第三章その四
目が覚めて、最初に見えたのは赤茶げた木目の天井だった。白い壁、いや、障子だろうか、畳の匂いもするし何だか暖かい、少なくともここが野外ではないことを理解して、身体を横に、寝返りを打つ。そうして分かったことは、この部屋が六畳ほどの和室であること、僕の身体の上に毛布が掛けられていたことと、それから、肌触りが良いと思っていたら服を着替えさせられていたことだ。情報量が多くて頭の回転が追い付かない、何とか身体を起こして周りを見渡すと十九時を示した壁掛け時計が目に入った。一時間ほど眠っていたようだけれど、まだ全快とはいかず、頭が少し、ずきりと痛む。思わず、額に手を当てると隣で声がした。
「あ、やっと目を覚ましたのねえ。体調はどう? まだ具合悪い?」
傍で見守ってくれていたのか、見知らぬ女性が正座したまま、僕に話しかけてくる。物腰柔らかな話し方と優しい声だ、こちらの身を案じているようだった。
焦点が合わず、仕方なく僕は、彼女を凝視する。
「えっと、その、良くなりました」
「それは良かったわあ、寒くない? 飲み物持ってきましょうか?」
ぼんやりとしていた視界の焦点がようやく合い、はっきりとその女性の顔を認識すると、なるほど、道端で倒れた僕をここまで運んでくれたのは、あの運転手だった。
白髪混じりの茶髪、目尻にできた笑い皺、目鼻立ちの整った綺麗な人だ。
「ああ、いえ、お構いなく……というか、ありがとうございます。着替えまで」
「いいの、いいの。主人の着てなかったやつだし。いやあ、でも、見つかって良かった。犬の散歩をしていたら角を曲がったところで、落とし物を見つけてね。多分、あなたたちの物なんじゃないかと思って、車で探していたのよ」
飼い主さんだった。
運転手、落とし物、ミオの贈り物。
ああ、そうだ。「あの、僕と一緒にいた女の子は……?」
「ああ、あの子なら」と話し出した彼女の言葉に僕は、耳を傾ける。彼女は、僕が眠っていた間、ミオが傍を離れようとしなかったことや、とにかく心配そうにしていたことを教えてくれた。何でも、あまりにも震えが止まらない僕を温めようと車内で抱きしめてくれたらしいが、冷静に考えると彼女の冷たい身体や濡れた服のことを考えると、逆効果な気がしなくもない。とは言え、女性は話の中でミオのことを褒めに褒めまくっていた。
「ほんと、気遣いができて、優しくて、おまけに美人さんだし、今どきあんな子珍しいわよ。私の娘にも見習わせたいくらい。ねえ、彼氏さんなんでしょう? 大切にしなさいな」
「いや、えっと、はい」
残念というか何というか、僕はミオの彼氏ではなかったのだけれど、でもまあ、彼女が僕のことをそこまで心配してくれていたというのは、素直に嬉しいことだ。彼女は、常にツンツンしているというか冷たいというか、ともかく、思わぬところで見えた彼女の一面だった。
「それで彼女は、どこに?」
「ああ、それなら今」
女性が話していると障子が開いた。そこで立っていたのは、目覚める前とは違った服に身を包むミオだった。
彼女と目が合って、しかし、すぐには言葉が出てこない。
洗い立てのような艶やかな黒髪ロング、額を飾る赤いカチューシャ、白のリボンタイブラウス、藍色のロングスカート、彼女を上から下まで見下ろして、もう一度視線を上げようとして、アンティーク調の銀色スケルトン腕時計が反射し鈍く光った。
「ど、どう……なのよ」
聞かれて、心臓が一度大きく音を立てる。そんなの、言葉が出てこないくらい。
「似合ってるよ」
僕がそういうと彼女は、瞼を大きく開き、ほんのりと頬を赤く染める。それから視線を逸らすと左手で髪をかき上げて言った。
「あ、ありがとう……でも、そうじゃなくて、体調の方よ」
