第二章 その二
武村奈々子は、あの大企業タケムラテクノロジーの創設者である武村博士の姪にして、
日野宮高校第二学年アンドロイド研究開発部に所属する唯一の部員だ。とは言え、僕は彼女のような有名人の一族が校内にいたことを知らなかったし、体育会系の部活動が活発な我が校にこんなにもクリエイティブでハイテクな部活があったことさえ認知していなかった。
「ど、どうぞ、き、き汚いですが」
仄暗い旧校舎の廊下を歩き、彼女に案内されるまま第二視聴覚室へ入るとそこには、変わった空き教室の風景が僕らを待っていた。
窓のない閉鎖的な空間、廊下側の壁には書物がびっしりと詰まった本棚、出入口から見て右奥には組み立て途中だと思われる機械の数々とあれは何だろう、いくつものホログラム映写機、床への設置型から壁掛け型まで、様々なところから図面が宙に投影されていた。
「あ、あれはね、この子の設計図、だよ。ホログラムって見ながら作業するときに、便利」
彼女がそう言うと奥から現れた小型ロボット、頭にお盆を乗せた円柱形のフォルムが愛らしい見た目をしている。床のあちらこちらに見られる黒い汚れは、小型ロボットの車輪の跡だろうか。研究設備っぽい物がそれくらいで、後はコーヒーメーカーやら冷蔵庫、扉を開けて真っすぐのところに向かい合うように置かれた二つのピンクのソファ、その間に置かれたウサギの顔型テーブルが妙に生活感あふれている。ラボというだけあって、もっと武骨で無駄のない空間を想像していた僕としては、何だか拍子抜けだった。
それにしてもこれだけの環境が一人のために用意されていると思うと、タケムラテクノロジーの令嬢というのは、嘘ではないのだろう。「そ、そ、ソファへ、どうぞ」
とは言え、武村博士と同じ研究者というからには、どこか変わった部分があるのかと思っていたけれど、妙などもり癖以外におかしなところはなさそうで少しだけ安心した。
「それで奈々子さん、私に話しというのは?」
ソファに腰掛けると小型ロボットが頭のお盆に紅茶の入ったティーカップを乗せて運んできてくれた。円柱形の金属ボディ、恐らく顔だと思われる位置にタブレットが取り付けられ、画面に二つのちょぼ目が映し出された可愛らしい、アンドロイドカフェにいそうなメイドロボットだった。僕らの向かいに座った奈々子は、ぼんやりと湯気を眺めながら答える。
「た、単刀直入にお聞きしますけれど、この学校に来た理由、そ、その、アンドロイドと人間のコミュニケーションテストというのは、う、嘘ですよね?」
ミオが首を傾げると、奈々子が続けた。「私には、あ、あなたが人間に見える」
「産業アンドロイドとは違う、ささ、産業アンドロイドは、人間に出来ないことを、や、やってくれるから、こそ需要があるけれど、あ、あな、あなたは違う……」
言葉の意図を掴みにくい物言い、それは僕がアンドロイド知識に疎いからという理由ではなく、奈々子が話し慣れていないせいだろう。そんな僕の思いを察してくれたわけではないだろうが、ミオが「要するに」と話してくれた。
「人間そっくりの私のようなアンドロイドは、需要がないと仰られているのですね」
奈々子は、委縮するように肩を縮めたがやがてこくりと頷き、細々とした声で話し始めた。
「す、既に充足された存在、人間を作る意味はあんまりない。叔母……武村博士は、み、未充足の需要を考えてロボット開発に乗り出してきた人。む、無駄なことはしないはず」
無駄なこと、ミオの存在が。
「なのに多額の資金を費やしたからには、別の目的があると、わ、私はそう思ってる」
ミオと相変わらず俯いたままの奈々子との間に重たい沈黙が横たわる。ミオはアンドロイドだ、こんなことを言われたって不快に思ったりはしないだろうと横目に彼女の表情を窺うと、いや、はっきりと分かるくらい眉間に皺を寄せていた。
「あ、あのーこの紅茶、おいしいなあー」何とか話題を逸らそうと試みて僕が呟く。
「え? あ、ありがとう……お、お菓子もある、よ。ケーキ持ってきて」
そんな僕の試みは、意外にも成功したようで奈々子がやや視線を上げてそう言うと、先程紅茶を運んできてくれた小型ロボットが奥の冷蔵庫からケーキをテーブルの上に二つ並べてくれた。どうやって紅茶を淹れたのだろうと思っていたけれど、普段は円柱形のボディに伸縮可能な手を格納しているようだ。
