第二章 その三
僕は、彼女との出会いを朧げに記憶している。確かあれは、小学生の頃のことでいつも通りゲームセンターでぶよぶよをしようと、ビデオゲームフロアを訪れた日のことだ。
「またあの子が座ってる……強いんだよな」
当時通っていたのは、田舎町の小さなゲームセンターであり、店を訪れるゲーマーの顔ぶれも人数も大体変わらないせいか、店内対戦を募集すると僕と彼女がマッチングすることが多かった。その度に僕は負けて、負け続けて、そんな対戦相手を哀れに思ったのか最初に話しかけてきたのは彼女の方からだ。
「一緒に練習しようよ」
黒髪ポニーテールと特徴的な飴色の瞳、僕と同い年くらいの女の子だろうか。弾けるような笑顔が、ゲームセンターに太陽はないはずなのに眩しかった。
「……うん」
簡単に気を許すようなことはしない。初対面ではないにせよ、一度も話したことのない相手に話しかけられるなんて、きっと僕とは正反対の人間だ。そう思っている矢先、予想通りというか彼女は白い手を差し出してきた。僕は、そんな表向きの馴れ合いを煩わしく思いながらその手を握ったのだけれど、そこで彼女の手が微かに震えていることに気が付いたのだ。すると彼女は、ほっと息を吐いた。
「あー緊張したー」
酷い手汗だった、どうやら彼女も僕と同じ側の人間だったらしい。
「じゃあ、レッツぶよ勝負、だね」
それから僕らは、何度も対戦を重ねるうちに打ち解け、ゲームの話で盛り上がって、週に何度か訪れる二人の時間を楽しみに思うようになっていった。
今になって思えば可笑しな話だ、名前も知らない相手を唯一の友達だと感じていたのだから。それから僕らは、ごく自然な流れでゲーム以外のお互いの日常に興味を持つようになり、会う度に一つ自分たちの日常を明かすことにしたのだ。
そんなある日のこと、僕たちの関係に転機が訪れる。
「あれ、じゃあ同じ小学校?」日常を明かす話の流れでそのことを知った僕は、つい声を弾ませてしまった。それから先は、ごく自然な流れだったように思う。
「じゃあさ、学校で会おうよ」
けれど、
「え……そ、それは」
彼女の表情が曇って僕とは会いたくないのかな、なんて思いもして、それを問い詰めるのには、少しだけ勇気が必要だったけれど、それでも僕は、学校で、日常で、彼女に会いたかった。
「ごめん、やだった?」
心臓の音を隠して僕は言う。彼女は、数秒迷ってそれから言った。
「……いいよ、啓一くんなら。えっとね、私のクラスはね」
そうして僕らの日常は、偶然にも重なることとなる。
会う時間が増えること、相手の知らない部分が見えること、それがどうしようもなく嬉しくて楽しくて、今にも走り出しそうな心を抱えて僕は、彼女のクラスへ向かった。
けれど、彼女の教室で僕が目の当たりにしたものは、想像した風景と大きく違っていて、
教室で飛び交う彼女の悪口、一歩教室へ足を踏み入れた瞬間に、僕に突き刺さった視線。
「啓一くん……」涙に揺れる瞳を彼女がこちらに向ける。
その惨状を前に僕は。
「何もしなかった。見て見ぬふりをした」
それからも、彼女とのゲームセンターでの交流は続いた。
今まで通り、何事もなかったかのように。
僕が記憶しているのは、そこまでだ。それから数年が経って小学校五年生になると、僕は両親の離婚を理由に東京へ引っ越した。
どうして何もしなかったんだろう、今でもそのことを後悔している。
「教えてくれてありがとう」
本当の名前さえも知らない彼女のことを僕は思う。
君はどうして、僕に教室を教えてくれたのだろう。
僕だったら助けてくれると期待していたのだろうか。
多分、分かっていた。分かっていながら僕は、逃げる方を選んだ。
その選択が後の人生にどう影響したか、僕は痛いほどに理解している。
自分を嫌いながら恥じながら、その苦痛に耐えていたのだから。
そんな後悔を抱えて生きるくらいなら、大袈裟に言って、死にながらに生きるくらいなら。
「それでも僕は、あの人を、奈々子先輩を放っておけないよ」
ミオの眼光が一層鋭いものへと変わり、そして次の瞬間、頬に強い衝撃が走った。ミオにぶたれたらしい。彼女の真っすぐな瞳を見て、すぐにそれを理解した。
ぶたれた頬が廊下に流れる冷たい空気に触れて、じんわりと痛む。これは後々腫れてくるかもしれないな、頬を撫でているとミオが言った。
「この手のいじめは、あなたが行ったところで何も変わらない。標的が変わるだけ」
――こう見えても私は、何度もそういう事態を見てきた。
言ったミオの口調は、力強いものだった。
「奈々子さんのどもり癖、あれは恐らくストレスによる後天的なもの。あの二人は、何の理由もなく快楽のために彼女を傷つけている。理由がないものを止めることなんてできない」
「……」
「あなたは分かっていない。虐めの恐ろしさを」
ミオの言っていることは、恐らく正しいのだろう。
けれど僕は、一人で生きてきたが独りになったことは決してなかったし、いじめを受けた経験もない。だから、
「分かんないよ、僕には」
僕に分かる怖さは、何もしないで悔いる怖さだけ。
「でも、放っておけないんだ」答えて僕は、ミオに背を向ける。
一歩踏み出して、しかし段々と重くなるその足を、男女に挟まれた時の奈々子の表情を思い出しながらもう一つ前に動かす。
「加藤君、私には理解できないわ」廊下にミオの声が響いた。
「あなたが彼女を救っても、全員が救われるわけじゃないのよ」
僕はきっと偽善者だ。目の前の、不愉快な光景に自分が耐えられないだけなのだから。
「奈々子さんとは、今日会ったばかりじゃないの。他人よ、放っておけばいい」
他人、他人か。その通りだろう、奈々子にとっては僕なんて誰でもない人だ。けれど僕は、そんな何でもない人の表情でさえ、心でさえ、想像してしまう。
それは恐らく過剰なのだろうけれど、それでも僕は。
立ち止まって、振り返らずに僕は言う。
「それでいいよ」
返ってきたミオの言葉は、小さく震えていた。「私は」
「正直なことを言うと、奈々子さんのことが好きじゃない。そんな人のために、自分の友達が傷つくところなんて見たくないの」
傷つくところなんて見たくない、誰だってそう思う心が備わっている。けれど、僕の心は、きっと弱くて脆い。
「どうして……なの? あなたがそうまでして彼女を助けたい理由は?」
聞かれて、無意識のうちに僕の頭は考えて、答えを出していた。
僕がもしも奈々子だったら、きっと誰かに助けて欲しいと思ったはずだと。
ああ、こういうところが僕の要領の悪いところなんだろうな。
誰かが苦しむ姿を、誰かが痛がる姿を、黙って見ていられない。耐えていられない。
いつの日からか、僕はそんな体になってしまっていた。
生きるのには物凄く不都合な思考だ、けれどミオ、お前が言ってくれたんじゃないか。
そこが僕の美点で、僕と友達になりたい理由だって。
だから僕が、僕らしくあることに、
「理由なんてないよ。彼女が可哀想だから放っておけないだけ」
それだけで僕には充分だった。
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