第一章 その一
放課後、ホームルームが終るなり隣の席に座る武村ミオは、突然クラスメイト達に連絡先を交換しようなどという、陽の者のみが許される距離の詰め方、盤石のスタートダッシュを切った。当然ながら彼女は、人を選ぶことなくそして余すことなく、ボッチ生活にも飽き飽きしていた僕に対しても声を掛けてくれて、それに対してもちろん僕は、
「せっかくミオちゃんがみんなと連絡先交換してくれてるのに、何で断ったんだよ」
「どうせ、ノルマのために交換するだけして連絡なんて取り合わないんだから、SNSだけ謎に繋がってる状態になるのがオチさ、だったら連絡先なんていらないよ」
変に期待して傷つくくらいなら原因を作らないようにするのは、当然のことだろう。
まったく、おかしなことを言うぜ。僕のクラスメイトくんは。
「お前、すげえ捻くれてんな……つーかさ、今更だけど啓一って携帯とか全然触んないよな。あれってどうしてなんだ?」
「ああ……えっと、携帯電話持ってないんだよね」
とっさに僕は、本当は携帯電話を持っているのに嘘をついてしまった。
「何で買わねえの?」
「そ、それはね……」
言えないよな、連絡先にお母さんしかいないことがバレないよう隠すためなんて。
「ま、まあリンク依存症とか色々、最近は、ストレスフルな世の中だから通信機器とは距離を置いて生活しようと思ってね……」
「はあ? よく分かんねえな。ま、いいや。じゃあ俺、部活行くわ」
彼がそう言って鞄の中に教科書を詰め終えたタイミングで、オート開閉のカーテンが駆動音をたてて動き出し、教室に外の空気と光が入り込んだ。自然光はわずかな温かみをもっていて反射的に身震いしてしまう。そんな僕の反応に渉はにやりと笑みを見せて、しかし、何も言わず鞄を持って教室を出て行った。眩しい奴だ、僕とは住む世界が異なる本来の居場所へ戻っていったか。この学校は東京でも有名な部活動強豪校で生徒の九割がなんらかの部活に所属しているのだ。帰宅部最有力選手である僕を除いて。
「ミオちゃんは、部活動とかも入部するの?」
「ううん、そういう予定はないかなあ。学校が終ったらすぐ研究所に戻らないと」
僕だけじゃなかった。
窓際の最後列、群れの中から一つはみ出したように存在していた僕の席。
転校してきたばかりのアンドロイド女子高生は僕の隣に座席を置くこととなった。彼女が教師や生徒という立場を問わず、誰からも注目を浴びる様子をぼんやりと観察していたけれど、みんな彼女のことをちやほやし過ぎだ。質問する声がうるさい上に、彼女の方に視線が集まったせいで僕は居眠りができなかった。いや、居眠りをしても誰も気付いてくれなかったせいで六限を寝過ごしてしまったんだ。これで授業に遅れが出たら責任をとってくれるんだろうな……いやまあ、とんでもなく理不尽か。
「じゃあまた明日ね、ミオちゃん」
クラスメイトの言葉に快活な笑顔で返すミオ。その様子を視界の隅に捉えながら、彼女は本当にアンドロイドなのだろうかと、そんなことを考える。
高機能AI「アオイブック」をOSとして搭載し、全身の筋肉を数十個もの小型アクチュエーターで再現しているため限りなく人間に近い動きが可能。白くきめ細かい肌は、人工たんぱく質によって形成された生物皮膚、声帯は存在せず、代わりに声優の声を音声コード化した波長音声を発しているらしい。太陽光発電によるフル充電で起動時間は二日間、食事、睡眠、呼吸の一切を必要としない。
僕は機械知識に疎いため全て彼女の受け売りだが、確かそんなようなことを言っていた。構造を聞く限りではすごく簡単そうに思えるけれど、一体全体どこまでが真実なのだろうか。見た目も話し方も、まるで人間そのものだ。
しかし、一体全体どうして僕は、彼女のことをここまで気になっているのだろう。
「スカート、タイツ、スカート、生足……」
その理由はよく分からないけれど、アンドロイド嫌いである僕の気をここまで引くなんてまさに恐るべし、タケムラテクノロジーの最新機械だ。一人納得して小さく欠伸をすると、僕は体の内側に溜まっていたらしい疲労に気が付き、固まった関節をほぐすために机の上に置いていた両腕を伸ばす。するとブレザーの袖に引っかかったのか置きっぱなしだった筆箱を落としてしまった。「まじかよ……ああ、もう」
シャープペンシルにボールペン、定規にスティックのり、それらを筆箱の中へと仕舞い、しかし消しゴムが行方不明であることに気が付いた。嘘だろ、僕のお気に入りがなくなるなんて。
「ぶよぶよ消しゴムかあ、加藤くんって可愛らしいの使ってるんだね」
そのとき、甘い匂いと澄んだ声が僕の頭上からふんわりと降ってきた。ふんわり、そう表現するのが適切に思えるような、物腰柔らかい話し方である。
武村ミオ、彼女のまっすぐな瞳に呆けた僕の顔が映っていた。近い、僕が見上げたせいもあって目と鼻の先に彼女の顔がある。どくんと音を大きくさせる心臓は、僕から思考能力を奪う。不覚にも、その美しい表情に見惚れてしまった。
「はい、どうぞ」
言って彼女は、だらしなくぶらさがっていた僕の腕に触れ、手の平にぶよぶよの消しゴムを置いた。それは間違いなく小さくすり減った僕の物だ。
「……」
触れた彼女の指、その冷たさに僕は少し驚いてしまう。感触も見た目も僕らのものと変わらないけれど、そこに人の温もりはなかった。そのことに僕は、失っていた冷静さを取り戻す。見惚れるなんて馬鹿らしい、彼女はアンドロイドなのだから。