「ロボタン、命令。えっと、紅茶のおかわり」
ロボタン、それがこのロボットの名前らしい。見た目相応の可愛らしい名前だなあと、そんなことを思いながらロボタンを眺めていると、突然隣でミオがはしゃぐような声で言った。「わっ、イチゴのショートケーキ! 私これ好きっ!」
それから両頬に手を当ててうっとりとイチゴを見つめるミオ。ゲームセンターで一度見たときのような平常時とは明らかに異なる様子だった。食べ物は食べられないと言っていたような気もするが、ぶよぶよと同様に興味を惹くものがあると幼児退行化してしまうのだろうか。だとしたらとんでもないシステムだ、一体どれだけの顔を持っているのだろう。
「み、ミオさん……?」戸惑いの声で奈々子が言うとミオは、はっとした様子で僕らを見渡し小さく呟いた。「す、すみません。何でもありません」
そして、妙な沈黙が生まれる。ミオは、気まずそうに奈々子から視線を逸らし、奈々子は奈々子で混乱しているのか、口を開けたまま固まっていた。何か言い出せるとしたら僕しかいない、そう思って言葉を探していると、
「へえ、奈々子に友達出来たんだ。ウケんだけどっ」
乱暴に扉が開かれ、見覚えのない金髪の男女が、何の躊躇いもなくラボへ入ってきた。制服を着ていることからこの学校の生徒なのだろうけれど、随分と着崩した格好からしてこのラボの研究員という風体ではない。
二人が奈々子とどういう関係なのかは分からないけれど、それにしたって、
「どうせ、金で釣ってるだけだろ……つーかさ、そんな金あるなら俺たちにくれね?」
あまり良い関係ではなさそうだった。男女が似たような、下卑た笑みを浮かべて奈々子の両隣に腰を降ろす、間に挟まれている彼女は、少なくとも面白そうな顔はしていなかった。
心の距離を感じ取れないのだろうか、男が奈々子の首へ腕を回すと彼女が明らかに委縮して目を合わせないよう視線を逸らした。
「せ、せ、せせ、先週、も、わ、渡した、はず、だけど……」
まあ僕にとっては、何の関係もないことなのだろうし、何があったのかも分からないのだから触れるべきではないのだろう。
頭で分かっていながらそれでも僕は、自分を隠すのが下手だったらしい。男は、僕の視線に気が付いて表情を歪める。はっきり言って、その顔さえも不愉快だった。「何だ、お前」
一触即発。
「別に、何でもないよ。でもさ」
奈々子先輩が嫌がってるだろ、そう言おうとして、しかし言い終える前に僕は、それを遮られてしまった。
「奈々子さん、お紅茶ありがとうございました。話の途中で申し訳ないのですが、今日はここら辺でお暇させていただきます」
そう言って、鞄と僕の腕をやや乱暴に掴んだミオは、迷うことなく僕をラボの外へと連れ出した。「ちょ、ちょっと。おい、ミオ!」
何も言わないミオに引っ張られながら、一体どうしたというのだろう、その理由を考えて、しかし分からず、ラボから遠く離れた廊下で立ち止まった彼女の背中に僕は尋ねた。
「奈々子さん、彼女がクラスメイトから強請りを受けていることは、博士から聞いていた」
「だったらどうにかしてあげないと」
「そうね、きっとあなたが言っていることは間違っていない」
けれど、とミオは、淡々と表情一つ動かさずに言う。
「それでも、あの男女が強請りを掛けている生徒は、奈々子さんだけではない。友達のいない加藤君は、知らなかったのでしょうけれどそれはこの学校内では有名な話」
確かにそれは僕が知らない情報だった。知る由もないことだった、けれど、それが奈々子を見捨てる理由にはならないだろう。寧ろ、それだけのことを知っていてどうして誰も、強請りを止めようとしないのか、そのことが分からなかった。
彼女は、僕を見て言う。
「彼らの両親は、この私立高校に多額の資金を融資している。端的に言えば、ここの最高権力者が彼らの行いを見て見ぬふりで済ましているの。だから、誰も逆らえないし、逆らったとしても次の被害者になるだけ」
「……そんな、嘘だろ」
「本当よ。仮に奈々子さんを助けられたとしても、次の被害者はあなた。そしてあなたが被害者になったとしても、全員が救われるわけではない」
冷たい声で彼女は、僕に言う。
「だから、今日のことは忘れなさい」
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