第四章 その五
突然咳が出たらしい、覚えはないが自分の苦し気な声が聞こえて、それを理解する。
ぐわんぐわんと視界が揺れている、その中心にぼやけながらも見えたのは、艶やかな唇と潤んだ瞳、端にある青は空だろうか。
感覚、はっきりとはしないが胸の辺りに誰かが手を置いているらしく、やんわりとその重みを感じる。確か僕は、海で泳いでいて、それで、溺れて、マッサージを、心臓の、受けているのか。
「加藤君」
音、そのとき聞こえてきたのは、目の前の誰かが泣き出しそうな声で呟いた「……ほんとに良かった」だった。僕は、この人に助けられたのかもしれない。
けれど、髪色も匂いも、頬に触れた肌の感触も、今は意識が朧気で判然としない。それどころか目を開け続けられそうもなく、自然と視界は暗闇に呑まれていった。
「やっと目を覚ましたのね、加藤君」
夕暮れ、僕が瞼を開けるとビーチパラソルの下で、夕陽を眺めて佇むミオが隣にいた。あれからどれくらい時間が経ったのだろう、空の色を見たところ数十分程度では済まなそうだ。漠然と自分の意識が失われていた間のことを考えていると、帰り支度を済ませたらしいミオが立ち上がって言った。
「あなたは、どこまで憶えているの。今日のこと」
「それがあんまり。溺れたことは憶えているんだけれど、ミオが助けてくれたのか?」
一体誰が、僕を助けてくれたのか。僕の名前を呼んでいた辺り救急隊員ではなさそうだったけれど、誰なんだろう、お礼も伝えなければならないし、気になるところだった。
尋ねて、しかし僕を一瞥して彼女は、何も言わず手荷物をもって歩き出した。ビーチを出て行こうとしているのだろうか、何だかそっけない。慌てて服を着て、海水パンツも履き替えるべきか迷ったのだけれど、もう随分と乾いていたからそのままにミオの背中を追った。「そういえばさ、奈々子先輩は?」
その背中に話しかけると、彼女は立ち止まってくれたが振り返らずに答える。
いつにも増して冷めた声だった。
「奈々子さんよ」
「えーっと、だから奈々子先輩はどこに?」
「無呼吸状態になっていたあなたを助けたのは、奈々子さんよ」
意識が失われていた間、僕はそんな状態になっていたのか。しかし、無呼吸状態になっていたのならば、授業で習った程度の知識しかない僕にでも分かる。
心臓マッサージだけでは、適切な処置とは言い難い。
つまり奈々子は、男性に触れることさえ出来なかったはずの彼女は、僕に。
「あまり長い時間ではなかったけれど、あなたが目を覚ますまで人工呼吸を続けていたわ」
それから、とミオは続ける。
「この件に関して私は、何もしていない……いいえ、何も出来なかった。泳げないし、呼吸も出来ないから、だから、それだけ」
言い直してミオは、再び歩き出していた。
やらなかったのではなく、出来なかった。そのことに彼女が何を思って、どういった感情を抱いているのか僕には分からなかったけれど、妙な引っ掛かりを覚える。「待ってよ」
「どうしてそんなに、その、そっけないんだよ」
緊張、握りしめた手が汗ばむ。
「僕の勘違いかもしれないけれど、奈々子先輩のこと気にしているなら、あれは事故だろ」
言葉が返ってくるまでの間、心臓がいやにざわついて落ち着かなかった。
見えない、彼女が何を思ってそんな態度で僕に接するのか。
その掴めない心に対して、はやる焦燥感が僕の足を動かした。
落ち着きたい、安心したい、そんな願望は、しかしけれど、
「そうね」
返ってきた言葉は、たった一言だけだった。
返事がなかった方がまだ良かったのかもしれない。彼女が無視をしていたのならば、その後ろ姿を追うことが出来たのかもしれない。
けれど、彼女の声に混じっていた拒絶の色が僕の足を止めて、それからどれだけ手を伸ばしても、その背には届かなかった。
「ミオ……どうして」
濃霧が、僕の頭の中を埋め尽くしていった。