第五章 その二
「啓一、お前なんか最近疲れてね? 目の下のくまとかやべえぞ」
「ああ、僕ほどになると眠ることも忘れて勉強してしまうからな。危ない危ない」
言われなければ、うっかり死ぬところだった。
「さっきの授業で居眠りしてるように見えたんだが」
「き、気のせいだろ……」
渉とそんな会話をしたのが今日の昼休み。どうやら僕の疲労は表情に出てしまっているらしい。それじゃあいけないな、そう思った放課後、僕はプログラミングルームの扉を開く前に自分の頬を軽く叩いた。「遅くなってごめん。今、進捗はどう?」
プログラミングルーム、数日前までは僕と彼女だけの寂しいコンピューター室だったが、SNSでミオが呼びかけた甲斐あって、数人の生徒が集まってくれている。僕が中に入るとミオは、作業していた手を止めて表情を綻ばせた。
「みんなのお陰で順調よ、これなら何とか間に合いそうだね。本当に頼って良かった……。加藤君の方はどうだった?」
実行委員が受け持つ業務は、なにも3Dアート祭の準備だけではなく各教室の出し物、その予算管理や資材の準備までを担当している。けれどまあ、こちらの作業に比べれば随分と楽なもんだが。「僕の方は、まあ一通り。そっちの作業に合流するよ」
とは言え実際問題、人員が増えたことは喜ばしいことだけれど、まだまだ人手が充足しているとは言えない状況だろう。その欠員を僕なんかが補えるだなんて、そんな驕りはないのだけれど、一人でも作業員は多い方がいいはずだ。徹夜明けの脳みそがどこまで頑張れるのかは分からないけれど、昨晩だってプログラミングを頭の中に叩きこんでいたんだ。
これだけやったんだ、少しくらいは力になれるはずだろう。
そう信じて僕が席に着いたそのとき、
「あんたら、上手くやってんのー?」
扉が乱暴に開かれたと思うと、何の躊躇いもなく踏み入ってきた金髪の女子生徒。
相変わらず着崩した制服がダサいな、忘れもしないよ。その不愉快な存在は、僕を見るなり下卑た笑みを浮かべる。
「おひさー、あんた実行委員だったんだ」
「……僕は、てっきり退学になったと思っていたんだがな。親のコネでも使ったか?」女を睨みつけて僕は言う。「何の用だよ、用がないなら帰ってくれ」
「こわーい、手伝って欲しいって言うから来てあげたのにー」
「手伝うだって? お前みたいなのは、願い下げだ」そう言いかけて、しかし、
「手伝いに来てくださったんですね、先輩。凄く助かります」
ミオが僕らの間に割って入り、女を宥めるように微笑みを見せる。果たしてミオの笑顔でこの場を収めることができるのだろうか、僕らはこの女に復讐されたっておかしくないくらいのことをしている、二人が視線を交わしている間、緊張で手が汗ばんだ。
またしても一触即発の事態、しかしそれは、僕の杞憂だったようだ。
突然に女は、気分良さげに笑って言った。「あー良かった。まともな子がいて」
どういうことだろう、あまりにショックが大き過ぎて記憶を失くしてしまったのだろうか。そうならば、ぜひともそのままにしておきたいところだが、考えて僕は「……あ、なるほどね」あることを思い出した。あの日、女と対峙していた僕と奈々子の前に現れたのは、ミオではなく紙袋仮面だったのだ。抜かりないな、さすが過ぎる。
ミオは、女が席に着くのを見守ってそれから僕に言った。
「そうだ、加藤君。少し休憩してきたら? 可愛いお客さんも来てるみたいだしさ」
目で扉の方を指した彼女、僕がそれに従って視線を動かすとそこには、
「奈々子先輩……?」
気まずそうに俯いていた奈々子が、けれど真っすぐに僕の名前を呼んだ。
「加藤君、い、今……いい、かな」
※
――難しいことは、考えたくない。難しいことしか考えられなくなるから。
「と、突然、ご、ごめんね……あ、あの子に跡、つけられてたみたい……」
高い空に秋の静かな雲が斜めに流れる放課後のひととき、大きな桜の木が一本、中庭の中心で赤く色付いたそれを眺めながら、僕と奈々子はベンチに腰を下ろした。
「え、えと……思えば、ひ、久しぶり、だね」
