第八章 その三
武村ミオ。世界初の心をもったアンドロイドにして女子高生である彼女は、学校のテストで満点を取った上に、体育の時間では世界記録を軽く塗り替えてしまうなど、凡そ人間とはかけ離れたことを成し遂げながらも、どこか人間らしい振る舞いに教室の誰もが、その存在を親しく思っていた。それは、隣の席でただ彼女のことを見守っていたに過ぎない僕でさえ同じくだ。
そんな彼女には別の人生があった、別の暮らしがあった。
武村ミオ、またの名を安藤美緒、彼女は元人間。
「私の人生が変わってしまったのは、変わり果ててしまったのは、二年前の交通事故」
自らの不注意により自動運転大型トラックと衝突した彼女は、即死ではなかったものの瀕死の重体となり、そして目が覚めると、
「別の存在、アンドロイドになっていたの」
彼女は、死にかけて、死を目前にして、生きたままアンドロイドになった。
それこそが武村博士の本来の計画、アオイブックの全て。
生きている人間の意識を機械の身体へ移し替えること。それすなわち、不老不死の身体を手に入れるための実験であり、アオイを復元した人格自動生成プログラムは、その機能の一部でしかなかった。
「武村博士がアオイさんを取り戻すためには、莫大な資金が必要だった。だからこの、不老不死を可能にする実験を餌にして、多くの権力者から資金援助を募ったのよ。その実験サンプルに選ばれたのが、偶然にも死を待つのみだった私というわけ」
レインボーブリッジの下、僕らが互いの本性を知ったこの場所で、ミオは向こう岸のビル群を眺めながら真実を話してくれた。聞き終えて僕は、返す言葉が見つからず、どこか空虚で物憂げな、見惚れてしまうほどに美しいその横顔を見つめることしかできないでいる。
けれど、その容姿も、何もかも、
「想像できるかしら? 目が覚めたら、機械の身体になっていた気持ちを。こうして、誰かの身体に触れたって何も感じないのよ……食事だって、空気の味だって恋しいわね、その度に私は、もう人間じゃないんだって思い知らされるんだもの。でも、まだそれは良い方よ、一番私を傷つけたのは、鏡に映る自分の姿が、他人の、アオイさんの姿だったこと……それが、私にとって……最も辛いことだった」
初めて誰かに打ち明けたのだろうか、ミオは僕の手を握って、淡々と、しかし、言葉を止めることなく紡ぎ続ける。
「初めはそれに抗おうとして、けれど、今まで仲が良かったはずの人もみんな、誰一人として私が安藤美緒であるということに気が付かなかった。たとえ私のことをミオと呼んでくれたとしても、それは本当の私に対して向けられたものじゃないの。どう足掻いたってそれを変えることは出来なかった。次第に私は抗うことをやめて、現実を受け入れようとも思ったわ……でもね、十六年も生きてきた私にとって、思っていたほどそれは簡単なことじゃなかった。本当の自分が消えていく感覚を、存在が透明になっていく感覚を、こんなの本来は死人が見るべき世界を生きながらに味わっているようなもの……私は、本当の意味で孤独に苛まれていった」
孤独、それは文字通りの独りだった。僕なんかが自虐して言うのとは訳もレベルも違う、社会全体が、個人個人が、彼女を別の存在として認識しているのだ。ましてや別の存在として振る舞うほどに、本当の自分が過去になっていき存在が薄弱となってしまう、ミオという名で呼ばれても、それは安藤美緒に対してではなく偽りの自分に向けられたもの、そんな孤独に蝕まれながら彼女は生きていた。アンドロイドとなって。
「ねえ、加藤君。聞いてもいいかしら」
彼女は、僕を見て言う。
「あなたは、何をもってして自分のことを加藤啓一だと証明するの?」
「僕が、僕であることを証明……?」
「いいわ、言わなくていい。私は、その答えを知っているもの。充分すぎるほどに理解している。加藤啓一が加藤啓一であることは、周囲の人間があなたのことをそう呼ぶからよ。これが存在証明の全て、あなたが孤独ではない証拠」
「…………」
「私はもう、色々なことに疲れた。流れて行ってしまう現実に抗うことにも、過去にしがみつきながら生きることにも、死んだように疲れ果てている自分にも、嫌というほど絶望している。だからもういっそ、消えてしまいたいと、そう思って武村博士の計画に協力したの」