「ああ、えっと、大丈夫。心配してくれて、嬉しいよ」
普段の僕らしくなかったかもしれないけれど、今は嘘をつく必要などない。思ったことを思ったままに伝えることにした。
「嬉しいとか変なこと言わないで。そんなの当たり前でしょう」
そんな僕の態度に動揺したのかミオは、視線を泳がせて、しかし、仕返しとばかりに僕を睨みつける。思えば、彼女に対して素直な気持ちを伝えたことなんて数える程度しかなかったかもしれない。こんな風に照れたりすることを知らなかった。
ならば今日は、出来る限り素直でいよう。明日も素直でいられるかは、分からなかった。
だから僕は、今日のこと、今の光景を忘れないよう、記憶に留める。
「あのーお二人さん、おばさん、いない方がいい?」
※
しかしながら、とんでもない偶然もあるものなんだなあ、と僕は思った。あのチワワの飼い主さんがミオの落とし物を拾ってくれた女性で、僕を助けてくれた運転手さんもまた同じ人で、そこまでは、まあ、可能性として充分にありえる話なのだろうけれど、ミオが会いに行く予定だった「彼」の奥さんが、この女性だったとは。
奥さんがいる、ミオはそんな人を好きになってしまったのか。いやはや、アンドロイドとは言え、どこの女子高生も、と言うと反感を買いそうだけれど、年上男性を好きになりやすいという僕の密やかな偏見は正しかったようだ。
学校教師と生徒。
奥さんには、申し訳ないけれど、ますますいけ好かない男だぜ。
そんなことは、さておいて、僕としては。
その話を聞いたとき、少々出来過ぎた偶然だとも思ったのだけれど、なあに、気にする必要はないだろう。ここまで来るのに、あれだけ大変な苦労をしてきたのだから、そろそろ僕らの戦いも幕を引いていいはずだ。
どんな偶然も奇跡も因果関係も、今は必然だと信じようじゃないか。
「主人は、あと三十分もすれば帰ってくると思うわ。それまでは、居間で寛いでてね」
そんなこんなで、心優しき奥さんの気遣いに甘え、僕らは居間へ向かったわけだけれど、そこにはなんとチワワが、あの最強AIをも恐怖で震撼させたお犬様が鎮座していたのだった。「わんっ」
「何やってるんだミオっ!? その凶器を人様の家の中で使おうとするな!」
再び、そんなこんなで、結局のところ僕とミオは、布団が敷いてあった寝室にて待たせていただくこととなった。
旦那さんを待つことになった三十分、緊張しているのだろうか、ミオは壁掛け時計の前に正座してずっとその秒針を見つめている。頭がおかしいのは元々だとしても、少しだけ心配になった僕が彼女に声を掛けようと立ち上がった、そのとき、
「ミオちゃん、良かったらこれも持ち帰って」
障子が開いたと思うと、そこに立っていたのは、両手に大きな紙袋を持った奥さんだった。
「これ、娘の服なの。もう使わないから」
紙袋の中をぱっと見ただけでは、何着入っているのか想像もつかないほど重ねられた古着だった。僕には関係のない話だったけれど、驚きから思わず口を挟んでしまう。
「いいんですか、こんなに。娘さん困ってしまうんじゃ」
奥さんの優しい人柄もあってか、何の考えもなしに聞いてしまった僕は、そのことを後悔した。彼女は、一瞬視線を泳がせて、それから微笑みを浮かべるとどこまでも優しい声で、答える。それは、その口から発せられた言葉とは正反対の声音で、しかし、僕に気を遣わせない、そんな思いやりも込められていたのだろう。
「娘はね、二年前に交通事故で亡くなったの。だから、おばさんとしてもこの服としても、ミオちゃんに使ってもらえると嬉しいのよ」
それなのに僕は、「ごめんなさい」と沈んだ声で言ってしまった。
