第八章 その一
何だか見覚えのある場所だった、住宅街の中にぽつんと存在していた寂れた公園で、遊具はベンチとシーソーという珍しい組み合わせだ。来たことがあれば、憶えているはずだけれど、どうしてだろう、もやもやしながらシーソーに座ると反対側のアオが言った。
「ここはさ、ミオちゃんと啓一くんが初めてゲームセンターに行って、その帰りに寄った公園だよ。憶えてる?」
「ああ、それで。何か来たことあるなーとは思っていたけれど、夜だから分からなかった」
ぎーこーぎーこー、僕らの位置が上へ下へと逆転を繰り返す。シーソーは哀愁を感じさせる音を鳴らしながら、ししおどしみたいに動いていた。何でもない顔でアオは、シーソーに跨っているけれど、彼女は武村博士を奈々子の家に残して出てきたばかりだ、僕は気になって尋ねる。「どうしてここに? 武村博士には、分かんないだろ」
その言葉には、この場所を認知しているかどうか以外にも、彼女が追いかけてこないかもしれない、そういう不安を込めていた。けれどアオは、うーんと唸ってそれから答える。
「来るよ、きっと。お母さんは、私のお母さんだからさ。ここ、似てるんだ」
「似てるって、どこに?」
「忘れちゃったの、この前、地元に帰ったときに寄った公園だよ」
「ああ、なるほど……博士、憶えてるかな」
「大丈夫、私は信じてる。ああ見えてもお母さんは、不器用なだけで本当はすっごく優しい人だからさ」
「へえ、僕にはそう見えなかったけれど、どこら辺が優しいのさ?」
「お小遣いいっぱいくれるところ!」
すげえ最低な理由だった。
「冗談だよ。本当のこと言うとお母さんってば研究ばっかりしてたから、よく分かんないんだ……でもね、昔お父さんからさ、お母さんが子供だった頃の話聞いて、優しい人なんだって思った」
「子供の頃の話?」
「うん。お母さんのお母さん、私は会ったことがないけど、働き過ぎて過労死しちゃったんだって。それ以来、必死になって勉強して、良い大学に入って、その研究所で人の代わりに働くロボット、産業アンドロイドの開発を目指したらしいよ。お父さんとは、そこで出会ったらしいんだけど、お母さんってば相当な変わり者だったみたい。そうだ、聞いてよ」
それからアオは、楽しそうに武村博士のことを話し出す、僕もまたそれに相槌を打って、やがて腕時計の短針が零時を回るまで二人で話し続けた。一段落ついて、吸い込まれそうなアオの飴色の瞳に僕は言う。
「お母さんのこと好きなんだな」
「うん、好きだよ。とてもとても、ね」
「……僕は、アオのことが好きだよ」
「何それーっ、五年越しの告白?」
「どうだろうね、そうかもしれない」
「あーあ、ミオちゃんも聞いてるのにー」
「マジかよ、困ったなあ」
そして僕は、笑った。
そして彼女も、笑った。
その笑い声が、僕らの間に流れていた空気の色を変えたような気がして、ほんの少し、卑怯だったかもしれないけれど、あの日のことを、僕が見捨ててしまった日のことを話し出そうとすると、アオが静かにシーソーから降りて先に口を開いた。
「ありがとうね、啓一くん。まだ言えてなかったから」
「突然だな、何の話?」
「中学校で、私のこと警備アンドロイドから守ってくれたから」
「あれはまあ、体が勝手に動いただけ」
「かっこよかったよ。助けてって言わなくても助けてくれるなんてさ」
「……あのさ、僕さ」
「気にしなくていい」きっぱりと言って、アオが僕を見る。
「あの日のことは、私だって悪いから。啓一くんに助けてって言わなかったし、ううん、それだけじゃない。お母さんにだって助けてって言わなかった……それにさ」
もしそうだとしても、僕はアオに謝らなければ気が済まなかった。それなのに彼女は、真っすぐな目で、澄んだ声で、夜の闇を貫くようにはっきりと、続ける。
「もう助けてもらったよ、五年越しに私を助けてくれた。だから啓一くんはさ」
「……うん」
「昔の自分に胸を張って生きていいんだよ」