「こんなに小さくなった消しゴム、初めて見た。大事に使ってるのね」
言って微笑んだ彼女は、机の脇にかけていた鞄を手に取り席を立つ。
「落として失くさないようにね。それじゃ、加藤君また明日」
教室を出て行く彼女の姿が見えなくなるまで僕は、馬鹿みたいに固まっていた。
彼女の手の冷たさが残る左腕、その手の平の上で、赤いぶよぶよ消しゴムがグミのような体についた大きな二つの目でこちらを見つめている。
「お前、可愛らしいってさ」
呟いて耳たぶが熱くなってしまう。
彼女の匂いと声が頭の中で思い出される。
あのとき感じた甘い匂いは、香水でも付けているのか。
考えて、不自然に鼓動が高鳴る。
「何してんだか、プログラムだろ」鼓動をかき消すように呟いて、消しゴムを筆箱の中に仕舞い鞄を手に取った。しかし、席を立ちそのまま教室を出ればいいものの僕は一度、隣の空席を見つめる。明日も武村ミオは、学校へ来るのだろうかと空いた椅子を見て思ったのだ。
「メモ帳……?」
そんな無駄な挙動によって僕は、彼女の椅子付近の床に黒いメモ帳が落ちていることに気が付いた。誰かの落とし物だろうか、他人の物を覗き見るような趣味はなかったけれど、見たところ表紙には何も書いていないし仕方がない。若干の罪悪感を伴いながら開いた一ページ、それを見て僕はある言葉を思い出す。「落として失くさないようにね、か」
※
当然ながら、クラスメイトの落とし物を見つけたら放課後であっても可能な限り届けてあげるべきだろう。僕はあくまで自身の良心に従い、教室を出て行った彼女を追うことにした。良心以外に僕を動かす理由はない。個人的な関係を持ちたいという下心は、今さっき捨ててきたつもりだし、数行前の決意を覆している気がしなくもないが、彼女はアンドロイドだ。どれだけ可愛かろうと、どれだけ美しくても、どれだけ仲良くなれたとしても、どれだけ魅力的な生足を持っていたとしても、そりゃあ恋愛対象外だろう。
「どこに行くつもりなんだ」
雲の隙間から晴れ間が姿を覗かせる放課後。学校を出て帰宅途中の高校生たちがちらほらと見える住宅街まで歩き、ようやく僕は、アンドロイド女子高生に追いついた。赤く輝くカチューシャが特徴的であり、彼女を見つけることは別段難しいことではなかったが、問題は僕が話しかけられずにいることだ。二十メートルほど先を歩く彼女に僕は、何と声を掛ければいいのだろう。
「これ、落とし物。君のだよね、良かったらこの後ゲームセンターにでも行かない?」
よし、これでいこう。いや、待て。これじゃあナンパと変わらない。普通にメモ帳を渡せばいいだけじゃないか。でも、それでいいのか僕。この機会を逃したら次はないかもしれないんだぞ。
そんな自問自答を続けている内に住宅街を抜けてビル群が建ち並ぶオフィス街に辿り着いていた。沿岸部に建てられたこの街は、地下トンネルを抜けると雰囲気ががらりと変わる。教室の窓から見ていたのはそんなオフィス街の一角だ。グリーンカーテンに覆われたビルの隙間から見える青々とした空、その元をスーツ姿の人々やAI車両がせわしなく行き交っている。
メモ帳を届けるだけなのにこんなところまで来てしまうなんて。これじゃあストーカーと間違われても言い訳のしようがなかった。
「しかも見失ったし……最悪だ」
二十メートル先の女の子一人尾行できない自分の間抜けさに思わず肩を落とし、溜息を漏らしてしまう。するとそのとき、誰かが僕のことを呼んだ。「加藤君」
「ここで何をしているの?」
どきりとして振り返ると、その声の主はアンドロイド女子高生、武村ミオだった。彼女は、僕の頭から足までを一通り見て、それから一歩前に近づいてくるとこちらの顔を凝視してくる。まずい、尾行していたのがバレてしまったか。教室とは何処か異なる雰囲気の彼女、その強い眼差しから逃れるようにして僕は、ポケットからメモ帳を取り出す。
「こ、これを届けようと思って……」
あわよくばお近づきになろうという真の目論見は、もう諦めるしかなかった。
僕が言うと彼女は、強張らせていた眉を弛緩させメモ帳へと手を伸ばす。しかし、メモ帳に指先が触れるか触れないかのところで、どうしてかその手を止める。
「加藤君、メモ帳の中身だけどもしかして見ちゃったかな……」
弱々しく不安気な声、彼女はやや俯きながらそう言った。
「えっと、その……ごめん。名前書いてあるかと思って」
「そっか……ここまでわざわざ届けてくれたんだね」
僕が思う以上に申し訳ないことをしてしまったのかもしれない、嘘でも見ていないと言うべきだっただろうか。彼女の沈んだ表情に嘘をつけなかった後悔を感じていると、僕の手からメモ帳が離れていった。彼女は受け取ったメモ帳をブレザーの内ポケットに入れて、それから教室にいたときのような穏やかな表情を浮かべる。「ありがとう」
言われて数秒後、何だか僕は胸の内側がむずがゆくなった。そんな僕がどんな表情をしていたのかは分からなかったけれど、彼女はこちらを見て、くすりと笑う。
ほんの一メートル先で、彼女は小さく首を傾げた。
「加藤君、これから時間あるかな。お礼もしたいし、よかったら遊びに行かない?」
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