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第八章 その二

 凡そ十六年間に渡る僕の人生において特にこの一年は、高く険しい壁の連続であり、その忙しさと言えば慎ましやかにぶよぶよを遊んでいたぼっち時代とは、天と地ほどの差があった。けれど、そんな夜眠る時でさえ心病まざるを得ない毎日も、終わりが近づいてくると何だかあっという間だったというか、夏休みが終わる頃の心境に近いものを感じるなあ。そう思って、安堵の息というよりかは心労の溜息を吐き出すと、シーソーに座り込み丸くなっていたであろう僕の哀愁漂う背中にアオが言った。

「啓一くん……ここからが本番だよ」

「ああ、任せろよ。親子水入らずの時間が始まるってことだろ、僕は大人しく家で眠るさ」

 特に意味もなくハードボイルドな感じで答えて僕は、立ち上がる。そうして振り返ると、アオは、きょとんとした顔で首を傾げていた。

「何言ってるの? 啓一くんがやらなければならないことは、まだあるんだよ?」

 やらなければならないこと、僕は考えて、けれどまるで見当もつかないな。武村博士を説得したあとは、アップデートを停止してもらいミオが帰ってくるのを待つだけではないのだろうか。「アオイ、彼は計画のことを全て知っているわけじゃないんだ」

「え、ああ、そっか。私はミオちゃんと心を共有しているから、知ってるだけだったね」

 アオは、武村博士の言葉に気付きを得たように頷いて、悩んでいるのか表情を二、三回歪める。きっと言い辛いことなんだ、何んとなしに察して身構えた僕だけれど、「加藤君」アオの代わりに続けたのは、武村博士だった。

「今の私としては、アオイや君の意思を尊重したいと思っているがね。しかし実際問題、救出すべき対象が助けられることを望んでいないとき、我々は、どちらの意思を尊重すべきなのだろうか。それは牢獄にとらわれた小鳥を――」

「ああ、ちょっとちょっと、分かりにくくしないでよお母さんっ!」

 話が抽象的なたとえに転がりだしたタイミングで、アオがそれを窘める。何だかよく分かっていないという僕の意思をそのままに伝えると、彼女は困ったように、「うーんと、お母さんが言いたかったことは、まあ結構そのままなんだけどさ、私たちはミオちゃんのことを助けたいけど、ミオちゃん自身は、助けられたいとは思っていないってこと」そこで一度、言葉を溜めて続ける。

「ミオちゃんはさ、消えたいんだよ。だから私が消えるだけじゃ、何の解決にもならない」

 どうして、そんな僕の当然の返しに、しかしアオは、首を横に振る。大事なことは本人にしか分からないのだと、アオからは答える意思がないことを伝えられ、さらには、一度そのことについてミオと直接話し合うべきだと強く押されてしまった。

 けれど、そんなことを言われたってミオの人格は、アオの人格プログラムの裏に隠されているのだ。僕には、どうしたって干渉できないように思える。

「大丈夫だよ、ミオちゃんの人格はさ、私の人格エラーに備えて同時に起動してはいるから、メインである私がシステムエラーを起こせば、一時的ではあるけど強制的に表に出せるよ」

「エラー? エラーってそんな簡単に起こせるものなの?」

 以前、ミオがマンションの前で充電切れを起こしたことがあったけれど、そんなことをしたらそもそも、起動さえできなくなってしまうだろうし、エラーだなんてどうやって起こすのだろう。「あれ、充電切れなんかじゃないよ」

「あれはさ、啓一くんによって引き起こされた明らかなエラーなんだよ」

「僕が起こした……?」

「うん。あの日、あの時、啓一くんとミオちゃんの間には、アオイブックのプログラムでさえ処理できない感情が芽生えていたの……その気持ちをもう一度、引き起こせばいい」

 だから目を閉じて、とアオが言う。

 その言葉に従って、瞼を下ろすと彼女の気配がゆっくりと近づいてきて、そして、

「アオ……?」

 僕の唇に触れた柔らかい感触。目を閉じていたせいで、それが何だったのかを僕が知ることはできなかったけれど、アオは自らの唇に人差し指を当てて、いたずらっぽく微笑んでいた。

