と答えるか、僕は耳を傾けて、そして、

「た、助けなんて、い、いらない」

 重たい、重量のあるものを引きずり出したみたいにゆっくりと、苦しそうに言った。

 拒絶、拒絶してしまうほどに苦しいのだろう、自分の面倒事に誰かを巻き込むことが。

「ほーら、聞いてたでしょ。だからあんたさあ、もう――」

 その気持ちが、僕には痛いほど分かるよ。きっと、彼女と僕は似ているのかもしれない。僕は、女の言葉を遮って、

「嘘なんかつかなくたっていい」

 奈々子だけを真っすぐに見る。彼女は、驚いたように目を見開いて、それからその瞳がきらりと、涙の膜が覆ったように揺れる。

「少しだけ、待っててください」

なんて、かっこつけた僕だったけれど、どうやらそれは叶えられそうもない。体も心も、疲れ切っていて思うように動かなかった。たった今、答えたのが最後の一滴だったらしい。

 相変わらず、決まりが悪いなあ僕って。

 そう思って、自然と瞼が閉じられていったそのとき、

 ばちっ、乾いた音が響いた。

瞼が腫れているのか狭い視界の中で、僕は音のした方を見る。そこで目にしたもの、どうやら僕は、まだ何も終えられていなかったようだ。

 振るった手を握り締めて奈々子は、肩で息をしながら女を睨みつける。

「いったいなあ。何すんだよ、奈々子っ!」

 ばちんっ、先程よりも力強い音、躊躇いのない速度で女が奈々子をぶち返した。

「はは……」それを見て思わず、乾いた声が漏れた。

 そうだ、僕はまだ諦めちゃいけない。ゆっくりと、少しずつ、指先から手の平に、手の平から腕全体を動かす。頑張れ、頑張れ、頑張れ、自分で言い聞かせられるのは、まだ戦う力が残っている証拠だ。

「何だ、まだやんのかよ」

 起き上がることは出来ずとも、残された力で男の足にしがみつく。僕は弱いから、喰らいつくことしかできない。

 まだ終わってない、心の中で呟いて男のズボンの裾を強く握る。そのまま男の身体を壁にして這い上がるように身体を起こす。しかし、男もそんな僕を黙って見守ってくれるほど寛大ではないらしく、何度も顔面を殴ってくる。こうなってくると我慢比べだ、殴られながら僕は、雄叫びを上げて痛覚を誤魔化し、そして。

「やっと……つか、まえた」

 ようやく立ち上がった僕は、十センチほど真上にある男の顔に向かって、にへらと笑って見せた。玉のような汗が目に入ったが、そんなことは気にも留めず男の顎を視界の中心に捉える。深く、一度だけ深く息を吐いた。

 渾身の一撃、拳を強く握り締める。

 僕はまだ何もやっていない。奈々子をこの部屋から連れ出しちゃいない。

 そうして拳を打ち込もうとした瞬間。

「うっ!」

 男が小さく呻き、その場に崩れ落ちた。何が起きたのか、混乱して目前で横たわる男を見つめていると突然、聞き慣れた友人の声が僕を呼んだ。「加藤君」

「いえ、あなた加藤君というのね。初めまして私の名前は――」

 一学年の青と白を基調とした上履き、すらりとした細長い脚を際立たせる黒タイツ、ブレザーの上からでもはっきりと分かる整ったスタイル、しかし、目の前の人物の首から上は、茶色の紙袋で隠されている。