きっと僕は、武村博士と同じように縛られていたのだろうと思う。アオを見捨ててしまった罪悪感があったからこうして傍にいられただけで、何もなければ武村博士の言動に腹を立てることがあっただろうか。その自問自答に答えが出せないくらい、僕にとって武村博士の心情は共感できてしまうものだった。
そんな僕が彼女に放った言葉は、本当のところ自分に対して向けていたのかもしれない。
「ありがとう」
だから僕は、アオが言ってくれたその一言に、救われた気がした。
「アオイ……ここに、いた、のか」
そして、乱れた呼吸と途切れ途切れに紡がれた声が、僕らの空気に混ざる。
公園の入り口、そこで肩で息をするように立っていたのは、
「お母さん……ちょ、ちょっと」
武村博士、彼女は、迷うことなく踏み出した一歩を数回重ねてアオの前に立つと、何も言わずその身体を抱きしめる。二人の時間、どうやら僕の出番は、もうないらしい。その濃密な空気を前にして僕は、親子に背を向けてシーソーに座り直した。
「ずっと、気にしていたんだ……アオイが虐められていることにどうして気が付けなかったのだろうって。研究なんか放っておいて、アオイとの時間を大切にすべきだったんじゃないかって……馬鹿みたいだ」
「そんなこと、ないよ」
「……我慢しなくていい、アオイ。お母さんはね、さっきだってアオイに酷いことをしてしまった。きっと、五年前も自分では気が付かなかっただけで、たくさん嫌な思いをさせてしまったはずだから、嫌なことを嫌だと言えない、そんな環境を作ってしまったのは、私だから、だから……」
「お母さん」
言ってアオイは、言葉に詰まったのかもしれない。暫く沈黙があった。
「変わらないんだね」
くすっと、アオが笑って、
「一生懸命になると、早口になるところも、一度思い込んだら、深く考えこんじゃうところも、少しネガティブなところも、全部、変わらないん、だね」
「アオイ……」
「でも、変わってなくて、安心した……ほん、とうに、良かった……ねえ、お母さん。私の居場所。答えはもう分かってる、よね……?」
「ああ……でも、それでも、私は、アオイと」
「ううん、駄目だよ。答え、聞かせて」
アオの本当の居場所、ここじゃない何処か。
それは、ずっとずっと、遠い場所で。
それは、何よりも、近い場所で。
武村博士は、長い、長い時間、きっと自分の気持ちを押し殺していたのだろう、黙り込んで、そして言った。
「私の……心の中、だ」
それは、この世界にたった一つしかない、アオだけの居場所。
「うん、正解だよ。よく、言えました」
「ああ……ああ、ごめんよ、アオイ」
鼻を鳴らした武村博士に、アオはきっと微笑みを返して、その身体を抱きしめた。
そうであって欲しいと、僕は空を見上げて思った。
暫くして、恐らく一段落着いたのだろう、思い出したようにアオが呟く。
「そういえばお母さん、お父さんと離婚したんだって?」
「どうしてそれを……?」
「お父さんと電話して聞いたから。アオイブックの研究のために東京に行くって言って、迷惑かけたら悪いからと何とか、とりあえず、すっごく一方的に別れを告げられたって。何でそんなことしたの? ああ、もちろん、お父さんがどんな気持ちで五年間過ごしていたかとか、ちゃんと想像した上でそういうことしたんだよね?」
「それは、その……し、仕方がなかったというか」
「仕方ない? それってさ、答えになってなくない? 質問の仕方が悪かったのかな、ごめんね。具体的にどうしてお父さんのことおいて行ったのかな……? ねえ、お母さん、何で私から一歩後ずさっていくの……?」
背後で行われている尋問、僕は、その凄まじい圧を感じながらやはり二人は親子なのだと、再度空を見上げて思った。
というかなるほど、だからあの時、アオは職員室で父親の電話番号を。
僕は、武村博士と旦那さんがもう一度縁を戻してくれるといいなと、密かに願った。
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