「今のはね、君がしてくれた五年越しの告白に対する返事だよ。私も、さ……」

 言葉半ばにアオの身体がふらついて、そうして僕の方へと倒れ込む。人一人分よりも僅かに重くて冷たい機械の身体、瞼が閉じられる直前に、彼女が呟くように言った。

「気に、なってた、よ」

「アオ……? なあ、アオ? どうしたんだよ、アオ……アオ!」

 彼女を抱きかかえて、その体を必死に揺らすも石になってしまったかのように動かない。一体全体何が起きたのだろう、混乱して額に汗が浮かび始め、次第に手足がゆっくりと、抑えられない震えに支配される。「安心したまえよ、加藤君」

「アオイの人格は、一時的に感情を処理しきれず破損してしまっただけさ。一日経てばシステムの自動修復によって再起動するはずだ」

「何が起きたんですか……アオに」

 ふうむ、と小さく唸って武村博士は言う。

「青春とは、幾つもの矛盾を孕む季節さ」

「……」

「……」

「あの、よく分からないんですけれど」

「恋愛感情は、複雑で矛盾ばかり孕んでいるということだ。まだAIとしては未熟なアオイブックが処理しきれず、エラーを起こしたとしても無理のない話だ」

 すっげえ分かり易くなった。いや、今はそんなことに驚いている場合じゃないな、けれど、何にリアクションすべきなのだろう。駄目だ、僕は駄目駄目だ、混乱して何も考えられない。

「そうだな、キメ顔でアドバイスするのはアオの役割なのだろうけれど、今はその額についたカチューシャに注目するべきだろうよ」

「カチューシャ……? あ」

 橙色のカチューシャは、アップデート中。

 青はアップデート完了後。

 今、アオの額を飾っていたカチューシャの輝きは、徐々に、徐々に、その橙色は果実が熟れていくように、

――やがて真っ赤に染まって、それから閉ざされていた瞼がゆっくりと開いた。

「ミオ……って何するんだ!」

 飴色の瞳に僕が映った瞬間、彼女は僕を突き飛ばし、そのまま立ち上がろうとする。しかし、その足元は酷くふらつき不安定だった、彼女の身体に何が起きているのだろうか。こちらに背を向け、ふらふらと歩き出した彼女を呆然と僕が眺めていると、

「何をしているんだ、はやく彼女を追いかけろっ!」

 はっとして我に返った、そうだ、僕は彼女を追いかけて話を聞かなければならない。強く一歩を踏み出して、その肩に触れようと手を伸ばすもミオが逃れるように足を速める。それから彼女も僕も徐々に加速して、ついに全力疾走で追う側と追われる側に。

 いいや、時々ミオが躓きかけている辺り、あちらは本調子ではなさそうだ。

 とは言え。

 くそっ、どういうわけか文化祭から今日にかけて僕は、女の子を後ろから追いかけてばかりな気がする。そんな趣味も性癖も持ち合わせちゃいないのに、これじゃあ勘違いされてしまっても言い訳ができない。しかしまあ、幸いなことにこの時間帯は人の気配がないに等しい。どれだけ騒がれようと、どこへ逃げられようと、遠慮なく追い回せる。

 ふっ、泣けよ喚けよ、それでも僕の勝ちは揺るがないぜ。

「……」

 犯罪者の思考だった。

 それでもまあ、人が少ないことは僕にとって好都合であることに変わりない。住宅街を抜けて、街へ入り込んだ僕たちだったけれど、雑踏の中で彼女を見失うなんてことが起きなかったからだ。けれど、彼女はアンドロイドで僕は人間、このまま持久走に持ち込まれるとやがて離されてしまうだろう。何か策はないか、一定のペースで息継ぎをしながら僕は考える。走って、考えて、走って、考えて、僕は街中に入ってからというもの彼女が同じルートをぐるぐると回っていることに気が付いた。それを利用しない手はないな。

 直線を走り続けてビル沿いの十字路で右に折れたタイミング、その路地裏に僕は入り込む。この隙に激しく音を立てていた心臓と呼吸を落ち着かせ、しかし全力で数百メートルを走り続けた運動は、容赦なく僕の全身に乳酸を蓄積させている。身体の限界が近い、僕の運動不足を対策しやがったなミオ、そんなありえもしない策略にヘイトを向けることはさておいて、まだ頭が回っている内に次の策を考えなければ。

