第五章 その三
「あれ、啓一。お前、昨日にも増して疲れた顔してんな。息抜きしてたんじゃねえの?」
「息抜き? 何言ってんだ、忙しすぎてぶよぶよしてる暇もないよ」
翌日、そんな会話を渉とした日の放課後、いつも通り実行委員の管理業務を終えて僕がコンピューター室を訪れると、そこにはただ一人、立ち尽くしたミオがいた。昨日は集まってくれていた先輩方の姿もないし、何かあったのだろうか。「あれ? みんなは、いないの?」
そんな僕の問いかけに、しかしミオは、答えることなく慌てた様子で部屋を出て行ってしまう。何かがあったのは間違いなさそうだ。
ミオの後を追いかけて、そうして行きついた先は第二学年の教室だった。「ちょっとミオ、どうするつもりだよ」そのままの勢いで扉を開くのかと思い彼女を宥めようとした僕だったけれど、彼女は自分を落ち着かせるように立ち止まって、それから、
「突然ごめんね、ちょっと先輩に用事があって。加藤君は、ここで待ってて」
教室で見せている優し気な笑みを作った。隠し事をしている、たとえ僕じゃなくたって察しがついてしまうくらいに不自然な笑顔を見せた彼女を放っておけず、僕は、文化祭のことならば自分にだって関係があると引き下がらなかった。
「……分かった。でも、その代わり何があっても、何を言われても反応しないで」
意味深な言葉、その意味を考えているとミオが一人、僕を残して教室の中へと入ってしまう。訳が分からない、何を心配しているんだ。結局、思考がまとまらないままに彼女の後を追いかけると、文化祭の出し物を準備していたのだろう、他の生徒も大勢、教室に残っているようだったけれど、そこには、金髪の嫌な女がいた。「あれえ、実行委員の加藤君じゃん」
女は、何やらミオと話していたようだが、僕を見るなりわざとらしく大きな声でそう言ってこちらを指さした。
腹の立つ笑みだ、そう思って、しかし僕は、自分に向けられた視線が彼女だけではないことに気が付く。
自分に集まっていた視線、それは、
「あんたさあ、自分がしでかしたこと分かってんの?」
この教室の生徒全てが僕に注目している。その目に浮かぶ感情は、はっきりと分かるくらいに負の感情だった。「僕がしてしまったこと……?」一体全体、何のことを言っているんだ、混乱して首を傾げると女がミオを差し置いて、僕の前まで来たと思うと立ち止まった。
「これ、あんたでしょ」
そう言って女は、僕の前にスマートフォンを突き出す。そこに映っていたものは、
「奈々子先輩……僕?」
中庭。ベンチで隣り合うように座った二人の男女、手を重ねている僕と奈々子の写真だった。「あんた実行委員でさあ、二年の先輩たちに手伝ってもらってたんだよね」
女は、周囲へ聞こえるように声を張って続ける。
「自分だけ遊んでんじゃないよ」
「違う、これは、遊んでたわけじゃ……」
「じゃあ何してたの……? 言ってみなよ」
少し休憩していた、いや、それを素直に言ったところで見苦しい言い訳にしかならないだろう。考えて、思いつかず無意識に視線が泳いでしまい、そして僕は見てしまった。
「ちが、う」
遠目に僕を見て、ひそひそと口を動かす生徒の姿、僅かに歪んだ眉根、重い空気、教室中から向けられる視線が突き刺さるように鋭いものへと変わっている。
まるでそれは、僕が小学生だった頃、親友の教室に足を踏み入れたときみたいに。
「何が違うのか、言えよ。何も違わないよね」
女が一歩進み出て、そうすべきではないのに、僕は一歩後ずさってしまう。
逃げ出したい、この場所から。僕は、またそんなことを、妙な脂汗が額に浮き出てくる。
教室の壁がいつの間に迫っていたのだろうか、気が付けば追い詰められていたそのとき、
――がしゃんっ。
激しい衝撃音、視線の先には女の席を蹴り倒したミオの姿があった。
こちらを見る彼女の表情には、先程まで張り付けていた笑みなどどこにもなく、見る者を貫くように鋭い、剣呑な目が光っている。思わず、冷たいものが背筋に走った。
ぞっとするほどの、物言わぬ怒りを前に教室が静寂に包まれると、そこでようやくミオは、口を開いて、
「本当に、これだから無能は」
淡々と呟いた。
その声を聞いて、女は小さく肩を震わせる。まるで怯えるように一歩後ずさって、そんな彼女を追い詰めるようにミオは、一歩距離を詰める。凄惨な笑みを浮かべながら。
