第三章 その三
ぽつり、ぽつりと雨が降ってきて、次第にそれは土砂降りとなった。良くも悪くも、それは天気予報通り。傘を忘れてきたせいだ、僕はずぶ濡れになった。
「ミオ、こんなところにいたのか」
迷路のような住宅街を歩き続け、偶然見つけた東屋のある小さな公園、そこでミオは、一人ポツンと、雨に濡れながら立っていた。びしゃびしゃだ、自慢の黒髪もせっかくのお洒落な服装も高価そうな腕時計も。僕は慌てて東屋の中に彼女を連れていき、椅子に座らせる。
屋根の外は、雨の音で随分と騒がしかったけれど、屋根の内側は、世界が切り離されたように静寂を保っていた。どうしたんだよ、僕は物憂げな表情のミオに問いかける。
「私、その……落とした」
「落としたって?」
僕が訊くと彼女は、ばつが悪そうに俯いて答えた。
「プレゼント」
そう言われてみると彼女は紙袋をもっていなかった。どこで失くしたのかも分からないらしいけれど、きっとあの犬と出会った十字路だろう。僕は東屋の外を見て、思わず漏らしそうになった溜息を抑え、椅子を立った。
「どこに行くのよ」
「どこって、取りに行くに決まってるだろ」
「この雨の中、そこまでしてもらわなくていいわ。プレゼントだってびしょ濡れよ」
それは一理あるかもしれないが、果たしてそんな簡単に諦めていいのか、午前中一杯悩むほどに、想いを込めた贈り物だろうに。たとえ彼女がそれで良くても僕が納得できそうもない、一歩東屋の外に踏み出すと強い口調でミオに呼び止められてしまった。
「待って……話すから、本当のこと」
「本当のこと?」躊躇いながらもようやく引き出した、そんな彼女の言葉に僕は、首を傾げる。今日のミオは、心なしか変だ。
「私、やっぱりプレゼントを渡すのは、やめようと思うの」
やっぱり変だ、僕の中でふわふわしていた違和感が確信に変わる。「どうして?」
「午前中一杯悩んでいたというのは、嘘。本当は、ずっと渡すべきかどうか迷っていたのよ。だって私は、彼のことを大切な人と言ったけれど、相手にとってもそれが同じかどうかは分からない。ううん、多分私だって気付いてさえくれないわ」
自分の一方的な感情なのではないか、そう思って踏みとどまってしまうことは、誰にだってあるだろうし、コミュ障の僕だからこそ、その怖さについては人一倍分かっていた。けれど、人間関係のファーストステップなど大体そんなもの、僕とミオだって彼女が友達になろうと言ってくれなければ、今頃何でもないただのクラスメイトだっただろう。
「それに、せっかくここまで来たんだ。その人に会うために、その、お洒落までしてきたんだろ? だったらここで諦めるのは、勿体ないって」
普段は、どんな時も冷静で、その上自信過剰。しかし今は、正反対なミオに僕は言う。励ましたいという思いともう一つ、僕の個人的な興味を加えて。
「その人と初対面ってわけじゃないんだろ? 話したことは?」
「……ある」
次の質問を言葉にしようとして、臆病な心が一瞬、喉の辺りでストッパーとなる。けれど、最終的には、興味が勝って詰まっていた言葉を押し出した。
「その彼とは、どういう関係?」
「それは、その……」
僕とミオは、ただの友達。それなのに、彼女が次の言葉を探して視線を泳がせると、突然に疼き出した胸が切なくなって、どうにも落ち着かなくなる。きっと僕だけだ、僕が一方的に彼女へ執着心を持ってしまっている。それを悟られないように、いや、多分無理だろうな、それでも出来る限り自分を押し殺して彼女の言葉を待った。
ああ、今の僕ってすげえ面倒臭いな。
「上手くは言えない。だけれど、大切な人……」
自分という人間に気持ちの悪さを感じながら、もしかしてだなんて期待していた僕は、しかし、既に裏切りの予感を察していたにもかかわらず、怖いもの見たさで追及してしまう。
「好きなの?」
言った僕は、少しだけ興奮して血の巡りが速くなっていた。
「……愛しているわ、昔も今も」即答できるほどに。
「そっか」
沈黙が生まれたその瞬間、身体の内にこもっていた熱が消え失せて、速まっていた血液の循環が元に戻る。その間もミオの「愛している」が胸の中で何度も響いていた。
何だかそれは、合格するかもしれないと期待していた高校受験が不合格だったときの放心状態に似ていて、何も言えずに僕は立ち尽くした。
途端、ぱちんと小さな音がして、ミオが立ち上がる。
「あなたの言う通りね……加藤君」
どうやら自分の頬を叩いたらしい、それから彼女は、喜怒哀楽の表情を二度、三度と繰り返し作って、いつも通りの真っすぐな目で僕を見て言った。迷いのない声だ。
