第七章 その三
――僕はこの日、部屋の中で静かに時間を刻んでいた赤い腕時計を身につけた。
迎えた武村博士の誕生日会当日、学校が終わって大急ぎで奈々子の家に集まった僕らは、早速ケーキ作りに励んでいた。お菓子作りなんて自由研究でカルメ焼きを作って以来のことだったから、それでもまあ、結構楽しかった記憶が残っていた僕としては、今回のケーキ作りにも期待でそれなりに胸を膨らませていたのだけれど、
「ねえ奈々子ちゃん、私、ホールケーキにしてって言ったよね……?」
「ご、ごめんね、そ、そそ、そうだよ、ね……た、誕生日だから、ホールケーキ作ったのに、お、叔母さんが来る前に切り分けちゃうとか、し、死んだ方がいい、よね。て、ていうか、あ、アオイちゃんが、つ、作る、はず、だったのに、つ、つい楽しくなって、最後まで作っちゃうとか、の、脳みそ足りてない、よね……な、何でイチゴのブランド、あ、あまおうにしなかったんだ、ろうね、もう死ぬね、ばい、ばい……」
「死ぬな死ぬな死ぬなぁ! おいアオ、包丁を取り上げろよっ!」
無事にケーキが完成し、けれど奈々子は、死んでしまいしたとさ。
いやまあ、冗談だけど、ケーキが完成したのは本当のことだ。
そんなこんなで僕らは、ホログラムできらきら星を投影するなどして、奈々子の両親を含めた五人でリビングの装飾を行い、誕生日会らしい環境を整えた。ちなみに奈々子の両親は、僕が想像していたよりも随分と楽観的な思考をお持ちのようで僕を見るなり「ああ、君が加藤君? すっごいイケメンじゃあないか、いや冗談さ、嫌な顔するなよ。ははっ、思えば冗談ってのもすっごい失礼だね。いつも奈々子がお世話になってるよん」とお父さん。アオを見たお母さんは「えーすごい、本当にアオイちゃんそっくりねえ。可愛い可愛い、食べちゃいたいわ!」なんて言いながら彼女の髪をくしゃくしゃにして撫でていた。本当に奈々子は、この両親から生まれてきたのだろうか。ふと思って、しかし僕は言葉を呑み込んだ。
あとは、今日の主役、武村博士を待つだけだった。彼女が帰ってきたら部屋の電気を落とす係を奈々子ママに任命されていた僕は、多少早いけれど一仕事終えた気分でスイッチ付近の壁にもたれ掛かる。スイッチに触れるのが面倒だから、本番は音声認識で消そうかな、なんて思いもしたけれど、それだと武村博士に存在を知らせてしまうだろうから、僕はもう一度立ち上がった。そしてついにそのときが来たらしい、携帯を見ながら奈々子パパが興奮気味に言う。「千代子が今、タクシーで研究所を出たってさ!」
千代子だって? 僕が首を傾げるとケーキを持って待機していたアオが、武村博士の名前なのだと耳打ちしてくれた。何か緊張してきたな、他人の誕生日祝いなんて初めてだ。
「千代子が今、交差点を右に曲がったって!」
「……」
「千代子が今、赤信号で止まったって!」
「……」
「千代子が今、十字路を抜けて住宅街に入って、ようやく家の前に!」
いや、メリーさんじゃん。とんでもなく報告の細かいメリーさんだよ、それ。
「ああっ、千代子が今、やっぱり研究所に戻ろうかなって!」
しかも、遊ばれてんじゃん!
「おい、来るぞ! 加藤君、電気!」
言われて僕は、慌てて電気のスイッチを押した。瞬間、暗闇が広がったのと同時に玄関の方で扉が開き、自動ロックの音が家の中に響く。武村博士が入ってきたのは、間違いないらしい、廊下から聞こえた足音が段々と大きくなって、そしてリビングのドアが開き、爆発音、クラッカーが盛大に音を立てた。
「おめでとう……お母さん」
蝋燭の灯った既にカットされたホールケーキを持ってアオが、リビングの奥から扉の方へ進み出る。橙色の灯に照らされたもう一人の人物は、僕らの予想通り、アオの母親にして、タケムラテクノロジーの創設者、ワイシャツからスラックスまでもが黒で統一された彼女は、武村博士だった。
予想通りで、けれど、予想外なことが一つだけ。
「ふふっ、ふふふっ!」
僕の記憶が正しければアオと同様に白い肌をしていたはずの武村博士は、その顔全体が紅ショウガみたいにほんのりと赤い、突然不敵に笑いだしたかと思うと、千鳥足でふらつき壁にもたれ掛かった。べろんべろんに酔っている、僕は酒を飲んだことがなかったけれど、誰が見ても分かるくらい泥酔している。「お、お母さん!? 大丈夫なの!?」アオが駆け寄ると、
「ああ、大丈夫だとも……いやあ、随分と、懐かしい客人だなあと思ってね」
とは言え、と彼女は、僕を真っすぐな目で見ながら続ける。
「誕生日パーティーと洒落込もうじゃないか」
そして彼女は、蝋燭の炎を一息に消した。
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