「無能は無能でも、記憶力は良い方なのね。まるで脳みそが入っているみたいよ」
「あ、ああ、あ、あ……あなたは」
「やめてちょうだい、それ以上話さないで。こんなしょうもない画像をネットに上げることが復讐になるとでも誤解しているあなたとは、口を利きたくないの」
ミオは、女を壁際まで追い詰めてもなお鋭い剣幕で捲し立てる。
冷たい声と言葉、それは今まで学校で隠し続けていた本性だった。
「大体、一年前の実行委員を担当したのは、あなたらしいじゃない。自分が取り返しのつかないことを起こした主たる原因でいながら、尻拭いをしてあげようという後輩の足を引っ張るなんて無能以外の何ものでもないわ。この間は、なまじ立場が偉いばかりに退学を免れたようだけれど、消えてしまった方がまだ全体のためになったんじゃないかしら」
骨を抜かれてしまったかのように腰を抜かしていた女を見下してミオは言う。「さっさと投稿を取り消しなさい。さもないと、本当に地獄を見ることになるわ」
それから、女が言う通りにしたのを見て、彼女は呟く。
「あなたたちみたいな無能は、手だけ動かしていればいいのよ」
――はあ、ほんと疲れる。
沈黙に包まれた教室で、彼女の声がこだまするみたいに暫く残った。
「戻るわよ、加藤君」
※
そのままコンピューター室に戻った僕らだったけれど、廊下を歩く間、何と言うべきなのか思いつかず終始無言だった。恐らく奈々子と僕があの女に嵌められてしまったのだろうけれど、元はと言えば話し合うのにあんな開けっ広げな場所を選んだ僕の責任だ。後で奈々子にも謝っておかなければならない、けれど一番の被害を被ったのはミオだ。
彼女はきっと、僕を庇って隠していた性格を曝け出したのだから。
僕のせいだ、それもあって何と声を掛けるべきなのか分からなかった。
けれど、部屋の扉を閉めて振り返ったそのとき、
「え、何やってんの……」
彼女は、入学初日に僕が拾った黒いメモ帳を目の前で引き裂き、それが紙くずになると宙へ放り投げた。そこには、ミオの目的が、ノルマが記されていたはずだろう、そんな言葉は、目前の光景へ吸い込まれて儚くも消えていった。
舞う紙吹雪、部屋の明かりが反射して光の粉塵にも見えたその情景へ呆気に取られていたけれど、次の瞬間には、本物の桜吹雪のように澄んだ甘い香りがして、
「ごめんなさいっ……私」
舞い散った紙切れが床に積もる頃、僕は彼女に抱きしめられていた。
「ミオ……?」
「もう……ノルマなんて、達成できない、から」
各学年に友達を三十人ずつ――。
――恋人を一人。
一体どうするべきなんだろう、その声が怯えているかのように震えていて、僕は黙ってその言葉を聞いた。
「せっかく、ここ、までやってきたのに……きっと、誰かが、教室でのことも、撮影、していたでしょうし、明日になれば私は、みんなからの信頼をなくして、しまう」
僕らが積み重ねてきたもの、いや、彼女が懸命に積み上げてきたもの、それが崩れるのは一瞬だった。その重みは、元々一人だった僕なんかには計り知れないもので、だからこうして僕は、黙ってその話を聞くことしかできないでいる。
僕のせいなのに、その悔しさで拳が震えた。
「私っ……何も、できなかった……ごめん、なさい。ごめん、なさい」
その謝罪は、誰に向けられたものなのだろうか。きっと、僕ではない。どこか遠くにいる存在へ向けられているような、そんな気がした。けれど、それが誰に向けられたものであったとしても僕には関係ない。
「……僕のせいだよ」
震える彼女を見ていられなくて、きりりと痛む胃を抑えて声を振り絞る。
「だから、最後まで手伝わせて。失敗したって、その責任は僕が持つから」
「加藤君……」
そうして顔を上げた彼女は、涙のない綺麗な顔している。
けれど、それは胸を締め付けるような泣き顔でもあった。
彼女は、僕に言う。「一つだけ、面倒なことを、聞いても、いい?」
「こんな私でも、あなたは、あなただけは、友達で、いてくれる……?」
答える代わりに僕は、彼女を抱きしめた。
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