「こんなところで尻込みしている暇は、なかったわね。私、行ってくるから、あなたは雨に濡れないようここで待っている? それとも付いてきてくれるのかしら?」
僕は、卑怯な人間だ。自分の執着心から出てしまった醜い言葉の中に、彼女が励ましの意味を見出して、それを訂正しようとせずに首を縦に振ってしまった。「付いて行くよ」
彼女にとって良い人であろうとしてしまう、それが本当の善意ではないことを理解していながら。僕は自分の醜さを霧の中に隠した。
※
視界不良の激しい雨の中、僕とミオは傘も持たずに住宅街を歩いていた。赤く輝く便利カチューシャが傘や雨合羽なんかに変形してくれないかなあ、なんて期待したけれど、さすがにそれはできないようだ。当然ながら僕らは、またしてもびしょ濡れになった。
「多分、あのチワワと出会ったところだと思うの」
正直、思い直してくれたミオに申し訳ないけれど、贈り物が見つかって欲しい気持ちと、そうでない気持ちの間で、僕はもやもやとしている。その理由は分かっていた、ミオが彼のことを愛していると言ったこと、彼女の言葉が引っ掛かっている。
醜い下心だ、心から彼女に協力したい素振りを見せておきながら、本心では自分の願望、彼女から特別に思われたいという自己の欲求に従っている。性質が悪いのは、その特別がどういう意味なのか、友達としてあるいは異性として、そういう本質を僕自身が理解していないことだろう。理解していないのではなく、理解しようとしていないのかもしれない。
何だか、自分が気持ち悪くて嫌になりそうだった。そんな自分を放置しながら僕は、ミオの後ろに続いて歩く。
「この辺り、だったかしら」
住宅街から歩行者用道路に通じる十字路へと辿り着いて、ミオは付近を捜索し始める。乗り気でないとはいえ、何もしないわけにはいかず、僕も反対車線を歩いてみたり、住宅街のゴミ集積所をそれとなく覗いたりしたが、中々見つかる気配がない。いいや、見つけたとしても果たして今の僕は、そのことを彼女に報告したのだろうか。自問に思考を支配されて、次第に僕は、アスファルトの上に落ちていた小石にさえ気が付けなくなった。
「ミオ、見つかった?」
病は気からとは言うけれど何だか本当に気分が悪くなってきた、捜し始めてから一時間半ほど経ち、夜の気配が近づいてきて視界も悪くなる一方、依然として勢いが収まらない雨に打たれ続けている。服も靴も雨水を吸い込んで随分と重くなり、状況は最悪だった。
「ううん、見つからないわ……ねえ加藤君」
先ほどから繰り返しているやり取り、その中に突然混じった僕の名前は、今までの言葉とは異なる色を持っていて、それに反応した僕はミオの方へ振り向く。
振り返った僕を待っていたのは、
「もう、諦めましょう」
綺麗で、優しい微笑みだった。
「加藤君、何だか体調が悪そうよ」
それは教室で彼女が大勢に見せている姿で、本当の彼女とは異なる表面だけの顔。
体調が悪い、気分が悪い、それは自覚している事実だったけれど、そんなことがどうでもよくなってしまうくらいに僕は、
「……嫌だよ、まだ捜そうよ」
彼女から向けられた微笑みに、優しさに、気遣いに、距離感に傷ついてしまう。面倒な感傷、手放した方がずっと楽なはずのそれを隠したまま僕は、再びアスファルトに視線を向ける。そんな僕の背中に発せられた音は、柔らかな声だった。
「ありがとう、もう少しだけ頑張ってみるわ」
隠しきれたことへの安心とは裏腹に、それ以上の寂しさを覚える、抱えてしまった感傷に心の何処かでは気が付いて欲しいという僕の真意が届かなかったからだ。
訳が分かんねえな、僕って。
ぐちゃぐちゃで、ぼろぼろで、吐き気がしそうな心を殺して踏み出した一歩。
「加藤君……? 加藤君っ!」
視界がぐらついて、空が突然、目の前に現れたと思うと、背中に強い衝撃を感じて、脳みそが揺れた。身体がだるくなってきたな、何だか吐き気もするし、気持ちが悪い。駆け寄ってきてくれたミオに抱き起され、僕は自分が転んでしまったことに初めて気が付いた。返事をしようとするも声が変に震えてしまう。寒い、長い間雨に打たれ過ぎたんだ。
そのとき、クラクションが鳴って一台の車が僕らの近くで停車した。
「どうしたの? あれ、あなたたち」
降りてきたのは、ぐらつく視界のせいではっきりとはしないが、声からして中年女性のようだ。それ以外は、何も分からない。
「これ、届けようと思って……それどころじゃなさそうだわ、熱があるみたい」
そう言って、僕の元へと駆け寄ってきた彼女が、目の前に茶色い何かを置いた。
段々と遠ざかっていく意識の中で、瞼を閉じる寸前に僕は、それがミオの捜していた紙袋であることを確かに見たのだった。「ああ、良かった」
呟いて、僕の意識は瞼の裏に消えてしまった。