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第七章 その四

 それにしても、随分と派手などんちゃん騒ぎだった。

 大人たちは、シャンパンボトル片手にカラオケを始め、奈々子がかなりのハイペースで追加の酒を冷蔵庫から運び、一体何本目になるか分からないボトルの弾け飛んだコルクが、僕の首元を掠めたときは、いやはや死んだかと思ったね。

 そんな騒がしさも束の間のこと。

「未成年飲酒は、犯罪だろ……まあ、いいや」

 腕時計の長針がまもなく午後十一時を示す頃、奈々子とその両親、もとい酔っ払いたちは、僕の向かいにあるソファで肩を寄せ合いながら、先程まではうとうとしていたものの、そのうちすやすやと寝息を立て始めた。一方でアオは、酒も食事も、睡眠だって必要ないはずだが、雰囲気に酔ったのだろうか、彼らの傍らで横になって目を閉じている。

「起きていたのかね、加藤君」

 玄関前で煙草を済ませてきたらしい武村博士が、若干ふらついた足取りで僕の隣、ソファの上にどっかりと座った。どっこいしょ、なんて言いながら彼女が腰を下ろす姿は、ちょっと意外で面白かったけれど、でもまあやがては僕もこうなるのだろう、笑っていいか微妙だ。

 酔いが醒めてきたのか、肌の色を取り戻してきた彼女の横顔は、アオ同様にミルクのような温かさを持っている。心労によるものだろうけれど、やつれているがやはりその相貌は、見惚れるほどに綺麗な人だった。

「少しばかり騒ぎ過ぎた。親戚に代わって、まあ私も含めてか。すまなかった。それから、アオイからもらった誕生日プレゼント、たった今あの写真を見させてもらったよ」

言って彼女は、片手で小さなフォトブックを開き赤くなっていた目で、はらり、はらりとページを捲り、四枚の写真を眺める。一通り見て写真へ呟くように彼女が言う。

「これは、良い写真だった。もしアオイが生きていたら、こんな未来があったのかもしれないと、そんなことを思わせる四枚だったよ」

「そりゃあ良かったです。アオがあなたを喜ばせたいと意気込んでいたので」

「そうか、それは母として素直に喜ぶべきことだろうね……でもまあ君としては、私の喜ぶ顔が見たいというわけではないんだろう?」

「……ええまあ」

「では、私の戯言もほどほどにして本題へ入ろうか。ところで君は、まず前提として私のアオイブックに関する計画をどこまで把握しているのかな?」

 尋ねられて僕は、アオと奈々子から聞いた話をそのまま博士に話す。聞き終えて彼女は、足を組み直し、何やら含みのある感じで唸った。

「なるほど、なるほどなるほど、結論から言えば、君の知っている情報は、計画の一端に過ぎないようだけれど、全てを話す必要はなさそうだ。それでもって要点だけを言えば、君の要望通りアオイへのアップデートを停止し、ミオの人格を残す、その選択をしたとしても、科学者としての私自身には、何の損害も不利益もない。計画は、既に完遂していると言っていいのだからね」

 けれど、と彼女は続ける。

「君の要求を呑むことは出来ない。理由は、私がしたくないからだ」

「どうして?」

「君も奈々子も、こう思っているのだろう? こんなことをしたって娘は帰ってこないと、何の意味もないと、前に進まなければならないと」

 言い当てられて、心臓を掴まれたみたいにどきりとしてしまう。

「私はね、そんなことくらい分かっているつもりさ。けれどね、人が生きるためには、私が生きていくためには、縋りつく存在、糖分が必要なのだよ」

「糖分……?」

「ああ、それもとびきり甘い角砂糖さ。けれどもそれは、既に生産終了してしまってね、在庫を口の中で溶かしながら、消耗しながら、この無味に余った時間を潰すしかないのさ」

 初め、彼女の言いたいことがよく分からず、けれど考えて、何となくその意図を僕は掴む。

 それはきっと、アオとの思い出のこと。

「こんな風に話した方が、謎めいたキャラっぽくて良いだろうと、そう思ったのさ。私は、博士という属性をもっていながらキャラが薄いからね」

 何という無駄な配慮なんだ。

 さておいて。

 僕は、彼女の言葉を自分の中で噛み砕き、呑み込んだ体の中で反芻する。生産終了、過ぎてしまったものが決して帰ってこないことに絶望し、きっと僕らは、過去に縋りつきたくなってしまう。沼のように足を取られた身体は、次第に底へと辿り着く。それらが行きつく先は、後悔しながらそれでも失ったものを追い続けるか、諦めて、かつての僕みたいに何もかもを諦めて、いや、諦めたフリをして生きるかのどちらか。

「子供みたいなこと、言うんですね。武村博士も」

 火傷、決して癒えないその傷を抱えて、無為に時間を消費し続ける。

 分かり過ぎるほどに共感できてしまう博士の傷に、僕は言う。

「そうやって生きていて楽しいですか。そうやって生きるのは辛くないですか。そうやって生きるのは苦しくないですか。僕は、そうやって生きる自分が――」

 嫌いだった、そう言おうとして、しかし、何かが弾け飛んだような音が僕の言葉を制す。

「偉そうなことを言うなよ」

 武村博士は、手に持っていたフォトブックを、アオイが作った贈り物を、テーブルの上に思い切り叩きつけた。冊子自体は丈夫だったのか、壊れたり傷がつくようなことはなかったものの、収められていた写真の何枚かが中から飛び散る。