「……これに掛けるしかない」

それから数分ほどして、十字路の角を右に折れようとしたミオが現れたのを見計らい、路上に僕が姿を見せる。そこでようやく僕は、彼女と対峙した。

「待てよ……ミオ」

 言って、僕は余裕そうな笑みを見せておく。そんな僕に返ってきたのは、ぎろりとした蛇睨みだった。お互い見合って、けれどその距離を詰めようとはしない、警戒されているな、僕が一歩でも動き出せば彼女も走り出すだろう。

 ここは、十字路だ。

 彼女が走り出すとすれば、右の横断歩道を渡るか、正面の横断歩道あるいは、来た道を戻る、その三択なのだろうけれど、彼女には僕が逆走してきたように見えているはずだから、同じ手は喰らわないように動くとして実質二択だろう。

 幸いだ、運が僕に味方していると言っていい。

 人が少ないこの時間帯に関わらず、ぎりぎり信号機が機能している。

 僕は、右手の横断歩道が赤信号に変わったタイミングを見計らって、アスファルトを蹴って駆け出した。信号無視をされてしまう可能性もあったが、どうやら彼女はこんなときでさえ交通ルールを守る遵法精神を備えていたらしい。

 僕の予想通り、というよりかは狙い通り、身を翻した彼女は正面の横断歩道を渡って一直線に走り出してくれた。そこから先は、全力で喰らいつくだけだ、この数メートルの距離を維持しながら死に物狂いで追いかける。

 だから僕は、走った。

 アスファルトを蹴る衝撃が、スニーカーを貫通して足の裏全体に響く。

 ふくらはぎの裏も、筋肉が腫れて痺れたように感覚が失われてきた。

 けれど僕は、走った。

 自分の呼吸音がすっとどこかへ消え去ってしまっても。

 世界の音が聞こえなくなってしまうほど、真っすぐに。

 ミオの後姿を追い続けて、ようやく。

 ようやくだ、僕のゴールが見えてきた。

 足場がアスファルトから、砂地に変わる。

 目前に広がるのは、向こう岸にある東京のビル群と真っ黒闇を落としたような海だ。

 お互いに足を取られながら、それでも逃げ続ける彼女を追って、僕らは船着き場の最も奥まで辿り着き、もう道はない。小型船の貸し出しも既に終わっている。

 チェックメイト、僕の勝ち。

 そのはずだった。

「ミオ……なに、やってんだよ」

 勝利を確信した僕だったけれど、そんな僕とは違って彼女は迷わず小型船に乗り込んだ。おいおい何をするつもりだよ、それは凡そ焦って発した言葉ではなく、彼女の往生際の悪さに漏れた言葉だったのだが、しかし次の瞬間、決して動かないはずの船がそのエンジンを駆動させたのだ。一瞬、呆けてしまった僕は、すぐに我に返って、

「ハッキングしたのか!」

 思わず叫んでしまった。エンジンを吹かせた小型船は、そのままぐんぐんと速度を上げて、船着き場を離れていく。

 どうする? いや、考えている暇などどこにもなかった。

 僕は助走を付けて、今までで一番強く大地を蹴り、白い線などどこにもない踏切線を全力で跳んだ。

「届けっ!」

 小型船と船着き場の距離は、目測四メートルほどだろうか。若干高い足場のことも考えれば、無理というほどのことでもない。それでも地面と身体が離れている間、僕の心臓は、あらゆる方向から風圧を受けているかのように震えていた。

 ガタンと、船体が大きく揺れてそこで僕から自然と、安堵の息ならぬ、安堵の乾いた笑いが漏れた。無事に小型船へ乗り込んだのだ、これでミオを追い詰めたそう思って顔を上げると、またしてもそれは僕の錯覚だったらしい。

「それ以上、近づかないで」

 青白く迸る電光、ミオは自身のカチューシャをスタンガンに変形させ、運転席から船尾まで、約二メートル先に立つ僕を鋭い眼光で睨みつけている。けれど、どうして僕をここまで拒絶するのだろうか、彼女に危害を加えようとしているわけじゃない。そのことは、アオの裏でミオも聞いていたはずなのに。「落ち着けよ……僕は、話がしたいだけだ」

