第四章 その二
午前零時、夜の海辺は、静かな波の音で満たされている。足取りの悪い砂浜のせいか、頬を撫でる風も向こう岸に見える東京の夜景も、時間そのものがゆったりと流れているように感じられた。奈々子が僕を連れ出したのは、気を遣ってくれたのかもしれない。ここは、研究所内よりも自分を落ち着かせられる場所だった。とは言え、奈々子が頻繁に足を取られて転びそうになるため、ときどきハラハラもしたが、「うわぁっ!」ついに転んだ。元々、運動神経が良いようには見えなかったけれど、予想通りだったらしい。
「大丈夫ですか? ほら、手」
「手……う、ううん。大丈夫、ありがとう」
一瞬、戸惑うような表情になって彼女は、僕の差し出した手には触れず、そのまま立ち上がった。再び彼女が歩き出して、仕方なく、その手の平に残った虚しさを僕は握り締める。彼女と学校外で時間を共にするのは、初めてのことだ。それもあって、彼女がどのような距離感で関わり合うことを求めているのか、正直なところ掴みかねている。そんなことを考えていると少し先を歩いていた彼女が振り返らずに言った。
「か、加藤君は、何か、私に聞きたいこと、ある……?」
聞きたいこと、聞くべきこと、考えて最初に浮かんできたのは、武村博士が僕と直接会って話をしてくれなかったことだ。
「え、えっと、それは、その、あの人も私と同じで、人と話すのが苦手、だから、かな」
で、でも、と彼女は続ける。
「わ、悪い人じゃないよっ。だって、あの人がアンドロイド開発に乗り出したのも、か、過労で母を亡くしたのがきっかけだし、ほ、本当に心から研究と向き合ってる。け、研究所のみんなも、だから叔母を尊敬、してる……ミオさんのこと、安心して託して欲しい」
人と話すことが苦手、だからこそ自身の研究に打ち込み誰かの役に立とうとしている。そんな人物像が奈々子と重なって、武村博士イメージしやすかったのかもしれない。
「そうなんですね、お母さんを亡くされて」
何より、奈々子の庇いたい人が悪い人だなんて僕には思えなかった。
「母を亡くした話はみんな知らない。だから内緒、だよ」
「わかりました」言った僕の声は、気が付かないうちに柔らかなものとなっていた。僕らの間に流れていた空気も、弛緩したように思う。もしこれが本当なのだとしたら、それは奈々子が僕の緊張や不安を和らげようと努力してくれたお陰だろう。そんな気がして、再び聞こえるようになった波の音の中、先輩との距離を一歩詰めて隣に並んだ。「この砂浜の奥に、良い場所があるの」
「この先にですか? へえ、どんな場所なんだろう。気になるなあ」
この砂浜の向こうにそんな場所があったなんて、夜間で視界が悪いというのもあるのだろうけれど、ここから見る限りでは太陽光発電のパネル群と船着き場、あと雑木林くらいしかないように思える。ふうむ、奈々子の秘密のスポットといった感じか。
「そこはいつも静かで、か、考え事するときとか、私もよく行く、よ」
そう話してくれた彼女に連れられ辿り着いた場所は、雑木林を抜けた先にあった岩場だった。そこは、比較的小さな岩が点々と足場を作っており、差し込む月明かりが岩と岩の間でたゆたう水面を照らしている。この場所が外から見えないようになっていたのは、東と西を囲うように存在していた雑木林と太陽光発電のパネル群が壁になっていたからだろう。
まさに隠れスポットと呼ぶに相応しい場所だった。だがしかし。
「奈々子先輩……ここ」
「そ、そう、なんだ……夜になると、か、カップルで、溢れちゃって」
目前に広がっていた景色、それは両手で数えきれないくらいの恋人たちの姿。いちゃいちゃいちゃいや、ホログラム通話も物理的にも。反リア充細胞が埋め込まれていない僕でさえ、一歩踏み出すことに躊躇いを覚えるレベルだ。
「さ、さすがに引き返しましょう」
そんな僕の撤退宣言に、しかし奈々子は、
「だ、駄目っ! きょ、今日こそ、が、頑張る!」
「え、ええっと?」頑張るって何を?
