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第六章 その三

――一つの過ちを正さないでいると、人は多くの過ちを抱えて生きることになる。

 そんな言葉を何かの小説で読んだことがあるような気がしなくもないけれど、とは言え、仮にその通りなのだとしたら、失敗や些細な嘘を正さないで生きてきたであろう僕は、一体全体どれほどの過ち抱えているのだろうか。真面目に考えながら、奈々子の部屋で彼女が風呂から上がってくるのを待っていると、ふと見た壁掛け時計の短針が既に九時を示していた。こんな時間に、しかも入浴中にもう一度訪ねるだなんて、何だか申し訳なかったけれど、まあ、アオが半ば押しかけるように奈々子の元へ戻ったのだから僕のせいではないか。

「お、お待たせ……お、お風呂、な、長くなって、ごめん、ね」

 そう言って、部屋へと戻ってきた奈々子は、バスタオル一枚、というわけではなかったが、急いで上がってきたのか髪や肌、色々なところが乾き切っておらず、艶めかしく照っていた。二人きりで話さなきゃ駄目だよ、なんて言ってアオが出て行ったせいで、シュチュエーション的には恋人同士が初めての夜を、いや、何でもない。

「こちらこそ、さっきはごめんなさい。その、奈々子先輩の事情とか何も知らないで」

 気にしないで、と向かい合う位置に腰を下ろした奈々子が緊張した面持ちで言った。けれど、その言葉を素直に呑み込めるほど僕は要領がいい方じゃない。どうしてミオを助けることに協力してくれないのか、暫く間を置いて僕が話を切り出すと彼女は、胸の前で小さく拳を握り答えた。

「わ、私は、ミオさんよりアオイちゃんに、の、残って欲しい、から。叔母さんの、望みを叶えてあげたい……」

「叔母さん? 武村博士の?」

「うん……このまま、アオイちゃんが消えたら叔母さんは、む、報われなさ過ぎる。じ、自分の子供を亡くして、だ、旦那さんとも別れて、それから、ず、ずっと」

 彼女は、ことさらに拳を強く握り締めて続ける。

「ずっと、アオイちゃんに会いたくて、あ、アオイブックの開発に取り組んできた、の。た、たくさんの人も、お金も、時間も、掛けてきた、のに。それを覆すなんて、わ、私には、できない、よ」

 僕は、奈々子の歪められた表情に、一度しか会ったことがないはずの武村博士の顔を思い浮かべた。彼女は、綺麗な女性で、けれど、頬が痩せこけ、目の下に深いくまがあったことを記憶している。彼女が何を思い、何のために心をもったアンドロイドを生み出したのか、こんな僕でさえ、奈々子の言葉を聞いているだけでその気持ちを想像できた。

「ミオとアオ、二人の人格を残すことはできないの?」安直な質問に奈々子は首を横に振る。

「できない。い、今は何とかその状態を保っている、けど、ほ、本来は、すごく、不安定な状態、そ、それこそ、前みたいにエラーを起こして人格を破壊し兼ねない、から。も、問題は、そ、それだけじゃなくって……記憶領域の限界も抱えて、る。に、人間の脳の記憶領域は、約千テラバイト、時間にして十三年分の、出来事を蓄積できるんだけど、わ、私たちは物事を忘れられるから、それでいいとして、あ、アンドロイドの彼女たちは、違う。不要な記憶を判断、でき、ないから、二人分の感情とか、経験を蓄積し続けたら、すぐに、限界がきて、しまう、の」

 話を聞き終えて改めて僕は、この状況のどうしようもなさに溜息が漏れた。そんな僕の様子を見てなのか、奈々子が僕に言った。「ミオさんのこと、助けたいんだ、よね?」迷わず僕が首を縦に振ると、再び沈黙が横たわる。けれど、呟くような声で奈々子がそれを破った。

「それは、そう、だよね。だって、加藤君は……」

 ミオのことが好きだから、きっとそう言おうとして、しかしその言葉が続くことはなかったけれど、僕は黙り込むことでそれに答える。「わ、私、ね」

「う、嘘じゃ、ないよ」

「嘘じゃない……?」

「か、加藤君のことが、す、好きだってこと……さ、さっきは冷静じゃなかった、から、い、言えなかった、けど、この気持ちは、本当、だよ。だから」

 だから武村博士の頼みを受け入れたのだと彼女は、言った。いつかミオが上書きされて消えてしまうことを知っていたから、そのことで僕が傷ついてしまわないように、その傷が深くなり過ぎないように、誰も辛い思いをしなくていいように。