 自分で言っておいてなんだけれど、警察官が人質を宥めるときに使うような常套句、誰が信じるのだろうか。しかし、今は彼女を落ち着かせる以外に方法がないのも事実だった。

 僕は、続ける。

「ミオ、どうして逃げるの?」

「あなたには、関係ない。もう関わらないで」

 ちくりと胸が痛む言葉、彼女は唇を噛み締めて震えた声でそう言った。

「……あのさ、何か悩んでるんだったら話して欲しい」

 言いながら、さりげなく一歩を詰める僕だったけれど、しかしミオは、それを見逃さず殊更に自らの領域を主張するように電光を強める。身の毛もよだつような恐ろしい、電圧の音が僕の耳元を走り抜け、思わず動かそうとしていた足を止めてしまった。

「あなたに話したところでどうしようもないの、お願いだから、このまま私を消しなさい」

「話してみなきゃ分からない、だからミオ」

「分かるわ、無駄よ。全部無駄なの……!」

 分からなかった、彼女がどうして僕を拒絶するのか。言ってくれれば、話してくれれば、何か力になれるかもしれないのに、助けたいのに助けを求めてくれない。それだけじゃない、彼女の言葉の全てが僕の身体に突き刺さって、もどかしい。そのもどかしさが、胸の中をざわつかせ、焦燥を煽る。

「帰ってよ……加藤君」

 突き付けられた距離感に心が痛み、言葉が僕の胸を抉る。

 抉られて、抉られて、そうして広がった空に、しかし、どこからか沸き出してきた感情が流れ込む。その感情を表現する言葉が見当たらない、訳が分からなくなって、次第に僕の視界がぐにゃりと歪み始める。

 何なんだよ、やがてその感情が僕を支配して言葉になって、

「話してみないと分かんねえだろうが!」

 気が付けば僕は、心のままに叫んでいた。

 びくっと、ミオの身体が小さく跳ねたことにも構わず僕は続ける。

「何なんだよ……関係ないとか、関わらないでとか、話したところで無駄だとか、そんなの、そんなのさ……」

 言いながら僕は、自分の中にある感情の正体に気が付いて、しかし、それが彼女の一体何に向けられているのかが分からず、言葉に詰まってしまう。まとまらない、どうしたって固まってくれない粘土をこね続けるみたいに、無駄な思考を繰り返し、とうとう僕は、黙り込んでしまった。

 分からない、分からないんだ。

 僕は、彼女の一体何に対して怒っているのか。

それでも、身体の内側には、沸騰した感情が次々に溢れ出してくる。

「近づかないで!」

 一歩踏み出して、考える。分からなくて、分からないままに僕は足を動かす。

 放たれる電圧音も、揺れる青白い電光も、何も怖くない。

 この、訳の分からない怒りが自分の中で爆発してしまうよりかは、マシだった。

 構わず足を踏み出したそのとき、迸った電光が僕の左腕、その手首につけられていた腕時計に直撃する。感電だ、しかし幸運なことに僕の身体には蒸発や発火などの要因となる火薬物が存在していなかったのだろう、衝撃が襲ってくることはなかった。

 そう思っている矢先、

「ぐっ!」

 遅れてやってきた熱と刺されたような痛み、金属の腕時計が熱を吸収した結果、接触している皮膚が焼けてしまったかもしれない。酷い匂いだ、気を抜けば涙が瞳から溢れ出してしまいそうなのを堪えて僕は、もう一歩、ミオとの距離を詰める。彼女は、泣きそうな目で僕を見て、やがてその手からスタンガンを滑り落とすように手放した。

「何で……なの」

最後の一歩を踏みしめて、そして僕は、彼女を抱きしめた。

「……何かあったのなら話してよ、僕が力になるからさ」

 抱きしめて、僕はこの気持ちが怒りではなかったことを理解する。

「……信じて、いい、の?」

「うん」

 これは僕の、言葉を信じてもらえない寂しさだった。

 だから僕は行動で、一層強く、震える彼女を抱きしめた。

「加藤君、私は……」

「うん」

「私は、ほんの少し前まで、人間だった」


        ※


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