第四章 その四
日曜日の朝、切タイマーをセットしておいた冷房が時間通りに仕事してくれたお陰で、自室のベッドで眠っていた僕は、全身汗まみれで目が覚めた。極めて不快な感触と冷房の掛け過ぎを禁じている親の言いつけの間で悩み、葛藤した末に冷房を起動させることに決める。
しかし、「冷房つけて」そうエアコンに向かって命令しようと口を開いたそのとき、枕元に投げ置かれていた携帯電話が突然息を吹き返したみたいに音を鳴らした。
「ぶよぶよっ、してるよっ」
他人から借りた携帯電話の着メロをいじるなんてどうかとも思ったが、返すときに元に戻せばいいだろう。そんなこんなで着メロは、ぶよぶよのテーマソングだ。相手は多分奈々子か、いや、あんな断り方をしておいてもう連絡なんて来ないだろう。だったら誰だ。
「もしもし、私よ。私、私。誰かなんて名乗らなくても分かるわよね、私、私」
やはり奈々子じゃなかった。女の人みたいだけれど聞き覚えのない声、誰だろう。
「私よ、私、私。別の女と遊び惚けている内に友達の存在も忘れてしまったのかしら」
「ええっと」
友達だって? おいおい、これってもしかしてオレオレ詐欺ならぬ私、私詐欺なんじゃ。
オレオレ詐欺、それはこの世界に携帯電話が普及して以来、古来より進化し残り続けている特殊詐欺の代表的手法だ。最近は、変声マイクの普及により老若男女問わず標的にされていると聞いていたが、まだ十八歳にさえ達していないうら若き男子高校生である僕が狙われるなんて。
だが、そうはいくまい。なんたって僕には友達がいないのだから。
「失礼ですけれど、お掛け間違いでは?」
「確かに失礼したわ、ごめんなさい。あなたには友達なんていなかったものね」
当てずっぽうだとしてもなんて非常識な詐欺師なんだ、この世の中には触れてはならない事実だってあるというのに。何だか頭にきて僕は、枕元の携帯を手に取り電話を切ることにした。けれど、そこでようやく液晶画面を目にした僕は、
「あれ……ミオ!? でも、声が」
着信相手の名前に、アンドロイド女子高生の名が表示されていることに気が付く。一体全体何が起きているのだろう、もしや彼女の携帯電話がハッキングされているのではないか、戸惑う僕を前に携帯電話の向こうから深い、深いため息のような声が聞こえた。「はああ」
「言っておくけれど加藤君、携帯電話を通して聞こえる声は、実際の声とは異なるわ」
「ええ、そうなの?」
「固定電話のように有線タイプの物は、原理的に糸電話と同じで声をそのままの波形で伝えているのだけれど、携帯電話のように無線タイプの物は、全て機械が作り出した合成音なのよ。その工程は、音声を収音時にそれを音源とフィルターに分解し、それから固定コードブック、分かり易く言うと音の辞書から限りなく本物に近い音源を二の三十二乗、四十三億通りの組み合わせから探し出し、そうして選び出した音源をフィルターに通すことで相手に声を届けている」
「すげえな、知らなかったよ」
「その作業速度は、零点零二秒毎。私たちがこうして無駄なお喋りをしている間も、携帯電話は、せっせと音を作り出しているというわけ。電話機として生まれなくて良かったわね」
「……そう言われると何だか、話すのが申し訳なくなるな」
「いいえ、その逆よ。こうして無駄に、不必要に、ごたごたと語彙を並べることで、抗う術を持たない彼らに重労働を強いているのだと思うと、結構優越感に浸れるもの」
ろくでもない貴族のような口ぶりだった、最低過ぎるよ。けれど、その言葉を彼女に届けることにも携帯電話へ労働を強いているのだと思うと気が退ける、とりあえず僕は、言葉を体の内に留めておくことにした。
「というところで、こんな博学披露も下級機械虐めもここまでにして、本題なのだけれど、今日は、私の退院祝いとうことでお出かけをしましょう」
「退院……? メンテナンスが終ったってことか? 結局、原因は何だったんだよ?」
「ただの充電切れとアップグレードよ、心配するほどのことじゃないわ」
「アップグレード……?」
「私の身体でいやらしいことができるようになったのよ」
「いやらしいこと……?」
「そうよ、性的な部分に感覚が備わったの。端的に言って、性感――」
「やめて、やめて! 十八禁になっちゃうよ!」
フフフ、冗談はさておいて、と彼女は続ける。
「今日はデートをしましょう」
※
「奈々子先輩……一体どうして?」
「え、ええっと、その、あ、あの、きょ、今日は、み、ミオさんに誘われて」
僕らの街から電車に揺られること九十分、鎌倉駅で降りて徒歩数十分、そうして辿り着いた場所は、多くの人々が賑わう白い砂浜を通り抜ける風が潮の匂いを運び、眩しい太陽と光が揺らめく青い海だ。
そんな広い浜辺にあるビーチパラソルの下で僕は、予想外の再会を果たした。
ビキニ姿の美少女二人と海水浴に、本来ならば泣いて喜ぶべき状況なのだろうけれど、今の僕としては、反応に困るところだった。
「い、嫌、だった、よね……」
「そんなことは……ないですけれど」
何を話し出せばいいんだ、気まずさを感じてミオに視線をやると、しかし目を逸らされてしまった。もしかして僕と奈々子との間にあったことを知っているのか、だとしたら。
「ミオ、一体何のつもりだよ」
「何のつもりも何も、遊びは人数が多い方が楽しいもの。奈々子さんも、そう思わない?」