 奈々子は、考えて、考え抜いた結果、武村博士も僕のことも、助けたいと、そう思って行動していた。彼女が話してくれた事実に、思いに、胸が詰まる。

「私じゃ、駄目、かな……」

 その言葉に僕は、迷った。その言葉に僕は、揺れた。

 迷って揺れて、人間だから、すぐには答えられない。

 何より彼女を傷つけてしまうことが、怖かった。

 けれど、もう迷ってはいられなくて――ごめん、そう言おうとしたとき、

「奈々子……先輩?」

 彼女が僕の唇を奪った。

「……怒らないんだ、ね。やっぱり、優しいね加藤君」

 彼女は、どこか寂しげに笑う。

 張り付けられた感情の裏に見えるそれが、本当の感情なのだと思った。

「先輩……僕は」

「言わないで、いいよ……私、分かってるの。君は、優しいから、断れないんだ、よね。もう、甘えないから。今の、最後だから許して、ね」

 揺れるブラウンの瞳が真っすぐに僕を見て、どうすることもできず、ただ首を縦に振った。

 誰も傷つかない方法が他にはないのだろうか、この静寂を破れずにいると突然、奈々子の部屋の扉が開いた。そこに立っていたのは、廊下で話を聞いていたのだろうアオだ。

 そして彼女は、僕らを見て言う。

「あるよ、一つだけ。誰も傷つかないでミオちゃんを助ける方法……知りたい?」

 時間が止まったかのような錯覚、しかしはっとして僕と奈々子は、互いに見合い、それから頷いた。するとアオは、快活な笑みを浮かべて奈々子を見る。

「気が付いてるとは思うけど、今の私の見た目ってさ、多分、十六歳に成長した姿なんだよね。つまり武村博士、ううん、お母さんは、本当はあるはずだった私との五年間を取り戻したいって思ってるんだと思う。だから、そこで私は考えたの」

 彼女は、きめ顔で、続ける。

「五年分の誕生日プレゼントをお母さんに贈ろうと思う。そうしたら、失われた五年は、返ってくるし、お母さんもきっと満足してくれる。それでミオちゃんのことをお願いすれば、多分オッケーしてくれるはずだよ」

「……あの、一番部外者の僕が言うのも申し訳ないんだけれど、そんなに上手くいく?」

 いや、質問するまでもないことだ。そんな単純な方法で上手くいくはずがない、そう思ったのは、僕だけではないらしく奈々子もこちらに同調し、しかしアオは、

「大丈夫、大丈夫。お母さん、単純だから」

 何て単純なんだ、この子。そう思って、けれど、先程の空気を引きずっている僕は、言葉を呑む。というか、もしかしてそれが秘策、じゃないだろうな。

「そうして私が消えて、ミオちゃんが帰ってくると……我ながら完璧過ぎないか、これ」

「あ、あのさ」と自画自賛に耽っていたアオに奈々子が手を挙げる。

 そこから先に続いた言葉は、実のところ僕もずっと気になっていたことだった。

「あ、アオイちゃんは、じ、自分が、き、消えるの、い、嫌、じゃないの?」

「……」僕も静かにアオを見る。けれど彼女は、微笑みを崩さずに答えた。

「嫌じゃないよ、だって本当なら私、もう死んでるんだもん。いやまあ、死んだのはオリジナルだけど、でもそれってさ、ずるいじゃん? 強くてニューゲームとか卑怯でしょ?」

 そして、次にアオは僕を真っすぐに見て言った。

「私は、死んだ。その事実は決して消えないし、変えられない。だから私は、一生小学生のままだし、中学校も高校にも本当は通えないはずだった。啓一くんなら、失ったものは帰ってこないって、分かるよね?」

 事実は、消えないし、変わらない。

 彼女を見捨てた事実は、決してなくならない。

 僕は、そのことを。

「お母さんも、私も、そのことを認めないといけない。前に進まないといけない。だからさ、本当に申し訳ないけど、啓一くんと奈々子ちゃんには、私たち親子の尻拭いって言うのかな? 女子高生がこんな言葉使うなんて何かやだな……でもまあ」

 彼女は、僕らに向かってはにかむと、それから深々と頭を下げる。

「今は、人も時間も何もかも足りないんだ……だから、私を助けてください」

 僕にそれを断る理由は、ない。だから彼女の提案を実行するための実質的な決定権は、僕ではなく奈々子に委ねられていた。彼女がどう答えるか、僕は不安を隠し、言葉を待つ。

 そして。

「な、何週間、あったら、た、足りる? わ、私に出来るのは一応、四週間、までだけど」

「うん、じゃあ四週間で。お母さんの誕生日は、十月二十四日だけど時間が余っても困ることはないよね」

「わ、分かった。じゃ、じゃあ奥のラボで、すぐにメインファイルにアクセス、する」

 奈々子は立ち上がり、慌ただしく部屋を出て行くと、アオもその後に付いて行った。取り残された部屋の中、壁掛け時計の秒針が動く小さな音が聞こえる。

「はあ……どっと疲れたなあ」

 何かが、止まっていた物事が動き出した。そのことへの期待を吐き出した言葉の中に含めると思わず微笑みが浮かんだ。

「ああ、そう言えば啓一くんっ!」戻ってきた奈々子が僕に言う。

「プレゼント、何渡すか考えといてっ! 五個だかんね! んじゃ!」

「は? え? アオ!?」

 何にも考えてなかったのかよ、僕の一秒前の期待を返してくれ。

「はあ、誕生日プレゼントねえ。だけれどまあ」

 きっと、上手くいく。根拠のない自信が僕にはあった。

 大切な誰かを失っても、いつかまた人は前に進み始める。

 その日の夜、眠る前に僕は、ミオと訪れた夫婦の家のことを思い出して、そんなことを柄にもなく思ったのだった。


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