第六章 その二
「おひさー奈々子ちゃんっ!」
「うわぁっ!? み、ミオさん……? だ、抱き着いてきたりして、ど、どうしたの?」
「やだな~私はアオイだよっ! 小学校ぶり、じゃなくて先週ぶり? まあいいや、こうやって触ってみるとおっぱい大きくなったね~もみもみ」
「やんっ……って、あ、アオイちゃん!? え、えっと、て、ことは……あ、か、加藤君?」
「…………」
「け、啓一くんっ!? は、鼻血が出てるよっ! ちょっと誰かティッシュ持ってきて!」
ゲームセンターを出てアオに案内されるまま付いて行くと、そこは住宅街にある一軒家、奈々子の家だった。入って早々、とんでもない光景を目の当たりにした僕だったけれど、そのことと鼻血が関係しているのかどうかを科学的に証明することは、二〇四三年の技術をもってしても不可能だろう。だから僕は、その後も何事もなかったかのように振る舞い、奈々子の部屋で小さなウサギのテーブルを三人で囲み、交渉を始めることにした。
「あ、あのさ、奈々子ちゃんと啓一くん……もっと元気出していこうよ……ね?」
横たわっていた重い沈黙、空気に文字が書いてあるなんて決して僕は、思っていないけれど、察するに奈々子も僕らがここへ来た理由を理解しているようだった。
そして今、僕が彼女に対して、どういったベクトルの感情を抱いているのかも、きっと理解している。何も信じられない、彼女が今ここで何をどう釈明したとしても、僕は、その言葉の欠片さえも受け取る気になれなかった。僕の知る、彼女の全てが嘘だったのだから。
だからそのことには、もう触れない方がいい。僕は、割り切って口を開いた。
「単刀直入にお願いするけれど、ミオの上書き、アオのアップデートを止めて欲しい。奈々子先輩なら、武村博士と共有している管理者権限でどうにかできるんですよね?」
しかし、奈々子は俯いて、すぐには答えなかった。
「奈々子先輩……聞いてます?」
こんなの僕らしくない、こんな問い詰めるような言い方、けれど焦燥が僕にそうさせる。間を置いて、ようやく奈々子が答えた。「い、い、い」
「何です?」
「い、嫌だ」
「は? 何で?」
抑えきれず吐き出してしまった声は、酷く冷たいものだ。つい言ってしまった、そう思ったときにはもう遅く、奈々子のこちらを見る目は、怯えていた。
怯えて、まるで僕が怖いみたいに震えている。
どうしてそんな風に僕を見るんだ、何もかもが演技だろうに。そう思うと、静かに奈々子への怒りがふつふつと、その音を大きくした。
「わ、わ、わわ、私っはっ、み、みみみ、ミオさん、の、こと、ここ、ことっより……」
「もういいよ、二人でどうにかしよう、アオ」
「ちょ、ちょっと啓一くん……」
話している時間が無駄だ、言って僕は、部屋を出て行こうと立ち上がる。そうして身を翻したそのとき、がたんっ、そんな音がして僕の腕を温かい何かが、きっと人の手に掴まれた。
「ま、待って……か、か、加藤君……」
震える声で、けれど僕を呼び止めようとした奈々子の行動にほんの少し驚いて、ちらりと振り返ると、彼女は机に身を乗り出していた。
それは、泣き出しそうな真っ赤な顔で、けれどその気持ちを押し殺すように笑顔を張り付けていたことだ。
「お、お願い……」
どうして今、この状況でそんなことができるのか分からない。必死になって呼び止めようとしていることも、きっと演技だ。
「い、いか、ない、で……」
そんな気がして、そんな思考が不意によぎって、そんな不安がやがて僕の中に塊となって残ると、彼女の笑顔がいやに醜くいものに思えた。
「うるさい」
「ご、ごめん、ね」
こんなときに、笑うなよ。
「どうせ、嘘なんだろ」
「う、う、嘘、じゃ、ない、よ」
僕の腕を握り締める彼女の細い手、それを見つめて僕は言う。
「嘘だったんだろ……全部、男が苦手ってのも」
そう、全部。
何を信じればいい。
僕は、奈々子の顔を見つめて、彼女との思い出全てを引き裂きたい、そんな衝動がふつふつと沸き起こってくる。引き裂きたい、無かったことにしたい。
あの日、ラボで飲んだ紅茶の味も。
僕のことを優しいと言った彼女の声も。
観覧車の中で、一緒にいると楽しいと伝えてくれたことも。
海も、岩場も、夜も。
想いも全て、思い返すだけで……思い返すだけで。
「……信じてたのに」
未練がましく女々しく、吐き捨てるように言って、彼女の手を振り払った。それから背後で彼女が崩れ落ちるような音がして、けれど僕は構わず家を出た。
熱に浮かされたみたいに身体が熱くなっているらしい、そのことを夜風の冷たさに教えられて、歩き始めてからそう遠くないところで僕が立ち止まると、遅れて別の足音が後ろから聞こえた。アオだろう。
「どうするの? 奈々子ちゃんなしでさ」
「分かんないよ……何か、ないのか?」
「ない、あと三日じゃ、考える時間もないね。つまりこのままじゃ詰んでる」
どうしたらいいんだよ、悩んで、それでもやっぱり分からない。「説得するしかないよ」
「説得って……一体どうやって」
「んーそうだね、実は、私には秘策がありますって言ったら知りたい?」
「秘策……?」振り返るとそこには、まるで僕がそうすることを予測していたかのように、目と鼻の先、アオの瞳がこちらを待ち伏せていた。
「教えてあげてもいいけどー、私的には、奈々子ちゃんとは仲直りして欲しいなあ」
そんなの、今すぐには無理だ。きっと彼女だって、僕だって冷静じゃない。
「でも今すぐじゃないと啓一くんも、奈々子ちゃんも仲直りできないよ。多分。だって二人は、私がこうして啓一くんを無理矢理連れてこなきゃ会おうとしなかったでしょう?」
「それは、そう、だけど……」
「だけど? 学園祭でさ、あんな振り方しておいてまた会おうなんて言えた?」
「…………」
「私、奈々子ちゃんの従姉妹だから言っとくけど、あの子は自分から動いてくれるタイプじゃないよ。むかしっから臆病で、思っていることもまともに話せないタイプだった。でもさ、そんな子がさ、演技だったとしてもさ、あるいはそうじゃなかったとしても、誰かに告白したって凄く頑張ったんだと思わない? 一体、何が奈々子ちゃんをあそこまで動かしたんだろうね……ねえ」
鈍感な啓一くん、と奈々子が三白眼の瞳で僕を見る。
「あ、もちろん、その理由も知った上で、あんな風に突き放したんだよね?」
「え、えと……」
「何で目を逸らすのかなあ、啓一くん?」
言われて僕は、眉間に皺を寄せたアオの表情と、こちらに向けられていた感情の正体に気が付いた。思わず僕が一歩後ずさると、しかし彼女も一歩にじり寄ってくる。
何だかすごく、
「ご、ごめん……僕が悪かった」
アオは、怒っていた。
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