言って乾いた笑みを漏らした彼女に、無意識に僕は、反射と言っていい速度で呟き返す。それはきっと、直情的に零れた言葉だった。「それでも僕は、ミオに生きて欲しい」
「こんな絶望を味わい続けろ、と? あなたって鬼なのね」
「ミオほどじゃないけどね」
「そう……でも嫌よ、お断り。これ以上生きたって、私の人生には絶望しか待っていないって分かっているもの、アンドロイドとして生きた二年間で分かり切っているんだもの」
ミオの深い絶望の言葉は、きっと本人の意識していなかったところで僕の心を刺激した。アンドロイドとして生きた二年間、その期間に僕と過ごした日々が含まれているのだとしたら、僕と過ごした時間全てが苦痛以外の何ものでもなかったのだとしたら、そんな不安が脳裏によぎって、その一瞬は、僕の思考を黒い色で支配していく。気が付けば、それに抗うように僕は尋ねていた。「僕と過ごした時間も、絶望だったのか?」これは僕の希望的観測がもたらした視覚への作用だろうか、ミオの瞬きが一つ多くなったように見えた。
「七月のことよ、あなたは憶えているかしら。私がプレゼントを渡しに行った日のこと」
「憶えているよ……その腕時計は、まあ……修理しなければならなくなったけれど。いいよ、火傷のことは気にしないでいい」
左腕の手首、僕の言葉に反応してその傷跡を見たのが堪えたのだろう。ごめんなさい、とそれ以上の言葉に詰まったミオへ僕は、話を続けるよう促した。
「……あの日、私たちが会った女性は――」
彼女は、何かを振り絞るように息を吸って、そして言った。
――私の母親、だった人。
「……気付いてもらおうだなんて思ってはいなかった。けれど、心の何処かでは希望を抱いていたのでしょうね、微塵も気が付かなかった彼女の様子に、私は酷く傷ついた」
「……」
「十六年も一緒にいたのにね。私はあの人に産んでもらったはずなのにね」
想像して欲しい、と力なく彼女は続ける。
「朝起きて最初に会うのがお母さん、弁当箱に具材を詰めるその後ろ姿に私は、何も考えずにおはようって言うの。そうしたら早く支度しなさいって、私が夜の内に全部済ませていること知っているくせに毎回そう答えるのよ。私のことなんて見ているようで見ていない、そう思っていたら、学校で嫌なことがあった日には誰よりも先に私の変化に気が付いて声を掛けて来るような人で、けれど楽観的なあのお母さんと私は思考が合わないから、いつもケンカになるの……それで……それで」
「うん、それで?」
「それ、で、何があったのか話すまでしつこい、から、結局、私が折れて、全部打ち明けるの。そこでも、大体ひと悶着あって、けれど最後には、二人で、甘いものを食べ、て、仲直りして、勉強だってあるのに、そのあとは、お母さんが好きな漫才番組を、見るのに付き合わされて、くだらないのに、何だか笑えてきて、不思議と、ここが私の居場所なんだって、そう、思えて、そんな時間を重ねてきたはず、なのにね。あんなに、愛してくれていたはずなのに、ね……もっと、話したいことも、相談したいことも、あったのにね。あの日だって、本当なら……相談したいことがあったのに」
機械の瞳から涙が流れるようなことはない、けれど彼女の表情が苦しそうに歪むのを、悔しそうに震えるのを、僕は放っておけず静かに抱き寄せる。「何か、あったんだな」
――僕でよければ、聞かせて欲しい。僕は言った、ミオのことで知りたくないことなんて何もなかったから。
「わ、私は……い、虐めていたのよ。クラスメイトを。保身に走るつもりはないけれど、好きでやっていたんじゃなくて、強要されて従った。やり返されるのが怖かったのもある、けれどそれだけじゃないわ、私は学級委員で、優等生を演じ続けるために、教室で問題ごとを起こしたくなくて……それで」
「うん、それで?」
「あなたが想像しているよりも、ずっと酷いことを、その子にしてきた……それで」
――最後、その子が自殺して、全部が終わった。
虐めのリーダー格だった人物が学校からいなくなって、何事もなかったみたいに授業が再開して、ミオは優等生を演じ続けた。表のミオを見せ続けていた。
それは、彼女が望んでいた結末だったけれど、
「全てが嫌になったの、何もかもが。死んでしまおうとも思ったけれど、直前で思いとどまった。お母さんに相談すれば、この気持ちを何とかしてくれるんじゃないかって、最低だけれど、そう思ったから……だけれど」
