第四章 その一
緊急事態という言葉通りの事態に遭遇したのは、あれが人生で初めてのことだったかもしれない。大体、テストの一週間前だったり、朝寝坊しそうになったときだったり、冷静になれば、そんなに大したことのない状況に限って、その場の勢いや雰囲気で緊急だなんて言ってしまうことが大半だ。だけれど、今回ばかりは、真面目に緊急事態だった。
何せ、突然に友人が倒れたのだから。
それもアンドロイドの友人。
救急車を呼ぶべきなのか、警察を呼ぶべきなのか、はたまた何もしないでおくべきなのか、いや、そもそも携帯電話を携帯してないじゃん僕、という点で混乱した話は、さておいて。
結局のところ僕は、彼女のカチューシャ型携帯電話を借りて武村博士に連絡を取ったのだった。電話を掛けてワンコール、すぐに武村博士と繋がる。
「ああ、君が加藤君なのだろう。何が起きたのかは、分かっているよ。迎えを出そう」
そんな落ち着き払った第一声、それこそが彼女が僕個人に向けた初めての言葉だった。
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日野宮高校付近の沿岸部に建てられた巨大な箱型建築、その名もタケムラテクノロジーアンドロイド開発研究所。外観から内装まで建物の全てが白一色であり、受付のカウンターに置かれた観葉植物が必要以上に目立っていた。防犯対策なのか自動扉以外に透明なガラスは見当たらず、扉にしたって一つ一つに顔認証やら指紋認証のセキュリティが設けられていて、想像以上にハイテクな施設だった。凡そ僕みたいなアナログ人間とは一生涯縁のない場所だと思われたその受付、真っ白な壁にもたれ掛かる男子が一人。
それは、僕だった。
時刻は、二十三時二十四分、僕の腕で時を刻む赤い時計がそう示している。
「ミオ……どうしたって言うんだよ」
静謐な夜ではあるけれど、僕の心は決して穏やかなものではない。先ほど研究員らしき人にミオが運ばれたきり、一時間近く何の音沙汰もないのだ。しかし、そんな僕の呟いた声は、誰に拾われることなく自動扉から差し込む月明かりに溶けてなくなった。
故障だろうか、こんなとき僕に知識があれば心当たりの一つや二つ思い浮かんだのかもしれないけれど、今はこうして彼女の身を案じることしかできないのが歯痒い。あまりのどうしようもなさに思わず、大きな溜息が一つ漏れた。
「か、加藤君……!」
そのとき自動扉とは反対の方向、受付のさらに奥で誰かが僕を呼んだ。やっとミオが戻ってきたんだ、そう思って視線をそちらに向けるも、そこにいたのは。「奈々子先輩……?」
「今、叔母さんから、あ、えっと武村博士からミオさんの状態について話を聞いてきた」
黒のスラックスと白衣に身を包んだ彼女は、どうやら僕よりも先に研究所を訪れていたようだ。しかし、ミオが倒れて、そして僕がここに来るまでの間に大した時間は掛かっていないはず、それなのにどうして奈々子が先に。まるで、前もってミオが倒れることを予測していたんじゃないかと、そんな気がしてならなかった。
疑心暗鬼、僕は、自分が思っている以上に冷静さを欠いているのかもしれない。
無意識のうちに凝視していたのだろう、奈々子が僕の視線に気付いて、怯えた様子で目を逸らすと言った。
「こ、ここには、学校が終ってすぐ、き、来てた、よ。叔母さんから話があるって言われて」
「そう、ですか……あの、それでミオは?」
「く、詳しく調べてみないと、わ、分からないって……で、でも安心して。叔母さんの作る機械は、簡単に壊れたりしない、から。そ、それから、これ」
言って手渡されたものは、携帯電話、スマートフォンだった。
「長期メンテナンス……らしいから、一応。私とミオさんの連絡先が入ってる」
メンテナンスが明けたらすぐに連絡が出来るようにということだろうけれど、ただ待っているだけだなんて。第一、どうして博士が出てこないのだろう、僕に話せないくらい状況が深刻なんじゃ。
ミオ、これじゃあ良い休日なんて過ごせそうもない。
「か、加藤君」
数時間前までは、この時間が続けばいいと、そんな風に感じていたのに。
それなのに腕時計の針は、二十三時半を回っている。「ね、ねえ!」
「え?」
迷路のような思考から僕を引きずり出したのは、奈々子の緊張した声だった。
「す、すす、少し、外、歩こうよ」
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