「正義のヒーロー紙袋仮面よ」

 そう言って彼女は、男の顔面を数回踏みつけると興味をなくしたのか、奈々子を押さえつける女に向き直った。「あ、あんた誰よ!」

「だから正義のヒーローだって言ったじゃない……同じことを二回も聞くなんて脳みそが入っていないみたいよ」

 紙袋仮面は、どこか楽し気に答える。仮面の内側では、どんな表情が隠されているのだろうか。とは言え、僕には彼女が何者なのか既に分かっていたのだが。

 視界確保のために開けられた二つの穴、そこから見える飴色の瞳。

 あんなにも綺麗な瞳をもっている人物のことなんて凡そ僕には、この世界でたった一人しか思い当たらなかった。

 それから紙袋仮面は、何の躊躇いもなく女の顔面を鷲掴みにして、先日僕が没収したばかりの画鋲をどこに隠し持っていたのか奈々子が座っていない方のソファにぶちまけた。

 恐れおののき泣き叫ぶ女を軽々と持ち上げて紙袋仮面は、蠱惑的な声で尋ねる。「ねえあなた、選ばせてあげる」

「一瞬だけ痛い方と永続的に苦しい方、どちらがお好み?」

「ふ、ふふふ、ふざ、ふざけんじゃない、わよっ!」

「この状況でそんな口の利き方するだなんて教育が必要みたいね」

 自称正義のヒーローである紙袋仮面は、不機嫌に声を低め、持ち上げていた女の身体をゆっくりと画鋲だらけのソファへ近づけていく。画鋲が迫るにつれて女の声量は、搾りかすのように小さくなっていき、最後には「い、い、痛いのだけは、やめて、ください……」と呟いた。すると紙袋仮面は、彼女を何もない安全な床に降ろし、紙袋の中へ手を突っ込んで暫く、何だか物凄く取り辛そうだったけれど、カチューシャを取り出すと、それをスマートフォンへ変形させた。何をするのかと思えば、画面をいじりながら紙袋仮面は女に話し出した。

「最近、みんながやっているというSNSのアプリを一通り初めてみたのだけれど、これが何ともまあ、私みたいな一般人は中々フォロワー数が増えないのよね。でもまあ、どうせやるなら有名人になりたいじゃない? だから私、どうすれば人気が出るのか難儀していたのだけれど、本当にさっき、良い案を思いついたの」

 あなたたちには感謝しているわ、そう言って彼女は液晶画面からホログラムを展開させる。そうして映し出された数々の写真、それは、

「この学校へ入学してから約一月、こっそりとあなたたちの行いを撮影させてもらっていたのだけれど、これって多分、SNSの住民にとっては良い餌になると思うの」

 あなたは、どう思う? と紙袋仮面は、冷ややかに問いかける。

「ああ、でも勘違いしないで頂戴。これは意見や見解を求めているわけじゃないの、一秒ほど前に、写真を発信してしまったのだから、結果は待っていればそのうち分かるわ」

 赤いカチューシャを再び額に戻した紙袋仮面は、そのまま屈み込んで、青ざめた表情の女を見つめて言った。

「この学校のお上が許しても、お天道様が許しても、この世界の人々は、あなたたちのことを許してはくれないでしょうね。永遠にこの日のことを」

――悔やむといいわ。


        ※


 それから女の姿が見えなくなると紙袋仮面は、アイデンティティの全てと言っていい仮面を何の迷いもなく外し、その隠された素顔を露わにした。

「紙袋仮面のトレードマークなんだろ、そんな簡単に取ってもいいのかよ」

 僕は、あまりに戯言でしかない言葉をミオに言う。

「茶番ね、これはゴミよ……ポイッ」

 言ってミオは、何の躊躇いもなく紙袋を小さく破り捨てる。

 どうやらそこには、正義の心の欠片さえも宿っていなかったらしい。

「あの二人の両親がタケムラテクノロジーにも融資していたようだから、顔を憶えられてしまうと色々と面倒だったのよ」

 ミオは、自慢の黒髪ロングとカチューシャの位置を整え終えると、そんな風に顔を隠していた意味を教えてくれた。そういった込み入った事情までも考えている辺り、計算高く理性的なミオらしいと思う一方で、僕には一つだけ理解できない疑問があった。

「どうして来てくれたんだ?」

 僕の単純な疑問、それに対しミオは、引き結んでいた口元を緩め答える。

「そうね、理由なんてないわ。強いて言うなら」

 ミオは、一歩進み出て僕の耳元で囁くように言った。

「あなたを助けてって、このアンドロイドの心がしつこかったからかしら」

「僕のため……? わっ!」

 ふーっと、息を吐かれて変な声が出た。僕の心の平穏を乱してミオは、ほんの少し気取った風に身を翻し、ラボを出て行こうとする。いつものからかいといたずら、温もりをもたない彼女だけれど、その平熱のやりとりに少し、どころか大分ほっとした。

そんな彼女の前に、というよりかは扉の前に小さなロボット、思えばいつぞやのロボタンがお盆の上に紅茶を乗せて道を塞ぐようにして立っていた。

「あ、あのっ! み、みなさんっ」

 ああ、すっかり忘れていた。僕は、声のした方へ振り返り、表情を動かすにはまだ痛みが残っていたけれど、それでも微笑みを作る。

 武村奈々子、彼女はブレザーを着終え、どうしてだかソファの上で縮こまるように正座をしている。けれどまあ、それが彼女の誠心誠意なのだとすれば何も言うまい。

「こ、紅茶、よ、良かったら、飲んで、行きませんか……?」

 彼女は、真っすぐに僕らの目を見てそう言った。


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