その日の放課後、学校の帰り道で彼女は事故に遭う。
罪が自分に跳ね返ってきたのだと、彼女は、そう思ったそうだ。
「今の絶望も、きっとあの日の罪を償うため……私の死によってでしか、この苦しみからは、逃れられないわ」
こんなことが罪滅ぼしになるのかどうか、分からなかったけれど僕は言う。
「ミオは、奈々子先輩のことを助けたじゃないか。それで、少しくらいは」
「決して消えたりはしない。私がしたことを、全ての人が忘れたとしても、私だけはそれを忘れたりしない。それに奈々子さんを助けようと言い出したのは、私じゃないわ」
「……だったら誰が」
「アオイさんよ。私の心の中にいた彼女が、そうするように言ったの。あの時だけじゃない、ゲームセンターで親子を見かけたときだって、私が、父親の誕生日プレゼントを渡しに行こうと思ったきっかけだって、全部……全部」
全て、アオイが背中を押してくれた。
きっとそれは、あの真っすぐな目と言葉で。
「私なんかよりも、あの子が生きていた方がずっといい……あなたもそう思う、でしょう?」
その問いかけに、僕は口ごもった。だってそれは、
「卑怯だよ、お前の言い方は卑怯だ」
「何が」
「だってミオは、知ってるはずだろ」
僕がアオを見捨ててしまった過去を。
僕に善悪の決定権があるのだとすれば、アオを贔屓してしまう理由を。
アオへの罪悪感が、火傷のように残っていることを彼女は知っているはずだった。アオ越しに聞いていたのだとしたら、間違いなく。
そのことを思い出したのか次に黙り込むのは、ミオの番だった。
話を聞きながら、ずっと考えていたことをようやく僕は、自分の中でまとめて言葉にする。
「ミオが死ななきゃならないなら、僕も死ななきゃならない」
目を大きく見開いてミオがこちらを見る、その視線がどうしてそうなるのだと訴えかけてきていたが、構わず僕は続ける。「でも、僕は死なないよ」
「死なないけれど、ミオと同じ罪を背負っていることに変わりはないよ。誰かを見捨てた罪をきっと死ぬまで背負い続けるんだと僕は思う」
「……あなたの罪と私の罪は、同じじゃない」
「同じじゃないなんて、僕でもないくせに何で言えるんだよ? 言っておくけれど、僕にだって死にたいくらい辛かった時期もあった。というか、アオと再会して死にたくなったこともあった……人間、一番辛かったことは中々忘れないんだなって思い知らされたよ」
辛いこともいつか忘れるさ、とは言い切れない僕のネガティブな言い回し。そんな自分らしい言葉がこの状況で出てきたことに多少驚きつつ、けれど、言葉を探すようなミオの表情の中に彼女の気持ちの解き方、心の結び目を探す。
「それでも人間は、同じ熱量で記憶し続けられない。だからまだ救いがあるかもしれない」
「アンドロイドなら記憶し続けるって? だったら、アンドロイドなら博士に頼んで記憶とか消せるんじゃないの?」
「そんなことできるわけないでしょ……」
「分からないだろ、今は出来なくてもいつかできるようになるかもしれない。僕らが思っているよりもずっと、世の中はさ、変わり続けてるんだぜ」
時間の経過は、変化と変質の連続で成り立っている、そのことを僕は、遠い田舎町を思い出しながらミオに言った。それから僕は、ほんの少しだけ、捲し立てるように続ける。
「それでも忘れたくないって言うんなら、それはミオが死ぬ理由には、なってないよ」
気取った風にそう言って、けれどその瞬間、
「分かったようなこと言わないで!」
突然に襟首を掴まれ、引き寄せられた。目と鼻の先、おっかないな、こちらを強く睨みつけるミオの瞳が迫っている。「あなたなんかに、話すべきじゃなかった」
「でも話したんだから話を続けるよ。あのさ、ミオ」
それでも僕は、どういうわけか冷静に、びっくりするほど俯瞰的に、ミオの感情の糸口を探し続ける。一体全体、という言葉が好きでよく使う僕だけれど、その必要がないほどに彼女の気持ちを把握できているような気がしていた。
だからここからはネガティブ思考の、僕のターン。
「大体さ、ミオの話ってさ、僕の質問の答えになってないよ」
「はあ?」
「僕と過ごした時間も絶望だったかどうか、そう聞いたんだ。でも今話してくれたことは、僕と過ごしたというより、母親と過ごした時間のことだろ。いやまあ、僕との思い出なんて語るほどの思い入れもなかったというならそれでいいんだけれど」