「え、えと、えと……そ、そう、だ、ね」
確信犯だった、僕が言葉にしなかった「どうして奈々子を呼んだのか」という疑問に答えられている。「さて」ミオは、奈々子の答えを聞いて頷くと一人パラソルの下にシートを敷いて横になった。一体全体放置された僕らは何をすればいいんだろう、さりげなく奈々子の方に視線をやるも、僕と同様に彼女もあのことを引きずっているらしく目を合わせようとはしてくれなかった。そんな僕らに向かって、サングラスを掛けたミオが言う。
「加藤君、海に来たのだから泳ぎに行ったらどうかしら。奈々子さんとね」
「……ミオは、泳がないのか」
「遠慮させてもらうわ、私が海水に浸かったら体の中が錆びてしまうもの」
だから、とサングラスを軽くずらしたミオは、こちらを覗き見て続けた。
「二人きりで楽しんできて」
※
気にしているのは僕だけなのか、泳げないミオがパラソルの下で一人風を浴びているのを遠目に見て、何だかなあと溜息が出る一方で奈々子は、波打ち際で準備体操と海水の温度に身体を慣らしている。「でもまあ」
気にしていたって問題が解決されるわけじゃない。少しずつでいい、そう思って僕が奈々子の方へ近づくと、それに気が付いた彼女が振り返った。
「そ、そう言えば、じゅ、準備体操しなくていい、の?」
「ああ、僕は体操しない派なんですよ。こう見えても運動は出来る方というか」
運動神経が良いからといって準備体操を省いていいとは、ならないのだろうけれど、僕は面倒臭さからそう答える。可能であれば体育の授業もこれで乗り切りたいくらいだ。
そんな僕の言葉をどう受け止めたのか奈々子は、遠慮がちにこちらを見て言った。
「も、もしかして、泳ぎに自信あるって、こと?」
「え? ああ、まあ、それなりには……苦手じゃないって程度ですけど」
「そ、そうなんだ……じゃ、じゃああんまり自慢にならない、かもだけど、私も得意」
じゃあさ、と奈々子は言う。「勝負しよう、よ」
「ゆ、遊泳エリア奥に魚除けの浮きが見える、でしょ? あ、あそこまで競争とか、どう、かな」
そう言って彼女が指さした先、ここから五十メートルほどの距離か、そこには確かに波に揺られる黄色の浮きがあった。まあこれくらいなら、僕は奈々子の誘いに首を縦に振る。「いいですよ」すると会話に慣れてきたのだろう、彼女の頬が、ぽっ、と赤くなって自然な流れで話を続けてくれた。
ルールは簡単だ、浮きに背を向けた状態から心の中で十秒数えて試合開始。先にゴール地点である浮きに触れた方が勝者で、ここから先が奈々子の提案した追加ルール。
「ま、負けた方は、か、勝った方の言うことを、ひ、一つ、聞く、の」
何だか面白そうなルールだと思って、僕はそれを受け入れることにした。
「さ、先に何をさせたい、のかだけ、き、決めて、おこう? そ、その、叶えられない、ようなこと、だったら、お、お互い、嫌、だから」
「それも、そうですね……うーんと」
どちらから言うべきなんだろう、こういうのって。考えていると奈々子が言った。
「か、加藤君から……お願い」
「僕がして欲しいことか……何だろうな。ああ、そうだ」
この前のこと謝らせて欲しい、そして許して欲しい、僕がそう言うと彼女は、驚いたように目をぱちくりさせて、やがて口元を綻ばせた。
「無欲、なんだ、ね」
「え?」
「ううん、何でもない。いい、よ……じゃあ次、私の、番」
そこで彼女は、一度大きく息を吸って、
「加藤君は、ミオさんのことが、す、好きなのか、教えて、欲しい、かな」
「……」
どう答えるべきなのか迷って、けれど僕は、思いのほか落ち着いたままに考えて答えた。
「いいですよ。じゃあ、勝負、しましょうか」
そうして僕らは、一、二、三、互いの位置について十を数える。
十秒経過、そして。
舞い上がった水飛沫、どうして僕の気持ちを知りたいのだろう、僕は彼女の言葉の意味を考えてしまったせいでコンマ一秒、出遅れてしまう。
思っていたよりもずっと速い、奈々子が水泳をやっていたということは、彼女から教えてもらっていたが、ここまでとは。気が付けば数メートル以上、普段の彼女からは、想像もつかないようなクロール泳ぎで僕との差が広がっていく。
マジかよ。
追いつけない、波の強さが原因なのかどれだけ身体を動かしても押し返されてしまう。そうこうしているうちに、奈々子が浮きへ到着し、こちらに振り返ると、僕を見て驚いたように目を見開き、そして笑った。
純粋で影のない喜々とした笑み、思わず見惚れてしまった僕は、一瞬だけ体の動きを止めてしまう。それがいけなかったのだろう、沈み始めた身体、足を慌てて動かすと変に力んでしまい、痛みが走った。
「ヤバいっ! 攣った! うあ」
そんな僕をさらに波が襲う、痛みに耐えかねて叫んでしまったがために大量の海水が肺へ入り込む。止まらなくなった咳と、半開きの口から容赦なく流れ込んでくる水により、呼吸が乱れる。乱れ、混乱、ここは遊泳エリアであり、冷静になれば焦る心配はどこにもない。しかしけれど、あまりの苦しさと突然のことに僕は、手足をばたつかせもがき、体を横転させてしまい、気が付けば全身が水中に飲み込まれていた。
目と鼻と口、穴という穴から水が入り込んでくる。もう、わけが分からなかった。
苦しい、想像を絶する苦しさに意識を保てなくなりそうだった。
「諦めちゃいけない」
意識を手放す直前、死にたくない、そう思った。
※