僕の頭の上に浮かんでいた疑問符など気にも留めず、言って奈々子は、岩場へと足を踏み入れようとする。そうして踏み出した一歩を呆然と見ていた僕だけれど、それはあまりに迂闊だった。
「う、うわぁっ!」
こちらの想像よりも、その小さな一歩は、海水に触れるか否かの高さにある岩の湿った側面に着地し、当然ながら砂地でさえ足を取られるような彼女が、上手く踏ん張れるはずもなく、次の瞬間にはその華奢な身体がひっくり返るような形で宙に浮いていた。
浮いていたのは、一瞬のこと。
僕が反射的に動き出す頃には、落下を始めていた。
「奈々子先輩っ!」
走り出して、少なくとも岩場よりは安定しているだろう浅い水面に片足を突っ込む。なに、片足くらいどうってことない。なんたって僕は、昨日だけでも二回以上全身びしょ濡れになっているのだ、覚悟が違うね。
そんな僕の咄嗟の決断力が結果に繋がったのか、彼女を背中から抱きしめる形で無事に転倒を防ぐことができた。まさに間一髪、見たところ彼女に怪我は見当たらない。被害があるとすれば僕のお気に入りのスニーカー二足くらいだが、夏の暑さにかかれば半日も掛からないだろう。神は、もう僕に全身びしょ濡れにならなくていいと、そう言っているみたいだ。「大丈夫でしたか、奈々子先輩」
そう思っている矢先、突然に僕身体は突き飛ばされた。
「さ、さ、触らないでっ!」
何が起きたのかを理解したとき、僕の身体は水面に吸い込まれるように落ちていき、
「マジかよ……」
気が付くと水面下から月を見上げていた。
あーあ、日付が変わったのに。どうやら僕は、今日も運が悪いらしい。
「ああ、ああ、ご、ごめんなさいっ!」
しかしまあ、何だか強引に抱きかかえた僕にも配慮が足りていなかったかもしれない。猛省すべき点だ、謝意を伝えようとして口を開くと海水のしょっぱい味がした。想像以上の塩辛さに、ごほごほと漫画みたいな咳が出てしまう。すると奈々子が、泣き出しそうな顔でこちらに駆け寄ってきて、首がとれるんじゃないかという勢いで頭を下げてきた。それは何だかヘッドバンキングしているみたいで面白い光景だ。
「わ、わわ、私って駄目な人間だあ。い、いつも、た、助けてもらっておいて、ひ、酷いこと……そもそも私の足が、も、もっと長かったらこ、こんなことには、な、ならなかった、よね。か、加藤君も、そ、そう思ってるはず……わ、私の短足に、あ、呆れてるはず」
そこなんだ、足のことなんだ。
びしょ濡れの僕を差し置いて、持ち芸のヒステリックを起こしたと思えば、何だか面白過ぎる被害妄想を働かせているようだった。可愛い女の子が泣きそうになっている、こうしてその姿を見ていると謎の背徳感がわいてきた。
「先輩のせいで僕はびしょ濡れですけれど、どうしてくれるんですか」
「ああ、ああああ、あああああっ! 後輩の服を濡らしちゃうなんて先輩としても人としても、ぜ、絶望的に終わっちゃってるよね! も、もう、いっそ、ここでタオル代わりに自分の服だけ残して、身投げすれば、す、少しは挽回、で、できるかな。で、でも、か、加藤君、私の服なんかで、体拭きたくない、よね。と、とりあえず、死んで考え、よっかなあ」
ここまで来ると想像を超える被害妄想力だ、死んで考えるなんて台詞生まれて初めて耳にしたかもしれない。とは言え、大粒の涙を流し始めた彼女を虐めるのもここらで潮時だろう。これ以上は、可哀想で見ていられなかったし、本音を言うと何だか面倒臭くなってきた。
「先輩、落ち着いてください。言うほど僕は別に気にしてませんから」
「ほ、本当に……? た、短足だって思ってない……?」
「思ってない、思ってない、全然思ってません。短足でも豚足でもなければ、先輩の足は、れっきとした人間の物ですよ」
「に、人間だなんて褒め過ぎだよ……や、優しいんだね。やっぱり」
そう言って徐々に落ち着きを取り戻した奈々子は、何だかちょろかった。
結局のところ、岩場から撤退することにした僕らは、明かりの消え始めた海岸沿いの街を歩いて研究所へ戻ることに。街が寝静まっても、横目に見える海の様子は変わらず静寂そのものだ、そう思って波の音に耳を澄ましていると奈々子が、呟くように言った。「私ね」
「こ、この前、男の人に乱暴されかけ、て、から、さ、触られる、のが、ちょっと、怖くて」