 一枚、銀の月明かりに照らされた写真の中のアオと目が合った。

「こんなものが偽物だってことくらい、分かっている。馬鹿らしいことだってのも、理解している、虚しいさ。けれどね、もう私には……」

 武村博士の声は、静かに震えている。凍えるように震えている。

「あ……」

 呟いていた。この光景を目にして僕は、驚くほどに間抜けな声が出て、それから自分の感じている思いを停止しているかのような、長い一秒の中で精査する。

 フォトブックと四枚の写真、それは初め、誰もが適当な思いつきで上手くいかないだろうなと思っていた。今だってそうだ、心の何処かでは、こんなプレゼントで良かったのかなと疑っていた。というより、上手くいく方がおかしいんじゃないかと思う。

 だってこれは、アオが徹夜で考えたプレゼントだ。

「ああ……」

 いいや、本当にそうなのか。彼女は、徹夜で考えてきたと話してくれたけれど、果たして本当に、そんな突飛な思い付きだったのだろうか。

 僕らに言わなかっただけで、ずっとこの四枚の写真を贈りたかったのではないだろうか。

「……」

 ティンカベールのケーキ、大きなイチゴが一つ乗ったショートケーキは、アオの誕生日になると武村博士が必ず買ってきてくれたもの。アオは、不思議に思っていたらしい、自分の誕生日は祝ってもらえるのに、武村博士は自身の誕生日を祝おうとしないことを。

 だから、いつかケーキを作ってあげたかった。

 父と母、そしてアオの三人で暮らした家も、本当なら僕と奈々子ではなく、両親と並んで撮りたかったはずだ。小学校の卒業式、中学校の入学式、何か記念日がある度に三人家族で仲良く並んで撮りたかったはずだろう。「武村博士……」僕は、写真を飛び散らせたフォトブックを見つめながらに言う。

 アオと奈々子と僕と、三人で撮った景色は、確かに紛い物かもしれない。

 それでも、アオが母親に見せたいと思っていた心は、偽物なのか?

 存在していた思い出のことを、あったかもしれない未来のことを、僕に憶えておいて欲しいと言った彼女の想いは、偽物なのか?

 偽物とか本物とか、僕は考えて、そういうことじゃない、と気が付いた。

「あなた、間違っていますよ……」

「何だって?」

 過去に縋りついて生きた先、その先には何もないことくらい誰だって分かっている。

 けれど、だからと言って、その過去が否定されていいはずがない。

 僕だってそう。

 両親が離婚したことは、嫌な過去だ。だけれど家族で過ごした思い出全てが、楽しかったはずの記憶全てが、どれだけ辛くて苦しくて、火傷のような酷いものになったとしても、街の景色が変わってしまっても、周囲の環境が変わってしまっても、それでも、あの頃の気持ちが嘘になるなんて、そんなことあるわけがない。過去を踏み台にして生きて行かなければならない僕らが、過去を偽物だと、否定してはいけない。

「あなた、娘さんを、アオイを愛していたんじゃないんですか……?」

「……そんなことは、言うまでもないことだ」

 大切な何かが踏み躙られた思いで、空を握り締めた拳が僅かに震えた。

「だったらどうして」

 痛々しいものを見たときのように、散らばった写真に胸の奥が詰まった。

「目の前の過去を、偽物だなんて言えるんですか……? これだけ、アオイに愛されておいて、これだけ、愛されるような人だったはずなのに……答えて、くださいよ」

 ふつふつと、体の中で聞き慣れない音がする。それを感じながら、耐えながら続けた。

「アオイに、今の姿を、見せられますか……?」

 僕らは、きっと過去に縋ってはならない。

「アオイに胸を張って、見せられ、ますか……?」

 僕らは、きっと過去に胸を張って生きなければならない。

 武村博士は、黙り込んだ。長い時間、ひどく長すぎる時間、黙り込んだままで、そのうち体の中の音が、ふつふつ、から、ごとごと、と激しさを増して、僕は耐え切れず、彼女に掴みかかりそうになって、しかし、それを柔らかい声が制止する。「もう、いいよ。啓一くん」

「写真、捨てられちゃったのは悲しかったけど、私は偽物だからさ、仕方ないよ」

 散らばった写真を一枚一枚拾い集め、ゆっくりとアオは、武村博士の膝の上にフォトブックを置いた。そして、自分と目を合わせようとしない武村博士に彼女は言う。

「でも、私の前では持っておいて欲しいな。ねえ、お母さん」

「……アオイ」

「この街はさ、私たちが暮らしていた場所じゃないし、今通っている学校も私の通うべき場所じゃない。きっと、啓一くんも奈々子ちゃんだって、奈々子ちゃんパパも奈々子ちゃんママも、ミオちゃんだってそう。私が会うべき人じゃない……そこでさ、問題です」

 彼女は、どこか寂しく、微笑んで言った。

「私の、本当の居場所は、どこでしょうか? ヒントはね、世界に一つだけしかないの」

 武村博士は、何かを言いかけたみたいに口を開き、しかし、アオを見ることはなかった。そんな彼女に何を思ったのか、アオはリビングを出て行こうとして、そのドアの前で立ち止り呟く。「迎えに来てね、待ってるから」

 そして彼女は、奈々子の家をこの場所を出て行った。



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