一言多かったか、まあいいや。
僕は、答えられずにいるミオへ続ける。
「ゲーセンで僕に勝ったとき、すげえ嬉しそうにしてただろ。奈々子先輩を助けに来たとき、紙袋なんか被ってノリノリだっただろ」
それだけじゃない、僕はネガティブだから自分がどう思われているかなんて、見られているかなんて正直なところ奈々子ほどではないにせよ、殆どの自己評価が被害妄想だと分かっている。けれどその分、人一倍他人のことは見てきているつもりだ。だからこそ、僕には確信をもって言える。
「クラスメイトからちやほやされてる時もさ、僕の前では見せないくらい楽しそうにしやがって。五百点満点とったときだって内心では、めっちゃ喜んでただろ。文化祭の実行委員だってみんなのためにすげえ頑張ってたじゃん。アンドロイドとしての生活も楽しかったんじゃないのかよ?」
「…………」
「楽しいと思わないようにしてるんならさ、やめときなよ。そういうの」
僕みたいになっちゃうぜ、とまではあまりに卑屈過ぎて思い留まったけれど、凡そ僕の言ったことは当たっていたと思う。
「僕にはさ、分かるんだよ。その気持ち」
「……私の」
「うん、僕も全部失ってきたから。友達も、家族も。でもさ」
僕は首元にある彼女の手をそっと握る。
この言葉が届くと良いな、そう思いながら。
「全部失くしても、僕らはまた出会うんだよ。不思議なくらいにさ、たくさん」
数えきれないほどに失ってきた。居場所も人も何もかも、それでも僕は。
「教室に行くとさ、よく知ったかぶりしてくる渉がいて、放課後になると、面白いくらいにヒステリックで可愛い奈々子先輩がいて、えーっと家に帰ると祖父母がいて……ってあれ、僕の大切なものって全然ねえじゃん……!」
いや、気にしたら負けだろ僕。不意に漏れてしまった言葉を無視して僕は言う。
「全部失くしても生きてさえいれば大切なものと出会うもんなんだよ。ほら、こうして何の偶然か、今いるこの橋の下で僕たちが互いの本性を知ったみたいにさ」
決まったか、僕はきめ顔で言い切った。
けれど、それを嘲るように彼女は鼻で笑って、
「そうかも、しれないわね」
ゆっくりと、襟首を握り締めていた力が緩んでいく。
目と鼻の先にあった彼女の顔が離れていって、お互いの体があるべき位置、座席に戻って、けれど、今はどうしてだかその距離感に僕は安心感を覚える。
「でも、大切なものが少な過ぎて説得力に欠けているわね」
「嘘だろ、渾身の決め台詞だったのに。でもまあ、だからさ、その」
――生きていこうよ、失った者同士。大切なものを分け合って。
それから僕の言葉がどう受け取られたのか、ほんの少し不安でミオを見つめる。すると彼女は声をあげて笑い出した。「お、おいっ! 何が可笑しいんだっ」
「だってそれ、プロポーズじゃないの?」
当たり前だけれど、そんなつもりはなかったが、彼女がそんな風に受け取るのだとしたら、それでもいい、都合が良くていい、そう思って僕は言う。
「プロポーズ、ですけれど……?」
「あら」
「……」
「私の真・大切なもの一号になろうというのね」
「何だそれ、すごいカッコいいな……いや、真面目に聞いてるんだけど」
僕が言うと彼女は、ほんの少しだけ楽しそうに微笑んでから答えた。
「それでも、ごめんなさい。私はやっぱりまだ、明るい未来のことを想像できない」
けれど。
「全てが終ったら二人の時間を重ねて、いつかそんな未来を本物にしていきたい」
そう言ってミオは、こちらを真っすぐに見て、
「だからまずは、恋人から」
僕の額にキスをした。
それは何だか、感触としては冷たくて、けれど、どこか温かい。
「あ、あのさ、ミオ。僕、言ってなかったことがあってさ」
「何かしら?」
「実は僕、携帯電話持ってたんだ……色々あって言えなかったけれど」
「随分と今更なのね……でもいいわ、番号を交換しましょ」
僕らの関係において、
今日は、遅すぎる気がしなくもないけれど、本当の記念すべき一日となった。
アンドロイド女子高生をここまで読んでくださった皆様、ありがとうございます。一端はここまでとさせていただき、時間があればエピローグといって差し支えない「アオイ、最後の日」を執筆しようと思っておりますのでよろしくお願いいたします。
また感想等いただけると大変うれしく思いますので、ぜひぜひ!
それではまた、次回作でお会いしましょう。