緊張しているのか上ずった声で話し出した奈々子。確かに僕らは海での一件以降、電話口で感謝を伝えたきり直接話したのは、今日が初めてだった。彼女からは、あまり気にしなくていいと言われていたが、そうもいかないだろう、改めて僕は感謝を伝えた。それと、
「おめでとうございます。男性への苦手意識を克服できたみたいで……その色々ありましたけれど、結果的には」
夏休みの目標を達成できたのだ、色々、あったけれども。
色々、なんて言い方をした僕の意図としては、お互いの気まずさを軽減するためだったのだが、しかし返ってそれが良くなかったのだろうか、奈々子は頬を赤くして俯いてしまった。
「そ、そそ、そうだねっ、た、達成できたね……ちゅ、ちゅ、ちゅー」
「……」隠したのに。まあ、命の恩人である奈々子のことを咎めるような真似、僕にはできなかったけれど。「あ、あのさっ」
「今日、か、加藤君を呼んだのは、そのことじゃなくて、ね」
勝負の、こと、憶えているかな、と彼女は一言挟んで続けた。
「も、もし私が、勝ったら、い、言うことを一つ聞くって、約束」
約束、そのことは、僕も憶えていた。既に何をしなければならないのかまで記憶している。
大きく息を吸って――吐き出すまでの間に僕は、自分の心に問いかけた。
正直なところ、文化祭の準備に追われていたこともあり、あの日の失恋のことも、そして、今の自分がミオのことをどう思っているのかも、しっかりとは考えられていなかった。
いや、考えないようにしていた。
「そうですね……僕は、答えなければならない、ですね」
考えて――アンドロイドと人間は、本当の意味で情を育むことはできない、そんなミオの言葉を思い出す。
言われてみれば、まったくもってその通りだろう。僕はずっと、消しゴムを拾ってもらったあの日からミオのことを意識してしまっていたけれど、冷静になってみれば彼女は、アンドロイドなのだ。
「僕と彼女は、人間とアンドロイド、ですから」
そんな正論が、僕の中にあったぼやけた感情を、彼女と重ねてきた日々を覆い隠す。
隠して、見えないように、見えていないように、僕は答える。
「そこに恋愛感情は、ありませんよ」
考えないようにするのは苦手だが、無かったことにするのは得意だ。
親友を見捨てたときのように、ミオへの想いも、きっといつか消えて無くなる。
「そ、そっか。あ、ありがとう……教えて、くれて」
迷いを断って隣を見ると奈々子は、膝の上で重ねていた手をじっと見つめていた。この間から気になっていたのだけれど、彼女はどうしてそんなことを知りたかったのだろう。
「それは、その……」
彼女は、解いていた手を握り締めて、
「好き、なんだ――加藤君のこと」
不安気に瞳を揺らし、僕を見て言った。
告白されたのか、あまり実感はなかったけれど、遅れてそのことを理解する。それは、何でもない言葉のやり取りみたいだった。
「どうして、僕なんですか……?」
僕にはきっと魅力なんてないはずなのに、心の中の黒い部分が漏れ出したみたいに言っていた。自信のなさが露見してこんな自分が嫌になる、告白してくれた彼女に申し訳なくて思わず僕は俯いてしまった。
すると奈々子は、そんな僕の手に自分の手を重ねて、
「わ、私、ほ、本当はまだ、克服、できてない、の」
「克服できてない……?」
うん、彼女は呟いて続ける。
「男の人に触れられた、のも、加藤君だったから、できた。私を助けてくれた加藤君だったから、いつも優しくて、一緒にいると楽しくて、安心できる、の」
奈々子を助けた僕、彼女の言葉を反芻して、しかし僕は、彼女が見ている僕は。
きっと、本当の僕じゃない。
彼女が思っているほど優しくないし、面白い人間じゃない。
ネガティブ思考で、卑屈で、面倒臭い人間だ。
「か、加藤君……」
嫌な沈黙が続いて、何かを答えなければならない、そんな思いが僕を追い詰め始めたとき、
「へ、返事は、いつでもいい、なんて、言うと、少し、怖いから、文化祭が終ったら」
彼女が、ぎゅっと、僕の手を強く握る。「奈々子先輩……」
それでも、心の黒い何かが消えてはくれなかった。
※
遅れてすみません……