もっと、明るい色を込めるべきだっただろう。
「良いのよ。一年前までは娘のことを思い出して、毎日のように泣いていたのだけれど、今は、主人のお陰かしら。あの人が連れてきてくれた子犬と一緒に生活して、少しずつではあるけれど、身の回りのこともできるようになってきたの」
それに、と彼女は、ミオを見て続ける。
「いつまでも悲しむのは、娘が可哀想じゃない。私とあの子が一緒に過ごしてきた時間は、悲しいことばかりじゃない、幸せが詰まっていた時間だから……ふふ、ミオちゃん、あなたがその服を着てくれたとき、少しだけその幸せを取り戻せた気がしたのよ」
次の一言、僕は、彼女の心からの言葉を、きっといつまでも忘れない。
「すごく、似合っているわ」
何回も何十回も、その言葉が胸の奥で響いた。
本当は、その言葉は、娘のためのもの。
それなのに、これだけの優しさをもって、真心をもって、ミオにその想いを伝えられる。
この人は、素敵なお母さんだったのだろうと。
僕は、奥さんの細められた目、その瞳の奥にそんなことを思った。
「ありがとうございます。ぜひ、持ち帰らせていただきます」
そう言って、立ち上がったミオは、奥さんの元へと歩いていく。
てっきり僕は、紙袋を受け取りに行ったのだと思っていたが、違っていた。
「ミオちゃん……?」
彼女は、歩み寄って、そのまま奥さんを抱きしめた。
包み込むように優しく。
「亡くなった娘さんは、お母さんのこと……大好きだったと思います」
「…………」
「まだ、思い出して、きっと、辛くなることもあるかもしれませんが、お母さんを愛して、慕って、傍にいてくれる人は大勢いるはずです。だから、これからも先生と、それから、あの可愛らしい子犬と精一杯、楽しく、幸せになってくださいね」
そして、一歩。
ミオは、距離を取った。
その表情は、僕からじゃ見えなかったけれど、
「今のお母さんを見たら、天国の娘さんも、新しい一歩を踏み出せると思います」
きっと、本当の微笑みを浮かべている、そんな気がした。
それからミオは、紙袋を受け取り、真っすぐな背を折って深々と一礼する。その角度は、九十度くらいだろうか、娘への追悼も込められていたのかもしれない。
「今日は、ここらでお暇させていただきます。先生も残業で疲れていると思いますので、プレゼントも機会を改めて尋ねさせていただきます。過分なもてなし、感謝申し上げます」
そう言って振り返った彼女は、僕に表情を見せず玄関へと歩き出す。僕には、そっけないと思えるほどに迷いのない一歩だった。しかし、そんな彼女を奥さんが呼び止める。
「ね、ねえ、あなた……」
ミオは、それでも振り返らずに答えた。
「私は、先生の教え子で、娘さんの後輩です」
「そう」
「ええ」
「元気に、ね」
「ええ、ありがとうございました」
それを最後にミオは、部屋を出て行った。二人の様子を呆けて見ていた僕だったけれど、はっとして慌てて奥さんにお礼を伝え、ミオの後を追った。
淡々と、玄関で靴ひもを結んでいた彼女の隣に腰を下ろし、僕もまた自分の靴ひもを結び直す。何かあったんじゃないかと思って、奥さんを抱きしめた理由を聞こうとしたが、結局僕は、その横顔を見て聞くのをやめた。
何でもない、いつもの顔だ。
尋ねたところで、からかわれるか、突飛なことを言いだすかのどちらかだろう。いずれにしても本当のことは、話してくれない。そう思って、僕は関係のないことを言った。
「満足したのか?」
思えばこれは、彼女に連れられて始まった誕生日プレゼントを贈るちょっとした旅だ。
「ええ、満足よ。思っていた以上に、ずっと、ね」
だからまあ、彼女が良ければそれでいい。「そうかい」
言って僕は、靴ひもを固く結んだ。
※