五月のこと、彼女は男子生徒に暴力を振るわれかけていた。それで男性が苦手になってしまうことには、納得がいくのだけれど、それならばどうして僕とこんな場所へ来たのだろう。不思議に思って尋ねると、
「か、加藤君となら、い、行けるかなあって、お、思って……だけど」
駄目だなあ私、そう言って彼女は、力なく笑った。
どうして、気になって僕は言う。
「僕とならって思ってくれたんですか?」
僕は、別に特別なことをしたわけじゃない。彼女の虐めを解決したのは、ミオだ。
奈々子は、考えるように唸って、言った。
「初めてだったから、かな」
「初めて……? それは助けようとした人ってことですか?」
「ううん。虐めに気付いて助けようとしてくれた人は、な、何人かいた、よ。だけど、ね、私が拒絶しても、それを許して、傍にいてくれた人。加藤君が初めてだった」
だからきっと、と彼女は続ける。
「吹っ切れて、頼ってもいいかなって思ったのかも。でも失敗して、挙句の果てには、酷いこと言っちゃった……優しいから許してくれたけど、傷つけちゃった、よね?」
傷ついてなんかない、そんなありきたりなことを返そうとした。
だけどそれは、彼女が突然立ち止まって意を決したように言った「あのね、加藤君」という声に止められてしまう。
街灯の光に照らされた彼女の表情は、冴え渡る銀の月のように真っすぐで綺麗で儚げ。
「こんなこと聞くのは、気持ちの悪いことだって分かってるけど、い、一回だけ」
僕は、彼女の言葉に耳を傾ける。
「か、加藤君はっ、わ、私のこと、へ、変だとお、お、お、思って、き、きき」
「うん、ゆっくりで、大丈夫」
緊張した様子の彼女を宥めるように僕は言う。意味があるのかどうかは、分からない。
「き、嫌いに、な、なったりしない……?」
「……」
「あ、あれ……?」
こちらが黙り込むと明らかに不安そうな表情になった奈々子、そんな彼女の様子に自然と笑みがこぼれてしまった。「な、何で、笑うのっ!」
「ごめんなさい、面白くてつい……でもまあ、正直なこと言うと」
「う、うん」
「変だとは思います。いつも一人で機械いじってるし、女子高生らしくないですよね」
感情が表に出やすいタイプなのかもしれない、僕が言うと奈々子の表情が顕著に曇った。思いのほか僕たちは似ているのだろう、自分という人間が変に思われていないか、嫌われているんじゃないか、意識するほどではないことも本気で気にしてしまう人間性。
僕は、そんな自分のことがずっと嫌いだった。
けれど、
「僕は、そんな奈々子先輩のこと嫌いになったりしませんよ」
今は、そんな面倒臭い、ネガティブな自分がいても良いのだと思っていた。
アンドロイドの彼女が、そう言ってくれたから。
「寧ろ、自分がどう思われているのか不安になってしまう先輩には好感が持てます」
だから僕は、今の自分のことを気に入っている。
「ほ、ほんとに……?」
「ええ、本当です」
そう答えると奈々子は、俯きながら、しかし緊張で強張らせていた表情を崩して言った。
「あ、ありがとう、嬉しい、な」
缶コーヒーみたいにぬるくなった空気、自然と僕の表情も綻んで自分から話し出してみようと思った。そうして僕らは研究所まで歩く、話していたようで話していなかった趣味やこだわり、教室のクーラーが壊れているとかそんな他愛のない会話のやりとりを夜の闇に響かせながら。
研究所の前で別れる直前、奈々子が世間話をするみたいにこんなことを言った。
「こ、今年の夏が明ける頃には、克服、したいな。男の子が苦手、なの」
奈々子が頬を赤らめ、何かを訴えるような目で、ちらちらとこちらの様子を窺う。まるで拾ってきたボールをもう一度投げて欲しそうな犬だった。「どうしたんです、急に」
「と、ということでっ!」
何だ、何だ、いきなり手を挙げて叫び出すなんて。
「か、加藤君には、そ、それをて、て、手伝って……欲しい、の」
言い終わる前にしぼんでしまった彼女は、それでも一応、自信なさげに手を差し出してきた。そしてその手の中には、見覚えのない薄桃色の小さな紙が握られている。
「遊園地に、行きたいです」
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